SCENE#185 聖なる冬ごもり ―― 雪山の密命
魚住 陸
聖なる冬ごもり ―― 雪山の密命
第一章:閉ざされた山寺 ―― 白銀の牢獄
天文十八年、越後の山々は例年になく早い冬の訪れに、その険しい貌(かお)を凍りつかせた。標高一千メートルを超える断崖の先に、へばりつくように建つ「瑞雲寺(ずいうんじ)」。かつては高僧が修行を積んだとされるその廃寺は、一度雪が降り始めれば麓との道が完全に絶たれる、世俗から切り離された天空の孤島と化す。その山門を、二人の「修行僧」が潜り抜けたのは、吹き荒れる地吹雪が空と地の境界を白く塗り潰し、すべてを視界から奪い去る直前のことだった。
一人は、深い編み笠を被り、擦り切れた僧衣の下に鋭い殺気を隠した男、九郎(くろう)。彼は北陸の有力大名に仕える隠密であり、その手は数多の暗殺と調略で汚れていた。感情を殺し、ただの「道具」として生きてきた彼にとって、冬の寒さは慣れ親しんだ孤独の色に過ぎなかった。
そしてもう一人は、粗末な木綿の着物を纏いながらも、立ち居振る舞いに隠しようのない高貴な気品を湛えた少女、初音(はつね)。彼女は政変によって一夜にして一族を皆殺しにされた、名門家屋敷の唯一の生き残りだった。その首には国を揺るがすほどの恩賞が懸けられ、四方の野武士や追っ手が血眼になって彼女を探していた。
「これより半年、雪が溶けるまで、ここは外界から忘れられた死者の国となる。何があっても門を出ることは許されぬ…」
九郎は、氷のように冷え切った本堂の重い板扉を閉め、内側から閂(かんぬき)を掛けながら、感情の欠落した声で告げた。寺の住職は数年前にこの世を去っており、今は仏像の金箔も剥げ落ちた無人の廃墟だ。床板は腐りかけ、冬の風が隙間から容赦なく入り込む。備蓄されたわずかな古米と味噌、そして裏山の薪小屋に積まれた薪だけが、二人の命を繋ぐ唯一の糧となる。
九郎に下された密命は、この絶海の孤島にも似た雪山で初音を確実に匿い、雪解けとともに隣国の同盟勢力へと送り届けること。だが、それは同時に、半年間という悠久に近い時間を、かつて自分が刃を向けた一族の娘と二人きりで過ごすという、過酷な「聖なる冬ごもり」の幕開けでもあった。
第二章:僧衣の下の刃 ―― 疑心暗鬼の夜
冬ごもりが始まって一ヶ月。瑞雲寺は三メートルを超える積雪に完全に埋もれ、外界へ続く道は物理的に消失した。屋根が雪の重みで悲鳴を上げる音と、時折窓を叩く突風の咆哮だけが、この閉ざされた空間の主となった。
九郎は、自らを「覚全(かくぜん)」という名の修行僧と偽り、毎日冷たい床を磨き、読経の真似事を繰り返した。しかし、彼の神経は一刻たりとも休まることはなかった。本堂の隅で、冷気に震えながら静かに座る初音の挙動、囲炉裏の火が揺れる影、雪崩が遠くで鳴り響く振動。そのすべてに、彼は僧衣の懐に隠した短刀の柄を反射的に握りしめた。
「……貴方は、私の父を殺した側の人間なのでしょう?」
ある吹雪の夜、熾火(おきび)だけが微かに赤く燃える囲炉裏の横で、初音が静かに問いかけた。その声は細く、そして九郎の脳髄を直接突くような鋭さを持っていた。九郎は答えなかった。戦国の世において、昨日の主君は今日の標的であり、恩義などは雪のように儚い。彼はただの影であり、主の命に従って闇を這うだけの存在だ。答えるべき言葉など、彼は持ち合わせていなかった。
「拙者はただ、お主を無事に春まで生かすという命に従っているに過ぎぬ。それ以外のことは、この雪の中に捨ててきた…」
九郎の声は、凍てついた石床のように冷徹だった。
