【第2話】金髪剣士と、彼女の選択

ケントは、教会を振り返らなかった。




 あの場所に残れば、


 優しさと善意が、また何かを奪っていく。




 それを、もう分かっていたからだ。




「……旅に、出るんですね」




 荷をまとめる彼に、クレアはいつも通りの穏やかな声で言った。




 引き留めるでもなく、




 理由を問うでもなく。




「この近くに、旅人が集まる場所がありますよ。


 国を越える人や、傭兵、冒険者……仲間を探すなら、きっと」




 それは助言であり、


 同時に、別れの言葉だった。




「ありがとう」




 それだけ言って、ケントは家を出た。




 クレアは微笑み、手を振る。




 誰にでも向ける、あの笑顔で。




 ――それで、よかった。




 そう思わなければ、前に進めなかった。














 旅人の集会場は、小さな国境都市の外れにあった。




 酒場を兼ねた広間。




 掲示板には依頼書が貼られ、


 鎧や剣を身に着けた者たちが、思い思いに声


を掛け合っている。




 仲間。パーティ。目的の共有。




 かつての自分なら、


 この場所に立つことすらできなかっただろう。




 ケントは、壁際に立ち、周囲を見渡した。






 そのとき――




 視界の隅に、ひとりで座る人物がいた。




 赤い髪。




 無造作に束ねられ、肩にかかっている。




 革鎧の上からでも分かる、鍛えられた体つき。




 剣は、手の届く位置に置かれていた。




 彼女は、誰にも声を掛けず、


 誰からの誘いにも応じていない。




 ただ、苛立ちを隠さない目で、周囲を睨んでいた。




 ――あの人も、ひとりだ。




 気づけば、ケントは彼女の前に立っていた。




「……あの」




 声を掛けた瞬間、


 鋭い視線が突き刺さる。




「何?」




 短く、強気な声音。




「仲間、探してるんだろ?」




 彼女は一瞬、ケントを値踏みするように見た。




 華奢な体。




 武器も最低限。




 強者には見えない。




「……あんた、剣は?」




「使えない」




「魔法は?」




「少しだけ」




 正直に答えると、彼女は舌打ちをした。




「やっぱりね」




 立ち上がろうとする彼女を、ケントは止める。




「……でもさ」




 自分でも驚くほど、静かな声だった。




「ここに何度も来てる。


 それって、何か目的があるんだろ?」




 彼女の動きが止まる。




「……聞くの?」




 赤髪の剣士は、腕を組んだまま、ケントを睨んだ。




「弟が、魔物に攫われた」




 その瞬間、彼女の表情が変わった。




「塔にいる。


 あそこは、子どもを攫う魔物の巣だ」




 怒りと焦りが、隠しきれない。




「何度もここに来た。


 でも……」




 視線が、周囲に流れる。




「私の性格が気に入らないらしい」




 自嘲気味に、そう言った。




 ケントは、少しだけ考え、言った。




「俺も、ひとりだ」




 彼女は、じっと彼を見つめる。




「……名前は?」




「ケント」




「マリア」




 短く、はっきりと。


 赤髪の剣士――マリアは、剣に手をかけた。




「弱くてもいい。


 逃げないなら」




 その言葉は、


 クレアの優しさとは、まったく違うものだった。




 それでも、ケントは頷いた。




「逃げない」




 それだけは、確かだった。








集会場の空気は、酒と汗と欲で濁っていた。




 マリアは、ケントの少し前を歩いている。




 背筋を伸ばし、周囲を睨むその姿は、弱さを許さない刃のようだった。




 だが――


 視線は、確実に彼女に集まっていた。




「おい、姉ちゃん」




 鎧を着崩した男が、酒杯を片手に声をかける。




「一人か? 良かったら――」




 言葉の途中で、視線が彼女の身体をなぞる。




 隠す気のない、露骨な欲。




「興味ない」




 マリアは即座に言い切った。




「冷たいなぁ」




 別の男が笑いながら近づく。




「仲間探してるんだろ?


