テセウスの恋人

アーレ

第1話完璧への一歩

鏡の前で髪を整えるユキの後ろ姿を、俺、ハルは壁にもたれて眺めていた。

 朝の柔らかな光を浴びた彼女は、今日もこの世の何よりも美しい。だが、俺の視線はある一点に縫い付けられ、離れなくなった。


​「……ユキ、少しこっちにおいで」


​「なあに、ハル?」


​ 振り返った彼女の右手を取り、光にかざす。その指先、爪のすぐ横に、ほんの数ミリの「ささくれ」があった。乾燥して白く浮き上がった皮膚の断片。それは、ユキという完璧な傑作に混じり込んだ、耐え難いノイズだった。


​「指先が傷ついている。残念だ……君という美しさに、こんな不純物が混じっているなんて」


​「あはは、これくらい大丈夫よ。昨日の水仕事のせいかな。すぐ治るわ」


​ ユキは気にする様子もなく笑ったが、俺の胸の中では冷たい拒絶が渦巻いていた。治る? それでは遅い。不完全な状態が数時間でも続くこと自体、この傑作に対する冒涜だ。


​「……待っていてくれ。君に相応しい『薬』を、今から探しに行ってくる」


​「え? 今から? そんなに急がなくても……」


​ 俺は彼女の言葉を背中で聞きながら、静かに家を出た。

​ 街の雑踏。俺はただ、道行く人々の「手」だけを観察していた。

 若すぎるものは肉付きが卑しく、老いたものは論外だ。

 一時間ほど歩いた頃、カフェのテラス席で本を読んでいる一人の女が目に留まった。その指先を見た瞬間、俺の脳内に快楽にも似た閃光が走る。

​ 白く、細く、節くれのない、滑らかな指。

 ……見つけた。ユキの右手に相応しい「部品」だ。

​ 俺は女の背後に立ち、その優雅な手元を網膜に焼き付けた。

​ 夜、家に戻った俺の手は、氷のように冷え切っていた。

 寝室で深く眠るユキの傍らに座り、俺は月明かりの中で道具を広げる。

 銀色に光る鋭利な刃、そして俺が独自に練り上げた、細胞を繋ぐ特殊な薬剤。


​「ささくれなんて、もう二度と君を悩ませない。……始めよう。君を、本当の君に戻してあげる」





​ 翌朝。


 窓から差し込む光で目を覚ましたユキは、自分の右手をまじまじと見つめながら声を上げた。


​「……あれ? ハル、見て! 指が、嘘みたいに綺麗になってる!」


​ 昨日のささくれは跡形もなく消え、そこには触れるのをためらうほど完璧な造形の指があった。ユキは「ハルの持ってきた薬のおかげね」と、魔法を信じる子供のように無邪気に喜んでいる。


​「ああ、素晴らしいよ、ユキ。……前よりもずっと、『君らしく』なった」


​ 俺は満足げに微笑みながら、彼女の手を優しく撫でる。

 ふと、ユキが不思議そうに眉を寄せた。


​「でも、なんだか変な感じ。自分の指じゃないみたいに、白くて……あ、この爪の形、私こんなだったかしら? なんだか少し、長くなったような……」


​「気のせいだよ。それが本来の君のあるべき姿なんだ。今までが損なわれていただけだよ」


​ 俺は彼女を抱き寄せ、その肩越しに部屋の隅を見やった。

 ゴミ箱の底には、昨日までユキの一部だった「不完全な指先」が、無造作に捨てられていた。それはもう、俺にとってはただの生ゴミに過ぎない。

​ 一つ、入れ替わった。

 だが、指が完璧になったことで、今度は彼女の腕の細かな産毛や、肘のわずかな黒ずみが、ひどく醜いものに見え始めていた。

​ この傑作をもっと磨き上げなければならない。

 ……たとえ、最後に何一つ、元の彼女が残らなかったとしても。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2026年1月3日 20:00
2026年1月4日 20:00
2026年1月5日 20:00

テセウスの恋人 アーレ @Aren252518

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