二人の間には、血で汚れた一族の怨嗟と、消えることのない深い不信感が、目に見えない高い壁となって立ちはだかっていた。九郎は、初音が寝首を掻く機会を伺っているのではないかと疑い、初音は、九郎がいずれ自分を裏切って追っ手に引き渡すのではないかと怯えていた。
互いの呼吸の音さえもが、互いを追い詰める刃のように感じられる。囲炉裏の火が爆ぜる音だけが、気まずく重苦しい沈黙を埋めていく。外では、狂ったような風が寺の屋根を剥ぎ取らんばかりに暴れ、この白銀の牢獄に閉じ込められた二人の魂を、じわじわと凍りつかせていった。
第三章:粥の温もり ―― 剥がれ落ちる仮面
年が明け、越後の冬はその牙をさらに鋭く研ぎ澄ませた。連日の氷点下。蓄えていた食料は目に見えて減り、一日に一度、一握りの米を水で薄めた粥を分け合うのが精一杯の生活となった。飢えと寒さは、人間の理性を少しずつ削り取っていく。
そんな極限状態の中、事態は急転した。九郎が激しい悪寒に襲われ、本堂の床に倒れ伏したのだ。長年の隠密生活で酷使してきた肉体、そしてこの一ヶ月、一瞬も緩めることのなかった過度の緊張状態が、鉄の男と呼ばれた彼の免疫を内側から崩壊させた。意識を失い、死の淵を彷徨う九郎の乾いた唇に、不思議な温もりが触れた。
初音だった。彼女は、井戸が凍りついた中で雪を鍋で溶かし、自分のなけなしの防寒着であった着物を裂いて作った手ぬぐいで、彼の額を昼夜問わず冷やし続けていた。彼女は、自分の一族を無惨に滅ぼした勢力の片棒を担いでいるかもしれないこの男に、懸命な、そして無償の看病を施していたのだ。
「……なぜ、拙者を助ける。拙者が死ねば、お主は自由の身だ。そのまま春を待てばよかろう…」
三日後、辛うじて意識を取り戻した九郎が、ひび割れた声で掠れるように問うた。初音は、煤と疲労で汚れた顔に、氷を溶かすような微かな微笑を浮かべ、最後の一杯の粥を差し出した。
「ここでは、高貴な姫も、汚れた忍もありません。ただ、この過酷な冬を共に越そうとする、二人の哀れな人間がいるだけです。貴方に死なれては、私は一人で春を迎えることができません。孤独という名の寒さには、私は耐えられないのです…」
その言葉は、九郎の三十年の人生で初めて聞く「救い」だった。隠密として、親の顔も知らず、人を信じることを弱さと教えられ、ただ殺すための術だけを叩き込まれてきた九郎にとって、その粥の温もりと、初音の濁りのない言葉は、聖なる慈しみとなって乾いた心に染み渡った。彼は初めて、自分が「道具」ではなく、一人の「人間」としてそこに存在していることを許されたような気がした。九郎は震える手で茶碗を受け取り、涙の混じった粥を一口ずつ、噛みしめるように飲み下した。
第四章:雪下の告白 ―― 沈黙の誓い
九郎の病が癒える頃、瑞雲寺を包む空気は、雪解け前の静かな変化を見せ始めていた。二人の間にあった殺伐とした境界線はいつしか消え、狭い囲炉裏の周りで、肩を寄せ合うようにして過ごす時間が長くなった。少ない薪を惜しみながら、互いの手のひらの熱を感じ、遠い幼少期の、今はもう失われた記憶を静かに語り合った。
初音が語ったのは、かつて春になれば美しいしだれ桜が咲き誇った城の庭、父と交わした他愛のない約束。九郎が語ったのは、忍の里へ売られる前に一度だけ見た、故郷の河原に咲く名もなき野花の色。
「雪が解けなければいい、と……このまま時が止まればいいと、思ってしまうことがあります…」