 夜くらい、付き合っても――」




 その瞬間、マリアは足を止め、男たちを睨みつけた。




「好きでもない人と、する気はないわ」




 はっきりと、迷いなく。




 その言葉は、場の空気を一瞬凍らせた。




「……なんだと?」




「勘違いしないで。


 私は仲間を探してるだけ。


 身体を売るつもりはない」




 毅然とした態度。




 拒絶は、完全だった。




 男たちは舌打ちし、つまらなそうに離れていく。




「生意気な女だな」




「だから一人なんだろ」




 吐き捨てるような言葉が、背中に投げられた。




 マリアは、振り返らなかった。




 だが、衝突はそれで終わらない。




「で?」




 今度は、別の一団が声を上げた。




 彼らの視線は、マリアではなく――


 その後ろに立つケントへ向けられている。




「そいつか?」




 一人が、鼻で笑った。




「そんな細っこいの連れて、どうすんだよ」




「剣も持ってねぇじゃねぇか」




「魔物に会ったら、真っ先に死ぬタイプだな」




 笑い声が上がる。




 ケントは、何も言えなかった。




 反論する言葉も、実力も、




 まだ、ない。




「……あんた」




 マリアが、低い声で言った。




 男たちを見る目は、怒りに燃えている。




「私が誰を連れるかは、私が決める」




「は?」




「弱い? だから何」




 一歩、前に出る。




「弱くても、目的がある人間の方がマシよ。


 あんたたちみたいに、女を品定めするだけの連中より」




 空気が、張り詰める。




 男の一人が、肩をすくめた。




「……忠告してやってるんだ」




 ケントを指さす。




「そいつは足手まといだ。


 守る価値もねぇ」




 その言葉が、胸に突き刺さる。




 ――分かっている。


 ――だからこそ、何も言えない。




 マリアは、ちらりとケントを見た。




 そして、言った。




「それでもいい」




 迷いはなかった。




「私が選んだ。


 それだけで十分」




 男たちは、つまらなそうに背を向ける。




「勝手にしろ」




「どうなっても知らねぇぞ」




 彼らが去ったあと、


 集会場の喧騒が、再び戻ってきた。




「……悪いな」




 ケントが、絞り出すように言う。




「弱いのは事実だ」




 マリアは、鼻で笑った。




「分かってる」




 だが、その声に、軽蔑はない。




「だから?」




 彼女は剣に手を置き、言った。




「強くなる気があるなら、問題ない」




 その言葉は、


 かつての優しさとは違う。




 守るでも、与えるでもない。




 選び、共に進むという意思。




 ケントは、静かに頷いた。






 ――この人は、クレアとは違う。


















塔へ向かう前に、マリアは言った。




「このままじゃ、あんた死ぬわ」




 率直で、容赦がない。




「だから、少し鍛える。


 一週間。できる範囲で」




 拒否する理由はなかった。




 野営地は、街道から外れた林の中だった。




 朝は早い。夜は短い。




 剣の素振りをするマリアの横で、ケントは基礎体力を叩き込まれる。




「走る。止まる。避ける。


 それだけでいい」




 剣は持たせてもらえない。




「変な癖がつく」




 そう言って、彼女は容赦なく地面に線を引く。




「この線から出たら負け。


 当たったら死んだと思いなさい」




 最初の三日は、何もできなかった。




 息が上がり、 足がもつれ、


 何度も地面に転がる。




「……遅い」


「……弱い」


「……目が泳いでる」




 一言一言が、突き刺さる。




 それでも、マリアは途中で切り上げなかっ


た。




 倒れ込んだケントに水を渡し、


 無言で自分も腰を下ろす。












「やめないのね」




 四日目、焚き火の前でそう言われた。




「やめたら、弟を助けられない」




 それは、彼女自身の言葉だった。




 ケントは、何も言わず頷いた。




 寝食を共にする時間が増えるにつれ、


 マリアは少しずつ、剣を置く時間が増えた。




 夜、焚き火を見つめながら。




「……弟は、臆病だった」




