03:生きているだけじゃ足りない

 外では鳥の声が重なっていた。日は低い位置から淡く射している。

 ロアはぐっと伸びをして廊下へ出ると、居間へ続くドアを開いた。


 誰もいない居間の暖炉は、短い音を重ねて爆ぜていた。

 台所の窓から庭にいるリディアが見えた。それから、洗って伏せてあるスープ皿が二つあった。


 ルイスが来ているのかもしれない。


 ロアは居座りたくなる暖炉の温かさから離れてもう一度廊下へ出ると、物置小屋への扉を開けた。


 窓のないその部屋は、薬品や乾燥させた葉や花で埋まっている。


 ロアは入口の魔法石に自分の指輪をかざした。部屋のランタンが一斉に灯り、冷たい空気が沈んだ床に、深く暗い影が落ちた。


 この物置小屋はいつも不思議だ。

 危険を覗いているような高揚と、危険が近くにある緊張が同時にある。それは、教会地下の納骨堂の雰囲気に似ていた。


 ロアは戸を開けたまま、物置小屋を進んだ。

 物置小屋の一番奥にあるのは、一枚板の重たい扉。取っ手を握ると、暖炉で温めたはずの身体が、すぐに冷え切った。


 ゆっくりとドアを開けた先に、ルイスがいた。入り口に背を向けて、奥にある石のテーブルに向き合っていた。


 やっぱりいた。まず訪れたのは、安心。それからすぐに襲ってくるのは、不安だった。

 自分が寝ている間にルイスはきっと、先に進んだ。


 ルイスは振り返ると、唇に人差し指を当てる。ロアが頷いたのを確認して、それから手招きをした。


 ほんの三歩で、すぐルイスの手元が見えた。

 石のテーブルの上には藁が小さく盛ってあって、その上に一匹のリスが眠っていた。


「冬眠してるんだよ」


 リスはうっすらと目を開けて、ゆっくりとした呼吸を繰り返していた。


「こんなところで?」

「正確に言うと、冬眠じゃない。薬で冬眠と似た状態を作ってるんだ。今は観察中」


 リスは微動だにせずに、ゆっくりと呼吸を繰り返していた。

 こんなことをして、なんになるんだろう。

 ロアにはいつもわからなかった。

 ルイスがなんのために〝こんなこと〟をしているのか。


「ちょっとかわいそう」

「そうだね。僕もそう思う」


 次の瞬間、リスは眼を完全に開いた。

 それからロアが驚く間もなく、開いていたドアから逃げて行った。


「観察終了」


 ルイスはそう言うと、ぐっと伸びをして立ち上がった。


 ルイスは黙っているロアに自分が座っていた椅子をすすめた。

 ロアが座ると、ルイスはコーヒーの粉をガラス容器に入れ、水を上部の槽に注ぐ。それから左手にはめた指輪を魔法石にかざすと、柔らかい共鳴音を立てて、魔法石が淡く光った。


 内部の銅管を通って湯が沸き、蒸気の音が聞こえてくる。


「なんかあった? ロア」


 ルイスは〝朝ごはん食べた?〟くらい自然に問いかける。

 ロアがルイスを見ると、彼は紙にペンを滑らせていた。


 ルイスに全て聞いてほしい気持ちだった。

 しかし、どんなことを話せばいいのか、全くわからない。


 コーヒーが落ちる音が、小さな部屋を満たしている。その音だけが世界に残っているみたいだった。

 言葉が喉の奥で何度も形になりかけては、消えていく。もしここで何も言わなかったら、きっと今日も、何も変わらない。


 コツ、と控えめな音を立ててロアの前にコーヒーカップが置かれた。

 揺れる濃い色から、控えめな湯気が立っている。


「……私、なにもできない」


 結局口にしたのは、弱音。

 しかし今のロアには、これ以外の言葉が見当たらなかった。


「あのリスもなにもしてなかったよ。でも、生きてた」


 ルイスはそう言うと、コーヒーカップに口をつけた。


「生きているだけなら、意味なんてないよ」

「あるよ。人間がひとり生きていていれば、必ず周りに影響する。僕はそれだけで、立派な〝意味〟だと思う」


 〝生きる〟ってなんだろう。

 あのリスみたいに、生きているのか死んでいるのか、寝ているのか起きているのかわからないまま、呼吸を繰り返すこと?

 ベルトコンベヤーに流されるみたいに、時間の流れに身を任せること?


 もしそうだとすれば、答えははっきりしていた。


「私は、生きてるだけじゃ嫌なの」


 じゃあ、なにがしたい?

 ――シェルを助けたい。

 じゃあ、どうやってシェルを助ける?

 ――分からない。

 

