第5話 湯煙の神域、布団の中の混沌

 物部大杜(もののべ・だいと)は、洗面所の床にへたり込み、天井のシミを見つめていた。

 心拍数はまだ落ち着かない。

 耳の奥には、先ほどスヒジニが囁いた「おやつ」という単語と、甘い吐息の余韻がこびりついている。


「……落ち着け。相手は神様だ。しかも数万歳の婆さんだぞ。変な気を起こすな」


 必死に自分に言い聞かせる。

 だが、脳裏に焼き付いた白磁の肢体と、薄絹一枚の姿がフラッシュバックし、そのたびに大杜は頭を抱えた。

 この屋敷は広すぎる。祖母が生きていた頃は温かみのある家だったが、今はどこに行っても静寂が張り詰め、少しの物音でも過敏に反応してしまう。


 その時だった。

 ガララッ!!

 勢いよく浴室の引き戸が開き、大量の湯気が脱衣所に雪崩れ込んできた。


「ダイトーッ!! 助けよ! 湯が! 湯が止まらぬ!」


 飛び出してきたのは、生まれたままの姿のスヒジニだった。

 全身びしょ濡れ。濡羽色の髪が肌に張り付き、水滴が豊かな胸の隆起を伝って滴り落ちている。


「うわあああッ!? なんで出てくるんだよ!」

「だっておぬし! あの壁のボタンを押したら、蛇口から熱湯が噴き出し、止める術(すべ)がないのじゃ! このままでは屋敷が水没するぞ!」

「しねえよ! もう一度押せば止まるんだよ!」


 大杜はタオルを投げつけようとしたが、スヒジニはパニックでそれどころではないらしい。彼女は濡れた体で大杜に抱きつき、浴室の方を指差した。


「ほれ! 見てみよ! 轟々と音を立てておる!」

「分かった! 分かったから離れろ! 濡れる!」


 温かく、柔らかい感触がTシャツ越しに押し付けられる。

 石鹸の香りではない。雨上がりの森のような、清浄な匂い。

 大杜は半泣きになりながら彼女を引き剥がし、浴室へと飛び込んだ。

 シャワーが出っ放しになっているだけだ。レバーをひねり、止める。静寂が戻る。


「……はあ。驚かせやがって」


 振り返ると、入り口でスヒジニがキョトンとしていた。

 彼女は自分の体と、止まったシャワーを見比べ、ふむと頷く。


「なるほど。『ひねる』のか。最近のカラクリは複雑じゃのう」

「幼児でもできるわ」

「まあよい。湯船には湯が張れたようじゃ。……して、ダイトよ」


 彼女は当然のように浴室に入ってくると、洗い場の椅子にちょこんと座り、背中を向けた。

 腰まで届く黒髪をかき上げ、白く滑らかな背中を晒す。


「洗え」

「……はい?」

「聞こえなかったか? 背中じゃ。手が届かぬ」

「いや、自分でやれよ」

「我は神ぞ? 泥人形を作る時以外、自らの手を煩わせることなどない。それに……」


 彼女は肩越しに振り返り、黄金の瞳でじっと大杜を見据えた。


「おぬし、先ほど我の誘いを断ったであろう? その詫びじゃ。背中を流す栄誉くらいは受け取ってもらうぞ」

「……くっ」


 断れば、また「おやつ」の話になりかねない。

 大杜は覚悟を決め、スポンジを手に取った。

 Tシャツの袖をまくり、震える手で彼女の背中に触れる。


 滑らかだった。

 人の肌ではない。最高級のシルクか、あるいは磨き上げられた大理石に触れているような錯覚。

 泡立てたスポンジを滑らせると、スヒジニは「ん……」と艶っぽい声を漏らした。


「そこじゃ。……うむ、よい手つきじゃのう。泥をこねる手つきに通じるものがある」

「人を陶芸みたいに言うな」

「実際そうじゃろう? 人は土より生まれ、土へ還る。我がおぬしらを作った時も、そうやって丁寧に形を整えたものじゃ」


 彼女は湯気の中で目を細め、遠い昔を懐かしむように語る。


「あの頃はよかった。人は自然(われら)を畏れ、敬い、共に生きておった。……今はどうじゃ。山を切り崩し、鉄を埋め、毒を撒き散らす。先ほどの荒神も、おぬしらが産み落とした『鬼子』じゃ」