 ぽつりと、語り始める。




「でも、優しかった。


 私の後ろに隠れて、よく泣いてた」




 炎が、赤髪を照らす。




「守るって決めたのは、私」




 声は、強い。




 だが、その奥にあるものを、ケントは感じ取っていた。




「だから、絶対に助ける」




 それは、誓いだった。




 ケントは、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。




 ――この人は、選んでいる。




 誰にでも優しいわけじゃない。




 誰でも受け入れるわけでもない。




 だからこそ。














 六日目。




 マリアは、初めてケントの動きを止めた。




「……今の、悪くない」




 それだけだったが、


 彼女の口から出るには、十分すぎる言葉だった。




 数値が、わずかに動く。


 体力:微増


 素早さ:微増




 能力が発動したわけではない。




 だが、積み上がっている実感はあった。




「顔、少しマシになったわね」




 水を渡される。




「前は、ずっと怯えてた」




 ケントは、苦笑した。




「今も、正直怖い」




「それでいい」




 マリアは、そう言って肩をすくめる。




「怖くないやつは、死ぬ」




 その言葉は、重いが、誠実だった。


















 最終日。




 夜更け、二人で並んで座る。




 距離は、近い。




 だが、触れない。




 マリアは、剣を膝に置き、静かに言った。




「……あんた、変わってる」




「そうか?」




「逃げないくせに、欲張らない」




 その言葉に、ケントは胸が詰まる。




 欲張れない。


 望めない。




 それでも――


 今、この時間が、心地よいと思ってしまう。




 マリアは、ふっと笑った。




「悪くないわよ。


 そういうの」




 それだけ言って、立ち上がる。




「明日、塔に向かう」




 背中は、迷いがない。




 ケントは、その背を見つめながら、確信していた。


 ――自分は、また誰かを好きになり始めている。


 














塔は、想像よりも静かだった。




 石造りの外壁は黒ずみ、


 空に向かって歪に伸びている。




 生き物の気配が、はっきりと漂っていた。




「……いる」




 マリアが低く呟く。




 剣を抜く音が、やけに大きく響いた。




 中に踏み込んだ瞬間、


 空気が変わった。




 魔物たちは、待っていたかのように現れる。




 人の形を歪めたもの、


 獣の骨格を持つもの。




 数が、多すぎた。




「下がれ!」




 マリアの声。




 剣が閃き、 一体、二体と斬り伏せる。




 だが――


 押し返される。




 ケントは必死に動いた。




 避ける。 走る。 魔力を絞り出す。 




 だが、届かない。


 力が足りない。


 判断が遅い。




「くっ……!」




 マリアの肩が、血に染まる。




「退く!」




 その判断だけは、迷わなかった。




 弟の名を呼びかける声が、


 塔の奥へ吸い込まれていく。




 返事は、なかった。
















 戻ったのは、あの野営地だった。




 焚き火を起こす力も残っていない。




 マリアは、剣を地面に落とし、


 その場に膝をついた。




「……助けられなかった」




 声が、震える。




「分かってた。


 足りないって」




 拳が、土を掴む。




「それでも……」




 言葉が、続かない。




 肩が、小さく揺れ始める。




 泣いている。




 ケントは、何も言えなかった。




 慰めの言葉は、


 あまりにも軽い。




 それでも――


 身体が、勝手に動いた。




 彼女の前に立ち、


 無言で、抱きしめる。




 強くはない。


 逃げ場を塞ぐほどでもない。




 ただ、そこにいるという形。




 マリアの身体が、わずかに強張る。




「……あんた」




 少し困惑した声。




「あんたって、私のこと好きなの?」




 問いは、真っ直ぐだった。




 ケントは、答えるまでに少し時間がかかった。




「分からない」


 


