叛逆の天秤(リブラ)

鳴羽那城人

第1章 泥濘の戴冠

第0話 泥濘の底、硝子の呼吸

 雨が降っていた。


 リオネスト王国の最下層、貧民街。そこに落ちる雨は、天の恵みなんかじゃない。

 遥か上、雲より高い場所――貴族の住む上層区『天空街』。

 そこの排水溝から垂れ流された汚れを、空がいちど掬って、かき混ぜて、薄めた顔だけして吐き戻してくる。


 油の匂い。鉄錆。

 迷宮で裂かれた獣の臓腑を、雨が煮返した甘ったるい腐臭。


 黒い雫が皮膚を叩くたび、冷えが肉の奥までじわりと入ってくる。


 冒険者ギルドの裏口。光の死んだ路地。


 泥濘に腹を擦りつけ、俺は這いつくばっていた。頬が泥を吸う。息を吸うたび喉にざらつきが引っかかる。肺が拒む。呼吸が、硝子みたいに薄い。


「おい。立てよ、荷物持ち。まだ終わってねぇぞ」


 頭上から嘲笑が降ってくる。

 硬い革のブーツが、俺の右手を踏んだ。無造作に。重さが骨まで沈む。

 踵が――ぐり、と回る。指の中で何かが軋み、裂け、悲鳴を上げた。泥水の黒に、赤い糸が混じって滲む。


「……っ」


 呻き声は奥歯で砕いて飲み込む。ここで声を上げたら、あいつらの機嫌が変わる。

 “反省会”が長引く。長引けば、銅貨が減る。減れば、あの小さな瓶が買えない。


 痛覚を意識の外、鉱石の底へ沈めて、泥だらけの顔を上げる。口角を無理に吊り上げた。笑えているか。笑っているふりができているか。


「……すみません。足元が滑りました」


「はっ。鈍臭ぇな。これだから無能は使い物にならねぇ」


 唾が落ちる。泥と混ざる。俺の髪に当たった気がしても、拭えない。拭う手を作った瞬間、また踏まれる。


 彼らは下級冒険者パーティ『赤鉄の牙』。今日だけの雇い主だ。

 迷宮からの帰り道、採取した鉱石の麻袋を運ばせられた。大の大人ひとり分の重さ。肩紐が食い込み、皮膚が裂け、骨まで痛む。

 視界の端が白くなり、足がもつれた。――それだけで、この私刑が始まった。


「ほらよ、報酬だ」


 リーダー格が小銭入れを振る。じゃらり、と冷たい音。雨音より耳障りだった。

 零れたのは、手垢で黒ずんだ銅貨、三枚。


 ぽちゃん。ぽちゃん。


 泥水に落ち、沈む。最初から黒い雨の底へ戻れと、言われているみたいに。


「拾え。テメェみてぇなゴミにはお似合いの貯金箱だろ?」


 下卑た笑い声が遠ざかる。足音が消えても、路地の暗さだけが残った。


 俺は何も言わず、泥に指を突っ込む。

 迷宮の黒曜石みたいに冷たい。踏まれた指先が、鈍い熱で脈打つ。爪の間に迷宮の砂が噛み、皮膚がひりついた。


 手探りで硬貨の縁を探り当て、ひとつずつ拾い上げる。丁寧に。こぼしたら終わる。迷宮より先に、ここで死ぬ。


 銅貨三枚。

 硬くなった黒パン二つと、少しの清潔な水。――それくらいしか買えない。


 これが俺の値段だ。

 夜明けから日没まで、魔物の気配のする迷宮で荷を背負い、鉱石袋の陰に押し込まれ、罵られ続けて。戻ってきて最後に踏まれて。残るのがこれ。


 握りしめた硬貨の縁が、皮膚に食い込む。

 悔しい。腹が煮える。なのに、怒りをぶつける場所がない。怒りは銅貨に変わらない。


 ギルドの壁には、光沢のある掲示が貼られている。剣や魔術で名を上げた連中の戦果。討伐。昇格。祝杯。

 その下で俺みたいなやつは、荷運びの募集札に名前を突っ込み、笑われ、踏まれる。


 それが当たり前の顔をした世界だ。こちらの息が、黒い雨の匂いに溶けて消えていく。


 それでも死ぬわけにはいかない。

 俺の帰りを待つ、か細い呼吸がある。


