第3話:感情のポートフォリオ
第3話:感情のポートフォリオ
六本木の空が、異常な速度で紫黒色に染まっていく。
生暖かい湿気を帯びた風が街を撫で、コンクリートの隙間から、見たこともない極彩色の花々が咲き乱れ、アスファルトを破って広がっていた。
それは自然現象ではない。
感情の暴走だ。
佐藤光紀は、新宿の高層ビル屋上、ヘリポートの中央に立っていた。
暴風に煽られるイタリア製スーツ。だが、ネクタイの結び目は寸分も乱れていない。
彼の視線の先――
虚空に浮かぶ巨大な睡蓮の花。その中心で、翡翠色の髪を振り乱し、震える少女が膝を抱えていた。
精霊界第一王女、エルゼ。
彼女が流す一滴の涙が、地下鉄の線路を冠水させ、
ひとつの溜息が、摩天楼を凍結させる。
「……来ないで」
エルゼの声は、雷鳴となって夜空を裂いた。
「私の心は、もう誰にも止められないの……!」
サトウは一歩、前へ出た。
暴風が肌を叩き、冷気が骨に刺さる。それでも彼の声は、驚くほど穏やかだった。
「エルゼ様。まずは涙を拭きなさい。
低気圧と感情過多は、美貌にとって最悪のコンディションです」
「……何がわかるの!」
エルゼの叫びに、空が震える。
「私は、人間に恋をしたの。
正体を明かした途端、彼は逃げた。
この痛みを……あなたのロジックで説明できるっていうの?」
「できます。極めて単純です」
サトウはポケットから何かを取り出す――
かと思いきや、左胸を軽く叩いた。
「現在の貴女は、感情資産の一点集中投資に失敗しています。
特定の個体に、時間・感情・尊厳という資本を全額投下した。
結果、暴落時のショックに耐えられなかった」
「……ふざけないで!
それは愛よ!」
「愛もまた、運用です」
即答だった。
「貴女は“人間”という、流動性も信用格付けも低い銘柄に、
精霊界最高クラスの資産を投じた。
裏切られたのではありません。
リスク評価を誤っただけです」
エルゼの感情が爆ぜた。
氷の礫が放たれ、サトウの頬をかすめる。
血が一筋流れ、鉄の味が口に広がる。
それでも彼は、微笑んだ。
「いい反応です。
痛みを知っている方が、交渉は前に進む」
彼の視線は揺るがない。
歌舞伎町で数え切れない心を扱ってきた男の眼差しだ。
「貴女は彼に“自分だけを見てほしい”と願った。
それは独占欲という名の、市場独占行為です。
相手に自由を与えず、自分の価値観だけを押し付けた」
「……私が、重かったと?」
「違う」
即座に否定する。
「貴女は高性能すぎた。
彼は、自分の人生のポートフォリオに、貴女を組み込めなかった。
臆病な投資家だった。それだけです」
風が、弱まった。
「……じゃあ、この痛みはどうすればいいの」
エルゼの声は、もう叫びではなかった。
サトウは歩み寄り、彼女の冷え切った手に、自分の体温を重ねる。
「捨てる必要はありません。
分散させるのです」
彼女の目を、真正面から見つめて告げる。
「彼への執着という不良債権を切り離し、
精霊たち、世界の美、そして未来へ再投資する。
失恋は損切りです。
一時的な痛みは避けられませんが、それを越えれば、
貴女はより強固な感情資産を持てる」
「……私は、強くなれる?」
「保証します」
迷いはなかった。
「私の顧客で、立ち直れなかった人はいません。
貴女の価値は、一人の臆病な人間に消費されるものではない」
サトウは、ほんの少しだけ声を落とした。
「そして、次の恋は“成功案件”にしましょう。
そのためのコンサルティングは、私が引き受けます」
沈黙。
やがて、エルゼの肩から力が抜けた。
紫黒色の雲が霧散し、夜景が戻る。
「……あなたのロジック、冷たいわ」
「よく言われます」
「でも……少しだけ、温かい」
「それは光栄です」
サトウはスマホを取り出し、速報を確認した。
――《都内の異常気象、急速に回復》
彼は満足そうに頷いた。
「さて、エルゼ様。
まずはヘリポート修繕費と、交通麻痺の損害補填について、
返済プランを詰めましょう」
「……雰囲気を返しなさい」
「それが私の仕事ですから」
東京は救われた。
一人の王女の失恋を、感情のポートフォリオとして再構築することで。
サトウは、静まり返った夜空を見上げ、淡く笑った。
「次回の面談は――
恋愛資産の再配分、ということで」
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