 大杜の手が止まる。

 彼女の背中は華奢で、頼りない。だがその言葉には、数万年の時を見つめてきた母神としての重みがあった。


「……悪かったな。俺たちのせいで、あんなのが増えて」

「ああ、すまんすまん、お主が謝ることはない。それに、子が散らかした玩具を片付けるのも、母の務めじゃからの」


 スヒジニはくすりと笑い、立ち上がった。

 泡のついた体をシャワーで流し、そのまま湯船へと足を運ぶ。


「さあ、入るぞダイト。湯が冷める」

「は? いや、俺はあとで……」

「ならぬ。一緒に入れ」

「なんでだよ!」

「この屋敷の湯船は広いが、それでも我一人では寂しい。それに、節水じゃろ? さっき屋敷を水没させかけた詫びじゃ」


 理屈になっていない。

 だが、有無を言わせぬ神力が働いているのか、大杜は抵抗する気力を削がれてしまった。

 結局、大杜はしぶしぶ同じ湯船につかることになる。スヒジニの方は向けないので、ずっと天井を眺め続ける羽目になるのであった。


 


 風呂上がり。

 大杜の理性は既にゼロに近かったが、現実的な問題が腹の虫となって現れた。


「腹減ったな……」

「うむ。荒神の気だけでは、やはり満ち足りぬ。実体を持った以上、物質的なエネルギーも必要じゃ」


 スヒジニは、大杜の着古したジャージ(サイズが大きく、肩が落ちて鎖骨が見えている)をまとい、台所に仁王立ちした。

 大杜は棚を漁る。


「カップ麺ならあるけど……」

「今の時代の干飯のようなものか。興味深いがそれでは我が神体が維持できぬ」


 スヒジニはカップ麺をひったくると、冷蔵庫を開け放った。

 中にあるのは、賞味期限ギリギリの卵、萎びた葱と大根、使いかけの味噌、そして冷凍ご飯。

 絶望的なラインナップだ。


「どけ、下僕。我に任せよ」

「は? お前、料理なんてできんのか?」

「万物を生み出す土の神ぞ? 素材の声を聴き、最適な形へ導くことこそ本領じゃ」


 スヒジニは包丁を手に取った。

 その瞬間、彼女の纏う空気が変わった。

 トントントントン。

 軽快にして正確無比なリズム。萎びた葱と大根があっという間に薄切りになり、賽の目になり、芸術的な美しさで刻まれていく。


「火よ、踊れ」


 コンロに火をつけると、彼女は冷凍ご飯と卵を中華鍋に放り込んだ。

 五徳の上で鍋が舞う。

 ただのチャーハンを作っているはずなのに、まるで錬金術の儀式を見ているようだ。

 隣のコンロでは、大根の味噌汁が良い香りを漂わせている。


「出来たぞ」


 十分後。

 ちゃぶ台の上には、黄金色に輝くチャーハンと、湯気を立てる味噌汁が並んでいた。

 具材は貧相なはずなのに、宝石のように輝いている。


「……いただきます」


 大杜はレンゲでチャーハンを一口食べた。

 目が見開かれた。

 米の一粒一粒が油と卵でコーティングされ、口の中でパラリと解ける。冷凍ご飯特有の臭みなど微塵もない。塩加減は完璧で、火の味がした。


「うまっ……! なんだこれ、店より美味いぞ!?」

「当たり前じゃ。米の水分量を権能で調整し、卵の熱変性も権能で制御したからの」

「能力の無駄遣いすげえ!」

「味噌汁も飲め。大根の生命力を極限まで引き出しておいた」


 味噌汁を啜る。

 萎びていたはずの大根が、口の中でとろけるように甘い。出汁など取っていないはずなのに、濃厚な旨味が広がる。