「でも……」




 言葉を探し、


 それでも見つからず。




「こうするしか、俺にはできない」




 それだけだった。




 マリアは、何も言わなかった。




 拒まなかった。




 受け入れもしなかった。




 ただ、 しばらくして、


 力を抜いた。




 身体が、寄り添う。




 夜は、静かだった。




 焚き火のない闇の中、




 互いの呼吸だけが聞こえる。




 希望と、無力さと、 言葉にできない感情が、


 混ざり合ったまま。


 二人は、その夜を過ごした。




 何も約束せず、


 何も確かめずに。


翌朝。




 夜露に濡れた草を踏みしめ、二人は再び集会所へ向かった。




 昨日とは違う。




 言葉にはしなくても、距離は確かに縮まっていた。




 集会所が見えてきた瞬間、


 異変に気づく。




 ――人だかり。




 普段より明らかに多い。




 ざわめきが、外まで漏れている。




「……何か来てるわね」




 マリアが警戒する。




 中へ入ると、理由はすぐに分かった。




 中央に立つ男。金髪で整った顔立ち。


 


 無駄のない体つき。




 装備は軽いが、


 剣は一目で分かるほど使い込まれている。




「……アルベルだ」




 誰かが小声で呟いた。




 ケントも、その名を聞いたことがあった。




 この辺り一帯では、


 名の知れた剣士。




 実力も、戦果も、本物。




 アルベルは、周囲の視線を当然のように受け止めながら、




 ふと、マリアを見つけた。




 その瞬間、目が細められる。




「お」




 軽い調子で近づいてくる。




「赤髪の剣士。


 あんた、前にもここにいたな」




 マリアは、腕を組んだ。




「何の用?」




「単刀直入に言う」




 アルベルは笑う。




「俺と付き合ってくれるなら、仲間になってもいいぜ」




 ざわり、と周囲が騒めく。




「……は?」




 マリアの声は、低い。




「冗談じゃないわ」




「冗談じゃねぇよ」




 アルベルは肩をすくめる。




「俺なら、あんたの目的も手伝える。


 塔だろ?」




 その言葉に、ケントの胸がざわつく。




 ――知っている。




 マリアは、即座に答えた。




「断る」




 迷いはなかった。




「理由は?」




 アルベルが問い返す。






 マリアは、少しだけ間を置き、


 ケントの方を見た。




「……一緒に来る人がいるから」




 それだけだった。




 だが、その一言は、


 はっきりとした線を引いていた。




 アルベルは、一瞬だけケントを見る。




 値踏みするような視線。




 そして、くつくつと喉を鳴らして笑った。




「そっか」




 否定もしない。


 馬鹿にもしない。




「なら、仕方ねぇな」




 そう言って、軽く手を挙げる。




「また、いつでも声かけてくれよ」




 視線は、再びマリアへ。




「彼女になる気ができたら、な」




 その言葉には、


 確信めいた余裕があった。




 アルベルは、そのまま人だかりの中へ戻っていく。




 残された空気は、妙に重い。




「……有名人は、嫌い」




 マリアが吐き捨てる。




 ケントは、何も言えなかった。




 彼の頭から、 あの金髪の剣士の姿が、離れない。




 強さ。


 余裕。




 そして――選択肢。


 マリアは、今は自分を選んだ。




 だが、それが


 どれほど脆いものか。


