第8話 竜の島へ向かう二人
沖へ出ると、しっとりとした海風が頬をなでた。
いつの間に晴れたのか、潮の粒が陽を受けてきらきらと光り、髪に落ちてくる。
「ほわぁ……」
思わず声が漏れた。
「海、好きか?」
ギルターの声が、風に溶けるように届く。
「うん!小さいころから、ずっと」
ツムギは弾んだ声で答え、遠くの水平線を見つめた。
胸の奥がきゅっと締めつけられる。
歩けなくなってから、海は遠い場所になった。
けれど、この景色を忘れたことは一度もない。
「なら、よかった」
ギルターはそう言って、青い瞳を細める。
その表情を見ただけで、ツムギの胸の奥がまた跳ねた。
うつむいて視線をそらす。
ギルターは気づいているのかいないのか、さらりと続けた。
「敬語はいらない。そうやって普通に喋ってくれ」
ツムギはとまどった。
「でも、竜人さまなのに……」
「そう、えらーい竜人さまだ」
茶目っ気たっぷりに、片目をつむって笑う。
「──で、君はその花嫁さま、ってわけだ」
ツムギは、はっとする。
花嫁。
そうだった。
……でも。
「食べないんですか?」
「は?」
ツムギの言葉に、ギルターの動きがぴたりと止まった。
「あたしのこと、ガブリって……」
ツムギが大きく口を開ける仕草をすると、ギルターは慌てて首を振る。
「食べない!……そんなふうに思ってたのか?」
「うん」
即答すると、ギルターは困ったように眉を寄せた。
「……誤解があるみたいだな」
頭をかきながら、言葉を選ぶように続ける。
「あのな。竜人は、オスしか生まれないんだ」
「え、そうなんだぁ」
ツムギは目を見張る。
「それで、子孫を残すには人間の花嫁が必要なんだ。カガリに探してもらって……ようやく、君を見つけた」
そう言って、ギルターはツムギの頬にそっと触れる。
「俺の花嫁……」
「……えっと、カガリって?」
胸がどきどきして、ツムギは視線を泳がせた。
ギルターは空を指差す。
いつの間にか、ヒカンドリがカメに寄り添うように舞っている。
「あ、ヒカンドリさんかぁ」
「人間はそう呼ぶらしいな」
一度、言葉を切ってから、ギルターは真剣な声で続けた。
「食べたりしない。ひどいこともしない。子どもが生まれたら、君は必ずあの浜に帰す」
青い瞳が、まっすぐにツムギをとらえる。
「……だから。俺の花嫁になってくれるか?」
ツムギは、その瞳を見返した。
ヒカンドリや海の生き物を見たときの高鳴りとは違う。
もっと胸の奥を直接揺らすような鼓動が生まれる。
頬が、熱くなる。
ツムギは小さく、けれど確かにうなずいた。
「……うん」
「……ありがとう」
ギルターは、まっすぐな嬉しさをにじませて笑う。
それにつられて、ツムギも笑った。
村はいつの間にか遠くなっていた。
潮騒はやさしく、陽光は温かい。
まるで、海そのものが花嫁──ツムギを歓迎しているようだった。
ギルターが、そっとツムギの手に自分の手を重ねる。
ワタリガメは二人を乗せて、光の海を進んでいく。
✳︎
ツムギはギルターに手を握られながら、水平線をじっと見つめていた。
島へ向かっているはずなのに、海はどこまでも美しい青一色で、影ひとつ見えない。
ツムギはギルターを見上げて、問いかける。
「──島って、遠いの?」
「いや、もうすぐそこだぜ」
そう言われても、目をこらしても何も見えない。
もしかしたら、普通の人間には見えない島なのかもしれない。
“黄泉の国”だし──。
そう思った、そのときだった。
ふっと、風が変わる。
じっとりした湿り気が無くなり、潮の匂いがすこし甘くなった。
ワタリガメが、なにか透明な膜を抜けたような感覚がして、ツムギの体がわずかに震える。
次の瞬間。
ツムギの目の前に、突然、島が現れた。
「わ……っ!」
「な?」
ギルターが片目をつむる。
どうやら、結界のようなものが張られていたらしい。
島はそれほど大きくはなかった。
高い木々が密集し、森がざわりと揺れている。
その大樹の隙間から、淡く光る白い半球が見えた。
(なんだろ……?)
