第9話 神の子

私がようやく泣き止んで、顔を拭いて下に降りて行こうとしていたちょうどその時、ご主人が部屋をノックしてきた。


絶妙のタイミングにご主人の思いやりと優しさを見た思いがした。


一刻も早く病院にいきたかったはずなのに。

私は自分のことしか考えられなかったことが恥ずかしい。


ご主人は落ち着いた様子で笑顔で行きましょうか?

と声をかけてくれた。


病院に着いた時はすでにお昼過ぎだった。


さらは少し広い個室に移されていた。

ご主人はさらとのお別れをふさわしい場所で過ごしたかったのだろう。


私達は目を瞑っているさらの横で静かに立ちすくむ。

何も言えない。


ご主人の目から大粒の涙が溢れていた。

そしてゆっくり私の方を振り向いて、

悲しみを耐えながらの笑顔で言った。


「映美さん、二人だけにしてほしい」


私は軽く頷いて部屋を出て、廊下の椅子に浅く座った。


椅子に腰を下ろして、五分くらい経った時、部屋からゴンッ!という鈍い音と、小さな振動が伝わってきた。


びっくりしてしまった。

何かあったのだと心配になり、確認しなければという思いを抑えられない。


2人だけにしてほしいと言われていたので、心が咎めたがスライドドアを音を立てないようにそっと五センチほど開けて中を覗いてしまった。


ご主人が立っていられないほど力が抜けたのだろう。

両膝が床に落ちていた。

その音だったのだ。


両手でさらの左手を頭の上で優しく包み、おでこをベッドの脇にピッタリつけて声を殺して泣いている。


ドアをゆっくり閉めた。

覗いてしまった後ろめたさに襲われる。


しばらく止まったような時間が流れた。

それから20分ほどしてご主人が目を真っ赤にして部屋から出てきた。


優しい笑顔で

「It's your turn」

「あなたの番です」

と言ってくれた。


部屋を覗いてしまったことは黙っていた。

自分の心を軽くするためになんでも正直にいうべきではない。


私の番だ。

さらとの最後の時を迎えることになるのだ。


静かにドアを開けて部屋に入る。

さらと2人だけの世界。


私とさらの時間が終わるとご主人は人工呼吸器を外してもらうように医師に伝えるはずだ。


いや、もう伝えているかもしれない。

本当にさらとの最後の時になってしまうのだ。


この部屋に入った時、不思議な感覚があった。

さらと二人だけの部屋だと思えない雰囲気が漂っていた。


私とさらともうひとり、サラの友達イエスキリストがここにいるのかもしれない。

そんな気がした。


今まで味わったことのない世界がこの部屋に充満している。


私はイエスキリストの十字架の本当の意味が分かりそうな気がしていた。


誰かに言葉で説明出来るような分かり方ではない。


さらの命、さらの死もさらの復活もイエスキリストの十字架の中にある...。


(今ははっきりわからなくてもあなたにもわかるようになるよ)と、さらはいつも優しく教えてくれていた。

今がその時なのかもしれない。


胸の高鳴りを強く感じる。

今がその時だと内なる声が聞こえてくるようだ。


これ以上、私の決断を先延ばしにするべきではない。


時をわきまえたい。

私は神を信じるという瞬間を迎えようとしていた。


ゆっくり目を閉じてみる。

自分の心の中を覗いてみた。

一点の曇りもないことが確認出来た。


それから私は床に目をやり、ゆっくり左足を一歩前に踏み出す。

次に右足を左足にピッタリ揃えた。なんでそんなことをしたのかその時はわからなかった。


私の中で一歩踏み出すということを体ごと体感したかったのかもしれない。


その瞬間、私の中でキリストの十字架、埋葬、復活をはっきり信じる決心が固まった。


私は神を信じるという一線を超えたことをはっきり自覚した。


人は神を信じた瞬間に、死んでいた霊が生きた霊になり、聖霊がその人の中に入って住まわれる。


さらがいつか話してくれていたことが、私のこの身に起こったのだと思った。


さらを新しい目で見つめているような不思議な感覚がある。


私の目の前で横たわっているこの女性は神に従うことを心から決心していた人間だ。


神がいつも彼女と一緒にいる。

さらの眼差しの美しさは神からの贈り物だったんだ。


神からの使命を受けてそれを行動していた人だった。

だから私に寄り添ってくれていたのだ。


個人的に私に好意をもっていてくれていたのも、妹のように思っていてくれたのも本当だとは思うが、それ以上に神に従っていたのだ。


私は新しい理解の扉が開かれたように感じていた。

私は神に感謝するという思いを生まれて初めて知った。


さらに巡り合わせてくれた神に心の底からの感謝が湧き上がっていた。


さらの顔の近くに寄って、さらの後頭部を優しく右手で少し持ち上げ、左手をさらの背中の下にしっかり差し込みゆっくり右手も背中に持っていき両手でさらの身体を抱きしめた。


身体はしっかり暖かい。

さらのあの(心と心の会話だよ!)という声が聞こえてくるようだ。


さらを抱きしめ、震える声で心を込めて言った。


お友達になってくれてありがとう。

たくさんの励ましと慰めをありがとう。


こんなお別れになるとは思ってもみなかったけれど、逃げないで全部受け取るよ。


さら本当にありがとう。

あなたがくれた宝物を大切にして生きていくよ。


それだけ言い終わると自然に私の腕がさらからほどけていった。


生涯忘れられないハグが終わった。

私はこのさらの身体のぬくもりを決して忘れないだろう。


廊下に出るとご主人は窓からのオレンジ色の光に照らされながら、神と会話しているように見えた。


私は近寄って、頭が膝につくくらいお辞儀をしてありがとうございましたと心を込めて日本語で言った。


ご主人は私の肩を優しくさするようにそっと手を置いてくれた。


そして言った。

「イエスキリストを信じたんだね。」

It's written all over your face.

(顔に書いてある。)と言った。


「さらに報告させてもらうよ。

もう知ってると思うけど...」

ご主人は言葉を続けた。


「さらは夕暮れの時間が1番好きだったので、今日暗くなる前に人工呼吸器を外してもらうよう医師に伝えました。


私は一度家に帰りさらの好きな洋服とアクセサリー、そして花を買って戻ってきます。

あなたはここにいてさらと最後の時を過ごしていて下さい。」


そう言って振り向いて車に向かった。振り抜きぎわにご主人の声にならない声が漏れていた。


泣いていた...。


胸が締め付けられる。

でも、逃げることはできない。


こんな時には深呼吸など何の役にも立たないことを思い知る。


夕方、空が今まで見たこともないくらい綺麗な茜色に染まっていた。


ちょうどその頃、ご主人が病院に戻ってきて、担当医と何かを話していた。

医師は神妙な顔だ。


そしてご主人の顔は苦悩に歪んでいるのがスライドドアの窓から見えた。


私はウェットタオルで丁寧にさらの顔や腕を拭いていた。

ほかに何もできない。

涙ですぐさらの顔がぼやけてくる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る