 ケントは、もう知っている。


















 街での買い物は、必要最低限だった。




 包帯。 保存食。 簡易の魔力触媒。




「私は向こう見てくる」




 マリアが露店の並ぶ通りを指さす。




「すぐ戻るわ」




 人混みの中、赤い髪が離れていく。




 ――その背中を、なぜか目で追ってしまう。




 気づけば、ケントは路地に入っていた。




 そのときだった。




「よ」




 背後から、軽い声。




 振り返るまでもない。




 金髪の剣士――アルベルが、壁にもたれて立っていた。




「探したぜ」




「……何の用だ」




 アルベルは、にやりと笑う。




「単刀直入に言う」




 一歩、距離を詰める。




「お前、あいつのこと好きなんだろ」




 心臓が、跳ねた。


 否定する言葉は、すぐには出なかった。




「……だから何だ」




「いいや、悪くねぇ」




 アルベルは肩をすくめる。




「だがな」




 声が、少し低くなる。




「お前じゃ、あの塔の魔物は倒せない」




 事実だった。


 反論できない。




「俺なら倒せる」




 迷いのない言葉。




「経験もある。 力もある。運もな」




 アルベルは、視線を逸らさず続ける。




「弟を助けたいなら、


 あいつが選ぶべきなのは――」




 言い切らない。


 それが、より残酷だった。




「……それだけだ」




 そう言って、彼は踵を返す。




「考えとけ」




 軽い調子で。




「選択肢は、あるうちにな」




 路地に残されたのは、


 重たい沈黙だけだった。




 ――俺じゃ、無理なのか。




 その言葉が、頭から離れない。




 それでも。






















 二人は、再び特訓を始めた。




 今度は、二週間。




 前回の敗北を、徹底的に分析する。




「数が多い」




「通路が狭い」




「後衛を潰せば、前が崩れる」




 マリアは、容赦なく指示を飛ばす。




 ケントは、必死についていく。




 走る距離が伸びる。




 避ける精度が上がる。




 体力。 素早さ。 防御。




 少しずつ、確実に、積み上がっていく。


 














 同じ焚き火を囲む時間が、自然になっていた。




 言葉がなくても、気まずくない。




 それが、何より危険だった。




 塔へ向かう前日の夜。




 空には、雲がかかっている。




 マリアは、剣を手入れしながら言った。




「あたしね」




 珍しく、視線を上げない。




「最初は、あんたのこと


 ただの弱いやつだと思ってた」




「守らなきゃ死ぬタイプだって」




 ケントは、何も言わず聞いている。




「でも、今は違う」




 マリアは、手を止めた。




「すごく頼りになる」




 焚き火が、二人の影を揺らす。




「あたしたちなら、きっと弟も助けられる」




 その言葉に、胸が熱くなる。




 ――信じられている。




「……弟を助けたら」




 マリアは、少しだけ言い淀む。




「あたし、あんたに言いたいことがあるわ」




 顔は見えない。


 だが、声は真剣だった。




 ケントは、喉が鳴るのを感じた。




 ――もしかして。




 期待が、芽を出してしまう。




 それがどれほど危ういものか知っていても。




 夜は、静かに更けていく。




 明日、すべてが決まる。




 そう思いながら、 ケントは目を閉じた。


 


 