 俺は泥水で硬貨を洗い、擦り切れた麻服で水気を拭った。採れた鉱石を隠すみたいに懐へ押し込む。


 立ち上がる。膝が笑い、視界が貧血で揺れる。それでも足は出る。まだ歩ける。


 雨の中、ねぐらへ続く路地の闇へ身を滑らせた。


 帰り道、路地裏の奥にひっそりと薬屋がある。古い木戸を叩くと、内側から埃っぽい薬草の匂いが漏れた。迷宮で採れる樹脂を煮詰めたような、鼻の奥を刺す刺激臭も混じる。

 店主の老婆は、俺を見るなり目を細めた。黒い雨の溜まりを見るような目だ。


「……またあんたかい。ツケはきかないよ」


「分かってる。現金だ」


 俺は銅貨三枚と、靴底の革を剥がして隠していた銀貨一枚を出した。

 銀貨は、ここ数日、俺の食事を削って貯めたものだ。空腹を水で誤魔化し、胃を騙し、夜をやり過ごして。金属の冷たさの向こうに、俺の飢えが張り付いている。


「『青の鎮静剤』を一本。……一番、効くやつを」


 口に出すと、喉が乾いた。頼み方ひとつで値段が変わる世界だ。俺の声は弱い。だから余計に、丁寧に、低く。


「一番効く? はん。この端金じゃ下級品が関の山さ」


 老婆は鼻で笑い、小指ほどの小瓶をカウンターに転がした。

 薄い青の液体。病を殺す薬じゃない。ただの痛み止め。発作の激痛を、数刻だけ黙らせるだけのもの。


 それでも、今の俺には“数刻”が必要だった。数刻あれば、眠れる。呼吸が戻る。目が潤む。砕けてないふりができる。


「……ありがとう」


 礼は、安い。言わないよりは損が少ない。


 俺は瓶を掴むように取り、逃げるように店を出た。背中に、嘲りの気配が突き刺さる。


 長屋へ急ぐ。


 雨脚が強まっていた。冷たい粒が首筋を叩く。黒い雨が砂を混ぜて削ってくる。古傷が疼く。右肩は荷のせいで外れかけ、左足の噛み傷は膿んだまま、熱と痛みが交互に波打つ。


 十七歳の体に、これだけの不具合が詰め込まれているのが可笑しくなる。笑えるわけじゃないのに。


 朽ちかけた長屋の前で、俺は一度立ち止まった。


 深呼吸。肺に入る空気が臭い。鉄錆を噛むみたいに冷たくて、重い。

 顔を手のひらで強く擦り、こわばった表情をほどく。痛みも屈辱も疲労も、胃の底へ押し込める。ここに持ち込めば、あいつが気づく。


 窓ガラスに映る自分の顔を見た。

 笑えているか。惨めな顔をしていないか。


 ――よし。足りる。


 俺は「兄」の仮面を被り、扉を開けた。


「ただいま、ナナ」


 部屋の中は外より寒かった。隙間風が、濡れた壁のカビ臭さを揺らす。家具と呼べるものは、がたついた机と椅子と、部屋の隅の粗末な寝台だけ。

 薄汚れた毛布の下に、小さな膨らみ。


「……兄、さん?」


 毛布が微かに動き、顔が覗く。


 白い。

 磨かれた白い鉱石みたいに血の気がなく、浮いた血管が青く透ける。呼吸が浅く、ヒュー、ヒューと鉄錆を噛んだ笛みたいな音が喉から漏れていた。


「ごめん。遅くなった。……発作か?」


 額に触れる。冷たい。濡れた鉱石みたいに。

 そして毛布から投げ出された左足を見て、胃が鉄錆びた蝶番みたいにきしんだ。


 足首から先が、肉じゃない。透き通る青い結晶になっている。


『結晶化症』。肉が鉱石へ変わり、やがて全身が結晶みたいに固まり、砕け散る奇病。

 昨日は足の甲までだったはずの浸食が、今日は踝を飲み込んでいる。


 進んでいる。確実に。

 青が、命の領域を食い荒らしている。


「う、ぅ……っ」


 ナナが呻く。境界線が焼けるように痛むんだろう。柔らかい肉が、硬い硝子に変わっていく。想像するだけで頭がおかしくなりそうな痛みが、この小さな体を内側から裂いている。