周囲を見渡すと、目の前の島だけではない。
いくつもの小さな島々が、点在するように浮かんでいる。
海の色も、一段と鮮やかに変わった気がした。
ツムギはカメの縁ににじり寄り、海面を覗き込む。
ギルターが、すぐに体を支えてくれる。
「あ、ありがとう」
「ほら、魚がいるぞ」
片手でツムギを支えたまま、水面を指差す。
「ほんとだぁ」
色鮮やかな魚たちが、群れを成して泳いでいる。
海面の上からでも見えるほど、水は澄みきっていた。
やがてワタリガメはゆっくりと速度を落とし、浅瀬へと近づいていく。
「着いたぞ、ツムギ」
ギルターがどこか誇らしげに言う。
ツムギは息を呑み、視線を巡らせた。
海面の下に白い砂が広がっている。
陽光を受けて、きらきらとまぶしく輝いていた。
これまで見てきた砂はベージュ色だった。
けれど、ここの砂は違う。
まるで真珠を砕いて撒いたみたいな、透明に近い白。
光を受けるたび、粒ひとつひとつが星屑のように瞬く。
ワタリガメから降りたギルターの足が、その砂に沈む。
すると、砂粒がゆっくりと光を放った。
「ほわぁ……」
砂の輝きに見とれていたツムギは、ふと顔を上げて息を止める。
沖から見えていた球体が、光の塊のようにそこに立っていた。
白でもない。銀でもない。
光の角度で、青にも桃色にも変わる。
濡れた貝殻の内側みたいな色──。
「真珠色……!」
それは、真珠色の宮殿だった。
鮮やかな色彩の島の中で、一際くっきりと輝いていた。
深く息を吸い、もう一度ゆっくりと周囲を見渡してから、ツムギはギルターを見上げる。
「……ここが、黄泉の国?」
ギルターは苦笑する。
「人間には、そう呼ばれてるらしいな」
目を細め、島を見渡して言った。
「俺たち竜人の島だ。──ネディラ島」
「ネディラ……」
ツムギはその名を小さくなぞるように呟く。
「天国みたいなところだねぇ……」
「人間が死んだら行く場所だろ。そういう意味では、間違ってない」
「ふぅん……?」
「さ、降りるぞ」
ギルターは浜に立ち、手を伸ばしてツムギを抱き上げる。
波が衣を揺らし、陽に透けた水面がふたりの影を揺らした。
ギルターに抱えられたまま、ツムギは波打ち際へ降り立つ。
「ここに弟と二人で住んでる。ツムギに紹介するからな」
「あ、弟さんがいるんだ」
ツムギはなぜだか少し嬉しくなって言う。
「あたしも、妹がいるの」
「ああ。ツムギに似て、美人なんだろ?」
ギルターは優しく笑った。
──そのとき。
「何をぐずぐずしてるんです?」
冷たい声がして、木々の影からひとりの男が現れた。
「わっ」
思わず声が出る。
男はとても端正な顔立ちだった。
(……似てる。ギルターに)
黒髪のギルターとは対照的に、白に近い銀髪。
短く整えられ、肌も透き通るように白い。
顔立ちは驚くほど似ているのに、目の印象がまるで違う。
ギルターの碧眼が陽を映して柔らかく揺れるのに対し、その男の瞳は、深い海底の色をしていた。
澄んでいるのに、冷たい。
異国風のシャツをきっちりと着込み、背筋を伸ばして歩み出る姿には、静かな気迫がある。
「そちらが花嫁ですか」
その声にはわずかな刺があった。
ツムギは思わず、ギルターを見上げる。
「大丈夫だ。怖くないぞ」
ギルターは安心させるように笑いかけた。
「いま言った弟だ。顔は似てるけど、性格は別物なんだよな」
「余計なことを言わないでください」
男は淡々と返す。
(弟ってことは……この人も竜人さまかぁ)
それにしても。
(竜人さまって、みんなこんなにハンサムなの?)
“醜い”という話は、どこへ行ったのだろう。
そんなことを考えていると、男がツムギに視線を向けた。
「ゼータです。よろしくお願いします」
ツムギは慌てて、ギルターに抱かれたまま頭を下げる。
「ツムギです。よろしくお願いします、ゼータさん」
ゼータは、点検するようにツムギをじっと見つめる。
ギルターが口を挟んだ。
「ゼータ、ツムギは疲れてるんだ。そんな目でジロジロ見るな」
「いつも通りの目つきですが」
「……ったく。そういうことにしとくか」
ギルターはため息をつくと、ツムギを見下ろして片目をつむる。
「ようこそ。竜人の住む島へ」
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