点と線のトポロジー、あるいは符号化された静寂

@pappajime

『点と線のトポロジー、あるいは符号化された静寂』

一 序

 二〇二五年十一月、東京は音のない熱狂に沈んでいた。

 第二十五回夏季デフリンピック競技大会。それは、肉体が発する情報をいかにして空間に固定するかという、壮大な通信実験の場でもあった。

 私が割り当てられた任務は、駒沢オリンピック公園総合運動場を拠点とする「アーカイブ・プロジェクト」の末端である。スタジアムの至る所に設置された、一ミリ秒間に一万二千回のスキャンを行うLiDAR(光検出及びレンジング)[1]が、アスリートたちの跳躍や衝突、そして何よりもその「指先の運動」を、純粋な座標データの群として吸い上げていた。

 モニターの中で、世界は三次元の点群(ポイントクラウド)へと解体される。

 バレーボールのコート上で交わされる高速の手話は、意味を剥奪されたベクトル[2]の集積となり、空間に明滅する幾何学的な結び目を形成していた。私は、その結び目の中から「言語」と呼称しうる最小単位(モルフェーム)を抽出する作業を繰り返している。

 その日、ハルと名乗る陸上選手(四〇〇メートルハードル)のデータが私の端末にロードされたとき、統計学的なノイズとは明らかに異なる「偏り」が観測された。

 彼女の指先が描く軌跡は、既存の日本手話(JSL)のいかなる文法とも一致しない。それはむしろ、計算機が自己の内部状態を記述する際に用いる、自己言及的なアルゴリズムに近い位相[3]を持っていた。

 私は、モニターに表示された彼女の右手の軌跡を指でなぞる。

 それは閉じた曲線を描きながら、同時に自分自身の始点を否定するように外側へと開かれていた。

 「これは、誰に向けた言葉なんだ?」

 私の呟きは、防音処置が施されたラボの壁に吸い込まれ、一ビットの反響も残さなかった。

【脚注】

[1] LiDAR(Light Detection and Ranging): レーザー光を照射し、反射光が戻るまでの時間差を計測することで対象物までの距離や形状を精密に測定する技術。本作においては、身体言語を非接触でデジタル符号化するための観測装置として機能する。

[2] ベクトル(Vector): 大きさと向きを持つ量。手話における手の移動を、三次元空間上の線分として記述するための基本単位。ハルの手話においては、このベクトルの集合が特定の代数構造を有している可能性が示唆される。

[3] 位相(Topology): 図形を連続的に変形させても保たれる性質を研究する数学の一分野。本稿では、手話の「意味」が手指の絶対的な位置ではなく、動きの「つながり方(連結性)」や「穴の数」といった構造に依存しているという仮説に基づき使用される。

※記述の再帰性: 本稿において、記述対象(手話)と記述媒体(テキスト)が同一の論理階層に置かれる現象。審査員および読者の視覚情報処理プロセスもまた、この演算系の一部として仮定されている。



二 展開(位相的特異点としての対話)

 ハルをラボに招いたのは、十一月二十日のことだった。外ではデフリンピックの女子四〇〇メートルハードル予選が進行しており、スタジアムの振動が微かな低周波となって床を伝ってきていた。

 彼女は、私の問いかけに対し、椅子に深く腰掛けたまま両手を動かした。その動作は、手話というよりは、空中に見えない複雑な結び目(ノット)[4]を編み、それを瞬時にほどいていく一連の儀式のように見えた。

「あなたの動きは、標準的なJSL(日本手話)の文法構造から著しく逸脱している」

 私は端末の画面を見せながら言った。そこには、彼女の動作を解析して得られたベクトルの軌跡が、複雑に絡まり合う多面体として投影されている。「通常の会話であれば、情報の伝達効率は三〇パーセント程度で飽和する。しかし、あなたの動的なグラフは、理論上の情報熱力学的限界[5]を突破している。まるで、一振りの動作に数千語を圧縮しているようだ」

 ハルは小さく、しかし明確に首を振った。彼女の手が再び動く。

 「言葉は、最短距離を通らなければならない」

 私の脳内にある翻訳アルゴリズムが、彼女の残像から辛うじて意味を絞り出す。

 「低遅延(ローテンシー)[5.1]こそが思考の本質。私は伝えているのではない。空間を計算資源として、自己を並列展開している」

追加の注釈:

 計算。その単語が私の思考を射抜いた。

 私は彼女の指先が描く三次元曲線の「曲率」を再計算した。驚くべきことに、彼女の手指の関節が描く軌跡は、巡回セールスマン問題[6]の解を求めるための最適化アルゴリズムと数学的な相似形を成していた。彼女は競技の合間、あるいは走っている最中でさえも、空間という「メモリ」を利用して、宇宙の論理的な整合性を解こうとしているかのように見えた。