 わからないから、どうしようもなく苦しい。


 ロアは自分の指輪に触れた。

 シェルの側にいる凄い人たちは、こんなものを使わなくても、魔法を使える。

 こんなものを使うしか生活ができない人間に、この世界で役目なんてないのかもしれない。


「……そっか」


 ルイスの一言は、暖炉の火が爆ぜた後の静けさに似ていた。


 その一言で、胸の奥に絡まっていたものが、少しだけほどけた気がした。

 解決も、前進もない。

 それでも、さっきまで息を詰めていたことに、ようやく気づいた。


 ロアはゆっくりと息を吐き、それからコーヒーカップに口をつけた。


「朝ごはん、もう食べた?」

「ううん。まだ」

「今日はジャガイモのポタージュだったよ」


 ルイスはそう言うと、コーヒーカップを持ったまま研究室から出た。ロアもそれに続いて部屋を出る。そしてドアをしめた。


 居間に移動すると、リディアがスープを注いでいた。

 ルイスはコーヒーを飲み干すと、リディアの隣で手早く洗った。


「お邪魔しました」

「ルイス」


 リディアはルイスを、何か意図をもって呼び止める。


「成果はどうだ」

「報告できるほどの成果は出ていません」


 ルイスはそう言うと、居間を出て行こうとした。


「時間は伸びたか?」

「数秒は。個体差でしょう」

「お前はどうして、冬眠を研究しようと思ったんだ?」


 リディアの質問を聞いて、ルイスは彼女を軽くにらんだ。

 しかしリディアはルイスの視線を軽くあしらい、四人掛けのテーブルにスープ皿を置いた。そしてどうぞ、とばかりにロアを見た。


 ロアは二人を交互に見ながら、音を立てないように椅子に座った。


「その話、後じゃダメなんですか?」

「ダメだ」


 リディアははっきりと言い切ったあと、挑発的な笑顔を向けた。


「私は今、愛弟子の志が聞きたいんだ」


 リディアの言葉に、ルイスは小さく息をつく。それから口を開いた。


「僕が冬眠の研究をしようと思ったのは――」


 単なる興味。それ以外の言葉があるとは思えなかった。

 スプーンを口に運びながら、ルイスの言葉を待つ。


「――人間の生存率が上がると思ったからです」


 その言葉に、ロアはスプーンを口に運んだまま止まった。

 スープの湯気だけが、上にのぼっていく。


「どういう理由で?」

「冬眠はおそらく、個体の生命活動をギリギリに抑えて行われています。それを人間に応用できれば、無限の可能性がある。医師が到着するまで持ちこたえることが可能になれば、医療の発達を待たなくても救える命が増える」


 思うことは、一つだけ。

 やっぱりルイスは、こんな小さな村で一生を終えるような人じゃなかった。


 王都・マーテルが欲しがる人材はもう、七歳でこんな未来を見据えている。

 勝てるわけがない。追いつけるはずがない。

 もう人生を二度やり直してもまだ、わからない。


 ――やっぱり私なんかじゃ、人生を何度やり直しても、誰も救えないんだろうか。


「おはようございます!」


 異質な空気を裂いたのは、外から聞こえた元気な声だった。


「質問があって参りました!」


 リディアが玄関を開けると、オズワルドがいた。


「屋敷に行く。先に行っておいてくれ」


 リディアがそう言うと、オズワルドは上機嫌で出て行った。


「ルイス。お前もだ。詳しく話が聞きたい」

「わかりました」


 ルイスはちらりとロアを見た後、玄関を出て行った。


 リディアは暖炉前のロッキングチェアに腰かけた。

 暖炉の爆ぜる音と、ロッキングチェアの軋む音が、嫌味なほど居間中に響いていた。


「ねえ、おばあちゃん」


 ロアの問いかけに、リディアは黙って耳だけを傾けているようだった。


「私に、なにができると思う?」

「逆に聞くが、お前になにができないんだ?」

「なにもできないよ、私」

「じゃあ、お前はなにがしたい?」

「……大切な人を助けたい。でも、私にはなにもない。シェルみたいに自分の考えを言えないし、ルイスみたいに研究もできない」


 吐いた息が、喉元で震えた。


「ねえ、おばあちゃん、私、どうしたらいい?」

「そうだねえ」


 リディアはもったいぶった様子でそう言いながら、ロッキングチェアを揺らし続けていた。

 すがるような気持ちだった。この人ならなにか、解決策を知っているのではないか。


「本を読みなさい」


 想定外の言葉に、ロアは唖然とした。

 またいつものヤツだ。

 暇と言えば〝本を読みなさい〟。

 なにか手伝うことある? と聞けば〝本を読みなさい〟。


「ねえ、私の話聞いてた……?」

「ああ。聞いてたよ」


 リディアは相変わらず、ロッキングチェアの上で揺れていた。


「もういい! 本なんか読んでなんになるの!? 真剣に話した私がバカみたい!」


 ロアはそう言うと立ち上がり、玄関の扉に向かって歩いた。


「本とは、なんたるか。考えたことはあるか? ロア」


 ロアはドアノブを握ったまま、思わず立ち止まる。

 ロッキングチェアの音は、止まっていた。


「本とは人間の叡智。お前のちっぽけな悩みなど、先人がとっくに答えを出しとるわ」


 はっきりと言い切るリディアに、ロアは反論ひとつできない。

 ただ黙って、リディアの言葉を受け入れていた。


「ロア。お前の才能はなんだ」

「……私には、才能なんてないよ」


 才能なんてない。

 一度目の人生も。

 二度目の人生も。

 だから三度目の人生だって、同じだ。


 ロアの返事を聞くと、リディアはふっと笑った。


「ほう」


 その声は、意外なほど静かだった。


「お前は、世界のすべてをその目で見て、その身で確かめたのか?」


 リディアは真っ直ぐに、ロアを見ている。


「こんな、なにもない、小さな村から、一歩も出ないままで?」


 時間が止まったような錯覚だった。

 当たり前が、音もなく崩れた。

 どうして、そんな簡単なことに、今まで気づかなかったのだろう。


 ――私はまだ、なにもしていない。


 リディアは再びロッキングチェアを揺らし始めた。

 木のきしむ音も暖炉の爆ぜる音も、今のロアには聞こえない。

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