第8話 「平気な顔」を覚えた自分への違和感



今日も、

声をかけられた。


昨日と同じような場所で、

昨日と同じような距離で。


名前も聞かなかった。

年齢も聞かれなかった。

聞かれなかったというより、

必要とされていなかった。


体を求められて、

私はそれを許した。


——驚くほど、

心は動かなかった。


怖くなかったわけじゃない。

嫌じゃなかったわけでもない。


ただ、

「そういう流れだ」

と思った。


——その瞬間、

少しだけ引っかかった。


ああ、

私、

平気な顔をしている。


昨日までの私なら、

どこかで踏みとどまっていたかもしれない。

でも今日は、

止まる理由を探さなかった。


終わったあと、

何も残らなかった。


名前も、

年齢も、

記憶に残す必要がなかった。


——それが、一番怖かった。


その日から、

私は歩き方を変えた。


行き先を決めずに、

街ゆく車を眺めながら

深夜を歩く。


赤信号で止まる車。

青で流れていく車。


それを、

ただ見ていた。


——動いているものを見ていないと、

自分が止まってしまいそうだった。


帰る時間は、

朝になった。


空が少しずつ白くなって、

始発の音が聞こえる頃。


私は、

朝帰りをするようになった。


——誰にも何も聞かれない時間帯。


「平気な顔」は、

こうやって身についていった。


でも、

心のどこかで

ちゃんと分かっていた。


これは平気じゃない。

ただ、

そういう顔が上手くなっただけ。

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