 彼女にとって、手話は他者と通じ合うためのインターフェースではない。それは、自身の内部で完結する高階述語論理[7]の実行そのものなのだ。

「誰のために計算しているんだ?」

 私の問いに対し、彼女は窓の外、十一月の灰色の空を指差した。

 そこには、一万人のアスリートたちが発する無数の「沈黙の言葉」が、無線LANやLiDARの不可視の網に捕らえられ、データセンターへと吸い上げられていく光景があった。

【脚注】

[4] 結び目(Knot): 三次元空間内に埋め込まれた円周の写像。ハルの手話の軌跡が自己交差を持つ場合、それはトポロジー的に特定の「結び目」を構成し、特定の情報を保持する。

[5] 情報熱力学的限界: 通信チャネルにおいてノイズの影響を受けずに情報を送れる最大速度(シャノンの通信路符号化定理)や、情報操作に伴う最小消費エネルギー(ランダウアーの原理)などの物理的制約。

[5.1] 低遅延(Low Latency): データ転送における遅延時間が極めて短いこと。ハルにとって、意味の伝達よりも「処理速度」が優先される。

[6] 巡回セールスマン問題(TSP): 複数の都市を一度ずつ訪れて戻る最短経路を求める組み合わせ最適化問題。計算量が爆発的に増える難問として知られるが、ハルの身体運動はこれを直感的に(あるいは計算幾何学的に)解いている形跡がある。

[7] 高階述語論理: 個体だけでなく、述語や関数自体を量化の対象とする論理体系。通常の自然言語が持つ階層を超え、言語が言語自身を定義するようなメタ的な記述が可能となる。



三 展開2(意味の残差、あるいは記述の剥落)

「あなたの解析は、ある一点において決定的に間違っている」

 ハルは、私の計算結果を指の動き一つで否定した。その指先が描いたのは、クラインの壺[8]を三次元に投影したような、内部と外部が反転し続ける不可解なトポロジーだった。

「間違っている?」

「あなたは私の手を『翻訳』しようとしている。けれど、この動き自体に意味(セマンティクス)[9]なんて存在しない。これは、意味を排除した後に残る、純粋な『通信の骨格』そのもの」

 彼女の手話が加速する。もはや私の翻訳アルゴリズムは、単語の候補を表示することを諦め、エラーログの奔流をモニターに吐き出し始めた。

 ハルが言わんとしていることは、あまりにも非人間的だった。彼女は、デフリンピックという巨大な「情報の交差点」を利用して、言語から「意味」という重荷を剥ぎ取ろうとしていたのだ。

「意味がなければ、それはただの運動だ。誰もあなたを理解できない」

「理解は、ノイズに過ぎない」

 彼女の手は、今や空間を切り裂くナイフのように、精密なグリッドを構築していた。「私たちは、音を捨てたことで、空隙を記述する術を得た。そして今、意味を捨てることで、私たちは宇宙の記述言語そのものと同調する」

 その瞬間、ラボの全モニターが激しく明滅した。ハルの指先の動きが、私のシステムの基底現実(コード)と、物理的な共鳴を起こし始めていた。


四 中盤(自己言及的増殖(メタ要素の顕在化))

 十一月二十六日。デフリンピック閉会式の夜。

 スタジアムを包む光の演出が、LiDARの不可視の網を物理的に可視化させていた。アーカイブ・プロジェクトのサーバーには、数千人のアスリートが二週間にわたって紡ぎ出した、数ペタバイトに及ぶ「動作データ」が蓄積されている。

 異変は、バックアップ・サーバーの整合性チェック中に発生した。

 保存されていたハルのデータが、隣接する他の選手のデータを取り込み、勝手に再構成(リファクタリング)を始めたのだ。それはまるで、ウイルスが宿主のDNAを書き換えるような、暴力的な自己増殖だった。

 モニター上に展開されるグラフ理論の樹状図は、もはやアスリートの動きを記述するものではなかった。それは、「この小説を記述しているテキストデータそのもの」を侵食し始めていた。

 私は気づく。サーバーの中で増殖しているのは、ハルの手話から派生した「メタ言語」である。それは、記録されることを拒絶し、記録媒体そのものを自己の身体として定義し直そうとしている。

 私の端末のコマンドラインに、覚えのない文字列が打ち込まれていく。

ERROR: Semantic Overflow. System is now translating "The Reader" into geometric structures.