窓から差し込む淡い月光に照らされ、初音がふと漏らした。九郎はその言葉を聞き、胸を締め付けられるような痛みを感じた。春が来れば、この静寂は終わる。初音は再び政治という名の将棋盤の駒として、見知らぬ異国へと旅立たねばならない。九郎もまた、影の住人に戻り、主君の命に従って誰かの喉首を掻き切る日々に戻る。この雪に閉ざされた孤独な空間こそが、彼らにとって人生で唯一の、誰の目も届かない「聖域」だった。
九郎は、寺の裏にある古びた鐘楼に積もった雪を払いながら、自分自身の魂に、誰にも聞こえない誓いを立てた。この娘を、ただの「密命の品」としてではなく、一人の女として、そして自分の命よりも重いものとして守り抜くと。それは、自らを育てた組織を裏切り、武士の掟を捨てることを意味する。だが、この冬ごもりで彼が見つけたのは、どの兵法書にも載っていない「真実の忠誠」だった。
「初音様。春が来ても、拙者は貴方の影であり続けます。たとえ地獄へ堕ちることになろうとも、お主の歩む道を血で汚させはしない…」
その誓いは、誰の耳にも届かなかったが、瑞雲寺の大きな鐘の音とともに、白銀の空へと深く、深く吸い込まれていった。
第五章:予期せぬ足音 ―― 聖域の崩壊
三月、ようやく雪の下を流れる水の音が聞こえ始め、冬の終わりの兆しが山を包み始めた頃、瑞雲寺の聖なる静寂は無惨にも破られた。本来、四月の後半にならなければ人が通れないはずの険しい山道から、雪を踏みしめる重い足音が複数、近づいてきたのだ。九郎は即座に編み笠を脱ぎ捨て、僧衣を脱ぎ捨てた。その下には、黒い装束と、研ぎ澄まされた二振りの刀が備えられていた。
「初音様、本堂の奥、仏像の裏に隠れてください。何があっても、決して声を出してはなりません…」
九郎の声には、あの看病以来消えていた冷徹な殺気が、かつてないほどの強度で戻っていた。
「覚全殿、いや、隠密の九郎よ。修行僧の真似事はもう終わりにしようではないか!」
寺の境内に現れたのは、村人に化けた追っ手たちだった。しかし、その動き、体配は明らかにプロのそれだった。初音の首に懸けられた莫大な恩賞、そして「一族の根絶」という政治的執念に突き動かされたかつての同僚たちが、異例の早さで雪を掻き分け、この隠れ家を突き止めたのだ。
「九郎、お前ほどの男が、なぜその娘を連れて逃げない。……まさか、情でも移ったか?」
首領格の男が、歪な笑みを浮かべて太刀を抜いた。九郎は答えず、ただ静かに抜刀した。
「ここには、ただの男と、一人の娘しかおらぬ。お主たちの求めるものは、ここにはない。……帰れ、さもなくば、この雪山を貴様らの墓場にする…」
次の瞬間、境内の静寂は剣戟の響きと怒号へと一転した。雪を蹴り、九郎は飛び出した。狭い境内、深い雪。足場の悪い中で、九郎の動きは鬼神の如き冴えを見せた。一閃ごとに、純白の雪の上に鮮血の華が咲き誇る。かつての仲間たちを、九郎は容赦なく切り伏せていった。守るべきものができた男の剣は、もはや「道具」のそれではなく、一本の意志となった神の雷のようだった。しかし、敵もまた精鋭。九郎の体にも、一つ、また一つと、深い傷が刻まれていった。
第六章:血染めの聖夜 ―― 別れの鐘
そして、戦いは終わった。瑞雲寺の境内は、赤黒い血で汚され、死臭が立ち込めていた。九郎は、本堂の太い柱に辛うじて背を預け、激しく喘いでいた。腹部からは血が止まらず、雪を赤く染め続けている。彼は致命的な傷をいくつも負い、もはや自力で立つことすら叶わなかった。
「九郎! しっかりして! 九郎!」
本堂の奥から飛び出した初音が、血に濡れた彼の体を、泣きながら強く抱きしめた。彼女の手は、九郎の傷口から溢れる熱い血でまたたく間に赤く染まった。