 塔は、前よりも近く感じた。




 準備は万全だった。




 動線も、魔物の配置も、想定していた。




「行くわよ」




 マリアの声に、迷いはない。




 再突入。




 剣が走り、 魔法が弾け、


 二人は前回よりも確実に進んでいく。




「今だ!」




 連携も、判断も、確かに成長していた。




 ――それでも。


 塔は、二人を拒んだ。




 奥から現れたのは、


 前回はいなかった強大な魔物。




 圧倒的な力。




 反応速度。




 そして、数。




「くっ……!」




 マリアが膝をつく。




 ケントは前に出るが、 一撃が、重すぎた。




 地面に叩きつけられる。




 視界が、揺れる。




 ――まただ。




 届かない。そのときだった。




 魔物たちが、道を開く。




 まるで――


 見せつけるように。




 鎖に繋がれた、小さな影。




「……っ!」




 マリアが、息を呑む。




 弟だった。




 傷だらけで、 怯えきった目で、


 姉を見ている。




「姉……ちゃん……」




 その声が、


 すべてを壊した。




「返して……」




 マリアの声は、震えていた。




「返してよ……!」




 だが、答えはない。


 魔物たちは、笑うように喉を鳴らし、




 再び、弟を奥へ引いていく。




 逃げる隙すら、与えない。




 完全な敗北だった。




















 夜。




 野営地に戻っても、


 マリアは何も言わなかった。




 傷の手当ても、 最低限だけ。




 焚き火の前で、 剣を置き、


 そのまま横になる。




 背を向けて。




「……マリア」




 呼びかけても、返事はない。




 泣き声すら、聞こえない。




 ただ、


 深く、沈むように眠っていく。




 逃げるための眠り。




 考えないための眠り。




 ケントは、眠れなかった。




 弟の目。


 マリアの声。




 そして――


 アルベルの言葉。




『お前じゃ、倒せない』




 胸の奥で、


 何かが、静かに軋み始めていた。




 このままでは、 また、失う。




 その予感だけが、


 はっきりと、そこにあった。


























 翌朝。




 マリアの姿は、なかった。




 寝床はそのまま。




 剣も、荷物もない。




 嫌な予感が、背中を這い上がる。




「……マリア」




 名を呼びながら、街へ向かう。




 市場。 集会所。 昨日の通り。




 そして――


 路地裏。






 低く、甘い声が聞こえた。




 足が、止まる。




 聞き覚えのある声。




 間違えようがない。




「……やっと、俺の彼女になってくれる気になったか」




 アルベルの声だった。




 壁の陰から、見てしまう。




 マリアは、俯いている。




 だが、拒んでいない。




「あたしは……」




 声が、かすれる。




「弟を助けたいだけ……」




 それは、言い訳ではない。


 事実だった。




 だが。




「分かってるさ」




 アルベルは、優しく言う。




「だから、こうしてるんだろ?」




 マリアの肩が、わずかに揺れる。




 甘い声が、漏れる。




 求められ、 応えてしまう。




 それが、弟のためだと分かっていても。




 選択肢が、これしかないと分かっていても。




 ――自分には、何もできない。


 ケントは、立ち尽くしたまま、理解する。




 これは裏切りじゃない。




 救いを選んだ結果だ。




 自分が、弱かった結果だ。




 胸の奥が、焼けるように痛む。




 視界の端で、数値が跳ね上がる。




 一気に、明確に。


 絶望が、力に変わる瞬間。




 ――まただ。


 また、好きになった人を失った。




 ケントは、静かに踵を返す。




 誰にも見られないように。




 音を立てないように。




 野営地へ戻り、




 一人、横になる。




 空は、やけに遠かった。
















 路地裏。




 アルベルは、一瞬だけ視線を動かす。




 去っていく背中を、確かに捉えていた。




「……あの男は、もういいのかよ」




 問いかける声は、軽い。




 マリアは、答えない。




 代わりに、 甘い声だけが、路地に響き続ける。




 選ばれた者と、


 選ばれなかった者。




 その差は、


 あまりにも残酷だった。






















数日後。




 集会所は、いつになく騒がしかった。




「塔が落ちたらしいぞ」 「魔物が一掃されたって」 「やったのは――」




 名前が上がる前から、ケントは分かっていた。




 入口が、開く。




 金髪の剣士が、堂々と歩いてくる。




 アルベル。




 その隣に――


 マリアがいた。




 装備は新しくなり、傷もない。




 あの塔を越えた者の姿だった。




 人々が歓声を上げる。




「さすがアルベルだ!」 「子供も全員助け出したらしいぞ!」




 ケントの胸が、きしむ。




 マリアは、一瞬だけ――


 こちらを見た。




 確かに、目が合った。




 だが、 彼女はすぐに、視線をそらす。




 まるで、


 見てはいけないものを見てしまったかのように。




 ケントは、何も言えない。




 あの夜。




 「弟を助けたら、言いたいことがある」と言っていた、その続きを。




 もう、聞けない。




 アルベルが、肩に手を回す。




「約束は守ったぜ」




 マリアは、小さく頷くだけだった。




 彼女は笑っていない。




 だが、戻ることもしない。




 それで十分だった。




 ケントは、静かに席を立つ。




 誰にも止められず、 誰にも気づかれず。




 背中に、数値の感覚が残っている。




 また、力は増えた。




 だが、何かが確実に削れていく。




 ――これが、俺の力。




 ――これが、女神の与えた“成長”。

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