「……あんた、いい嫁になれるな」


 思わず漏れた言葉に、スヒジニはきょとんとし、次いでニヤリと笑った。


「ほう? 今なんと申した?」

「い、いや、なんでもない! 独り言だ!」

「ふふん。胃袋を掴まれるとは、単純な男よのう。……まあよい、存分に食らえ。明日はまた、荒神狩りじゃからの」


 彼女自身も、自分の料理を満足げに頬張っている。

 大杜はガツガツと飯をかきこみながら、奇妙な安らぎを感じていた。

 数時間前まで孤独だった屋敷に、湯気が満ち、咀嚼音が響く。

 それは、久しく忘れていた「家庭」の温かさそのものだった。


 


 そして、夜。

 最大の試練は、最後に待っていた。


 大杜は和室に布団を敷いていた。

 客用布団はない。曽祖母の布団を使うわけにもいかない。

 結果、押し入れの奥から引っ張り出したせんべい布団が一組だけ。


「……俺はソファーで寝るから、あんたはここを使ってくれ」

「何を言うておる」


 風呂上がり、薄絹一枚に戻ったスヒジニが、当然のように布団の中央を陣取っていた。


「布団は一つしかあるまい。ならば共寝じゃろう」

「だから! 男女が一緒に寝るのはマズイんだって!」

「マズイことなどない。……それとも、おぬし、我を襲う気か?」


 彼女は枕に肘をつき、流し目で大杜を見上げた。

 月明かりの下、薄絹から透ける曲線美が悩ましげに浮かび上がる。

 挑発ではない。純粋な疑問と、少しの期待を含んだ瞳。


「襲わねえよ! 理性が持つかどうかの話だ!」

「ならば試して見せよ。その理性とやらを」


 スヒジニは布団の端をめくり、ぽんぽんと隣を叩いた。


「こっちへ来い、ダイト。夜は冷える。神の抱き心地、悪くはないぞ?」

「……くそっ」


 ここで逃げれば男が廃る、という妙な意地と、単純な疲労が勝った。

 大杜は観念して電気を消し、恐る恐る布団に潜り込んだ。

 できるだけ端に寄る。背中を向ける。

 だが、そんな抵抗は無意味だった。


 ずるり。

 背後から、温かく柔らかい物体が密着してきた。

 スヒジニだ。彼女は蛇のように手足を絡ませ、大杜の背中に抱きついてきたのだ。


「ひっ……!」

「じっとしておれ。……ふむ、人の体温というのは、思いのほか心地よいものじゃな」


 耳元で囁く声。

 背中に感じる豊かな胸の弾力。

 太腿に触れる彼女の素足の滑らかさ。

 大杜の心臓は破裂寸前だった。


「お、おい、離れろ……」

「嫌じゃ。こうしていると、泥の中にいた頃の安らぎを思い出す」


 彼女はクスクスと笑い、さらに強く抱きついてくる。


「なあ、ダイトよ」

「……なんだよ」

「やはり、『おやつ』はいらぬか?」

「いらん! 寝ろ!」

「つれないのう。……まあよい。今夜はこれくらいにしておいてやる」


 スヒジニは満足げに吐息を漏らすと、大杜のうなじに額を押し付けた。

 やがて、規則正しい寝息が聞こえ始める。

 大杜は硬直したまま、暗闇の中で目を見開いていた。


(……寝れるか、こんなもんッ!!)


 背中に神様。

 明日への不安と、そして制御不能なときめき。

 泥濘(ぬかるみ)のような混沌に沈みながら、大杜の長い夜は更けていくのだった。

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