「薬だ。すぐ楽になる」


 震える手で蓋を開け、乾いた唇へ押し当てる。

 ナナは迷宮の渇きに追い立てられたみたいに必死で啜った。喉が動くたび、俺の胸の奥で鉱石が擦れるみたいにぎくりと鳴る。


 数秒。

 薬が回り、痙攣していた呼吸が少しだけほどけた。結晶の縁が、わずかに緩む。


「……はぁ、はぁ……」


「水、飲むか?」


「ううん……平気だよ」


 薄く目を開け、弱々しく笑う。

 その笑顔が、胸の奥に鉱石の楔(くさび)を打ち込む。


 痛いはずだ。苦しいはずだ。

 なのにこいつは、俺を困らせないために笑う。


「ごめんね、兄さん。……高い、お薬なのに」


「気にするな。今日は臨時の稼ぎがあった」


 嘘だ。

 この一本のために、明日からの食い扶持を削った。俺の夕飯は、もう三日まともに口にしていない。


 腹が鳴りそうになって、腹筋に力を入れて黙らせる。空腹の音すら、こいつには聞かせたくない。


「それより、兄さん……怪我……」


 視線が右手へ落ちる。泥は落としたが、腫れは隠せない。赤黒い内出血が、指の形を変えている。


「ああ、これか。ドジった。荷物運ぶ時に、ちょっとぶつけただけ」


「……嘘つき」


 眉が悲しげに寄る。冷たい手が、腫れた手にそっと触れた。

 痛みより先に、情けなさが刺さる。


「冒険者の人に、やられたんでしょ。私の、ために……」


「違う。俺がトロいのが悪い」


「違わなくないよ……! 兄さんは世界で一番すごいサポーターだもん……!」


 声を荒げた反動で、すぐ咳き込む。

 俺は慌てて背中を撫でる。骨と皮ばかりの背中。硝子の縁みたいに脆い。力を入れたら折れそうで、指先が躊躇う。


 咳が落ち着き、ナナはぽつりと言った。

 石になった自分の足を見つめながら。


 ランプの灯りが結晶に反射し、皮肉なくらい美しい輝きが部屋の暗さを切り裂く。


「私ね。いつか、お婆ちゃんになりたいの」


「……え」


「お伽話のお姫様とか、すごい魔法使いとかじゃなくていい。顔中しわしわになって、腰が曲がって……縁側で日向ぼっこして。そうやって、醜くなって、鎮静剤の眠りみたいに死ぬのが夢なの」


 言葉の重みで、息が止まった。

 当たり前の未来。誰もが疑いもしない結末。

 でもこの子にとって、それは――結晶の向こう側の話だ。


 医者は淡々と言った。進行は止められない。いずれ全身が石になり、心臓が結晶みたいに砕けて終わる――と。

 その“淡々”が、俺の中で今も腐っている。


「……なれるさ」


 喉の奥の熱い塊を飲み込んで、声を絞った。


「なれる。俺が、お前を世界一のしわしわお婆ちゃんにしてやる」


「ふふ……なにそれ。……約束、だよ?」


「ああ。約束だ」


 ナナの手を握る。指切りをする力も残っていない。

 それでも互いの体温で、命の在り処を確かめるみたいに。


 やがて薬の眠気が来たのか、ナナは静かな寝息を立て始めた。

 俺は毛布を掛け直し、しばらく寝顔を見つめる。


 守らなきゃならない。

 この小さな命を。ささやかな夢を。


 そのためなら、俺はなんだってする。黒い雨を飲むのも、鉄錆を舐めるのも、魂を売るのも。


 ……だが、今のままじゃ足りない。


 小銭を稼いで、気休めの薬を買うだけ。これは勝ちじゃない。負けを遅らせているだけだ。

 緩やかな敗北は、敗北と同じだ。


(力が欲しい)


 祈りじゃない。渇望だ。

 理不尽を折る力。運命を鉱石ごと砕く槌。誰にも頭を下げず、ナナを守り抜くための力。


 眠れないまま、俺は外へ出た。


 雨は止んでいた。濡れた木の匂いが、路地の腐臭を薄くしただけで、空気の重さは変わらない。


 長屋の屋根に上り、夜空を見上げる。星ひとつ見えない、いつもの厚い曇天。

 ――なのに、何かがおかしい。


 空気が肌の上で震えていた。迷宮の入口みたいな圧がまとわりつき、髪が逆立つ。

 風が止まり、夜鳥の声すら消えた。


 世界が、迷宮の入口みたいに息を止めていた。


「……なんだ?」


 王都の中心――貧民街のすぐ先、広場の方角を見る。

 暗闇の中で、空間そのものが結晶の屈折みたいに歪んで見えた。


 星のない空よりさらに濃い、漆黒の亀裂。

 それが、どくん、どくんと、迷宮の核みたいに脈打っている。


 嫌な予感が背骨を撫でた。硝子の縁で。


 明日、何かが起きる。

 俺の――いや、この国の地面をひっくり返すような、とてつもない何かが。


 俺は目を離せなかった。

 恐怖より先に、胸の奥でくすぶっていた鉱炉の熾火(おきび)が、微かに熱を持つのを感じながら。


 これは、世界が変わる前夜。

 最弱の兄妹が過ごした、最後の日常だった。

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