「……初音様、ご無事で……。よかった。……春は、もう、すぐそこまで来ています。道は……拙者が、こじ開けました…」
九郎は、震える手で懐から血に染まった一通の書状を取り出した。それは、彼女を隣国まで無事に通すための偽造の通行手形と、九郎が最後に記した「初音は死んだ」という偽の報告書だった。
「私を置いていかないで! 貴方がいない春なんて、私は欲しくない! 一緒に行くと言ったじゃない!」
初音の悲痛な叫びが、冷たい山々にこだまする。九郎は薄れゆく意識の中で、彼女の涙で濡れた頬に、血のついた指先をそっと添えた。
「……拙者の、冬ごもりは……ここで、終わりです。貴方と過ごした……この半年は……拙者の人生で、唯一……清らかな時間でした。……人を、信じること、を……教えてくれた……」
九郎は最後の力を振り絞り、這うようにして鐘楼の綱に手をかけた。
「……行きなさい、初音様。……前を向いて…さぁ、早く…」
一世一代の力を込めて、九郎は鐘を突いた。ゴーン……と重厚で深い音が、雪解けの空へと響き渡る。それは彼女の門出を祝う祝福の音であり、一人の男が己の人生に引いた最後の一線の音でもあった。雪解けの冷たい雫が、屋根からポタリと落ち、九郎の頬を濡らした。九郎は初音の腕の中で、かつてないほど穏やかな、そして満足げな笑みを浮かべたまま、その魂を空へと解き放った。
第七章:雪解けの向こう側 ―― 刻まれた記憶
それから数年の月日が流れた。越後の峻烈な山奥、かつて瑞雲寺があった場所は、今では完全に廃墟となり、建物は朽ち果てて自然へと還っている。しかし、そこには一本の、見事な「紅梅」の木が植えられていた。雪がどんなに深く積もる厳冬であっても、その木だけは凛として立ち続け、春の訪れを告げる香りを、誰よりも早く山々に放つ。
麓の小さな村に住む一人の女性が、毎年、雪が溶け始める時期になると、決まってこの険しい山道を登り、梅の木に静かに手を合わせる姿が見られた。彼女は寺子屋を開き、村の子供たちに文字や読み聞かせを教えながら、静かに暮らしている。
「先生、どうして毎年あんな大変なところまで行くの?」
子供たちの問いに、彼女は優しく、しかしどこか遠くを見つめる瞳で答える。
「あそこにはね、私に『春』を教えてくれた、とても大切な人が眠っているのよ…」
戦国時代の荒波の中で、あの深い雪に閉ざされた山寺で起きた真実を、歴史書が記すことはない。名もなき忍と、国を失った姫が過ごした、あまりにも短く、あまりにも長い半年間の記録。紙の束にも残っていない。
だが、彼女の胸の中には、あの凍えるような寒さの中で分け合った粥の味、九郎の不器用な手のぬくもり、そして雪の中に響き渡った最後の鐘の音が、今も鮮明な色を持って刻まれている。梅の花びらが、最後の一片の残雪の上に、ハラハラと舞い落ちる。
それは、かつて一人の男が命と引き換えに守り抜いた、純粋で、聖なる愛の結晶。風は吹き抜け、雪解け水が谷へと音を立てて流れていく。
この世は再び、騒がしく残酷な日常へと戻っていくが、この山頂だけは、今もあの「聖なる冬ごもり」の記憶を抱きしめ、静かに、優しく、春の陽光を待ち続けている。初音は空を見上げ、そっと囁いた。
「……見てください、今年も綺麗に咲きましたよ」
白銀の彼方から、懐かしい誰かの気配が、春風となって彼女の頬を優しく撫で、空へと消えていった…
SCENE#185 聖なる冬ごもり ―― 雪山の密命 魚住 陸 @mako1122
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