第2話 碧に焦がれて

 窓を開け放すと、生ぬるい潮風が六畳一間の世界に流れ込んだ。


 知花(ちばな)ツムギは車椅子から降り、畳の上の座椅子にゆっくりと腰を下ろす。


 ブラウン管テレビのリモコンを手に取る。

 うちみたいな田舎の村でリビングのほかにもテレビがあるのは、ちょっとした自慢だった。


 棚には色あせたビデオテープの箱が十数本。

 一番よく見た『海のいきもの②』はとっくに擦り切れて、巻き戻すたびにシャリシャリと音がする。


 ツムギはリモコンを置き、結局いつもの図鑑を手に取った。


 植物、星座と惑星、海の生き物。


 外に出られないツムギにとって、それらが世界のすべてだった。


✳︎


 ウミウシのページを眺めていると、ふすまがノックされる。


(夕飯かな)


 そう思って返事をすると、美しい少女が静かに入ってきた。


 妹のイオリだった。


「イオリ、久しぶりだねぇ」

「会いたかったわ、お姉ちゃん」


 イオリは実に優雅に微笑む。

 まるで人形みたいなその美しさに、ツムギは自分の妹ながら思わず見とれた。


 よく手入れされた、さらさらの長い黒髪。

 お母さんに似た切れ長の目。

 穏やかな笑みをたたえる口元。


 何もかもが、ツムギとは正反対だ。


 村一番の美人であるイオリは、つい最近、十六歳になると同時に嫁いでいった。

 うちみたいな“ナンチャッテ”じゃない、本物の名家に。


 ツムギはイオリのお腹に目をやる。

 結婚してからすぐに妊娠して、いまは三ヶ月……だったか。

 お腹が、ほんのりとふくらんでいる。


「いつ帰って来てたの?」

「いまさっきよ。お姉ちゃん、また図鑑を見ていたのね」

「他にやる事もないしねぇ」


 ツムギは肩をすくめてみせた。

 イオリは一緒に図鑑をめくりながら、しみじみと言う。


「お姉ちゃんは、ほんとに海と生き物が大好きよね」

「うん。好き」


 ツムギが即答すると、イオリはにこりと笑った。


 再びノックの音がして、ふすまが開く。

 エプロンをつけたお母さんが、盆を持って立っていた。

 今度こそ夕飯だ。


 もう四十歳近いのにまだまだ若いお母さんは、座り込むイオリの姿に美しい顔をひそめる。


「イオリ、いつまでそうしているの。あんまり話し込んでると、赤ちゃんに悪いんじゃないかしら?」

「はい。いま戻ります」


 静かに言って、イオリは立ち上がった。


「またね。お姉ちゃん」

「うん」


 ツムギは手を振って、膳を覗き込む。

 ゴーヤチャンプルーに、ラフテー丼。


(チャンプルー、そんな好きじゃないんだよなぁ……)


 ツムギがそんなことを思っていると、お母さんは座卓に食事を置きながら言う。


「あなたも大人しくしていなさいね。外に出て転んだりして、あれこれ言われたら、お母さん悲しいわ」

「はいはい。わかってるって」


 ツムギはまた肩をすくめた。

 お母さんはツムギを心配しているわけじゃない。

 この人はいつも、目の前にいる娘よりも、“周りの誰かからどう見られるか”ばかりを気にしている。


 ヘタに反論すると、


「あなたを心配してるのに、どうしてわかってくれないの」


 と、また泣かれてしまうのだ。


 素直なツムギに満足したのか、お母さんは一階へ戻っていった。


「ふぅ……」


 静けさが戻り、ツムギは小さく息を吐く。

 イオリのふくらんだお腹を思い出した。


「いいなぁ……。赤ちゃん」


 自分の痩せた足を見下ろす。

 ツムギも、もう十八歳だ。

 けれど歩けないこの足では、結婚することも、子どもをもつこともないだろう。


 ──ずっと、この部屋で。

 死ぬまで、ひとり。


 誰かがやってきて、そして去っていくのを眺めるだけの人生。


「……ぜいたくな話だよねぇ」


 何の役にも誰の役にも立たず、それでも生かしてもらえているのに。

 けれどもこの家の中にいると、息が薄くなる気がした。


「あれ」


 ふと見ると、床に小さな蛾が止まっている。


「お前、お母さんに見つかったら殺されちゃうよぉ」


 ツムギは四つん這いになって、ひらひら舞う蛾を、悪戦苦闘しながら捕まえた。

 窓から放すと、蛾は海の方へ飛んでいく。


 崖と防風林のせいで見えないが、窓の外、十数メートル先には海があるのだ。


 そのとき、そちらから歌のようなものが聞こえた──気がした。


 ツムギは耳を澄ませる。

 けれど、もう何も聞こえない。

 きっと風の聞き間違いだろう。


「ご飯、冷めちゃったかぁ」


 チャンプルーを咀嚼しながら、ツムギはひとりつぶやく。


「……あたしも、どこか遠くへ行きたいなぁ」


 海が見えるところなら、どこでもいい。

 できたら、この村じゃない場所。

 あたしが、あたしでいられる場所に。


 ──誰か、あたしをここから連れ出して。


 小さな女の子みたいな願いが胸をよぎり、ツムギは、ふっと苦笑いした。

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