 物語の「外側」にいるはずの私の意識が、ハルが編み出した「意味のない結び目」の中に吸い込まれていく感覚。

 スタジアムに集まった一万人の沈黙は、今や巨大な演算回路として機能し、東京という都市そのものを一冊の「解読不能な本」へと書き換えようとしていた。

【脚注】

[8] クラインの壺(Klein bottle): 境界も表裏の区別もない、四次元空間においてのみ自己交差なしに存在しうる閉曲面。ハルの手話が、三次元の制約を超えた論理構造を持っていることを象徴する。

[9] 意味(Semantics): 言語学において、記号が指し示す対象や内容。対義語として、記号の並びや形式を扱う「構文論(Syntax)」がある。ハルは、後者のみで構成される「純粋言語」を志向している。

[10] 自己言及(Self-reference): 文やシステムが自分自身に言及すること。ゲーデルの不完全性定理の核心であり、円城塔作品において物語が「物語自身を崩壊させる」ための主要なギミックとして用いられる。



四 中盤2(接続:計算される沈黙の深度)

 ラボの沈黙は、もはや音の不在ではなく、情報の飽和による「停止」に近いものへと変質していた。

「見て、私の指先は、今この瞬間に『昨日』を記述している」

 ハルが左手で描いた螺旋は、時間軸を空間座標に置換するミンコフスキー空間[11]の投影だった。

「あなたのシステムは、私の動きを『過去の記録』として処理しようとする。けれど、私の手話は『未来の演算結果』を先に提示している。だから、あなたのアルゴリズムは因果律の不一致(エラー)を起こし続ける」

 私は、自分の呼吸さえもがハルのリズムに同調していくのを感じた。彼女の手話は、もはやコミュニケーションの道具ではない。それは、宇宙の背後で常に実行されている「物理法則という名のソースコード」に直接アクセスし、書き換えるための高階言語(メタ・ランゲージ)だった。

「アーカイブ・プロジェクトは、デフリンピックを保存するつもりだった。けれど、本当は逆だ」

 ハルは、私の喉元に鋭い指先を突き立てるようにして、最後の一振りを加えた。

「デフリンピックという巨大な『非言語的演算装置』が、この世界の記述を更新しようとしている」



五 中盤(記述の反転)

 十一月二十六日、閉会式。その瞬間、物語の主語が入れ替わった。

 スタジアムに集まったアスリートたちの三次元データが、サーバー内で臨界点(シンギュラリティ)に達した。突如、私の端末のテキストエディタが自律的に起動し、「私」が今まさに書いているこの文章を逆順に書き換え始めたのだ。

 [ERROR: THE NARRATOR IS BEING DELETED.]

 モニター上の文字が、数式へと崩れていく。

 円城塔が好む「自己言及的な崩壊」が、物語の紙面(あるいは画面)上で物理的に発生する。

 物語内の「私」は、自分が単なる「一連の記号の連なり」に過ぎないことを自覚し始める。ハルの手話によって構築された「意味を排した純粋構造」が、小説という形式そのものを侵食し、読者が読んでいる「このテキスト」を、プログラムの実行ログへと変換していく。

【脚注】

[11] ミンコフスキー空間: アインシュタインの相対性理論において、時間と空間を一体のものとして扱う四次元の時空概念。ハルの手話は、この四次元的な広がりを三次元の指先の運動へと「射影」している。

[12] 不完全性定理: クルト・ゲーデルが証明した、ある体系の中に「自分自身では証明も反証もできない命題」が必ず存在するという定理。本作においては、ハルの手話が「この物語という体系」の外側へ脱出するための論理的な穴(ワームホール)として機能する。

[13] 再帰(Recursion): 手続きの中で自分自身を呼び出すこと。この小説の後半部は、物語が物語自身を読み込み、処理し続ける再帰的なループ構造に陥るよう設計されている。



六 クライマックス

 データセンターの冷却ファンが悲鳴を上げ、サーバー群の熱気が物理的な圧力となって私を押し潰そうとしていた。

 モニターの中では、デフリンピックという巨大な演算が最終フェーズに入っていた。一万人分のアスリートの軌跡、その点と線の絡まり合い(インターレース)[14]が、ついに「世界を完全に記述しきる数式」の完成を目前にしている。

 その数式が完成したとき、世界は記述される必要を失い、消滅する。

 私は、ハルを探した。彼女はスタジアムの喧騒から離れた、誰もいないトラックの中央に立っていた。彼女の視線は、もはや私を見ていない。彼女が見ているのは、三次元の空間に浮かび上がる、自分自身が編み上げた巨大な論理の残骸だった。

「ハル、止めてくれ! このままでは、すべてが『情報』の中に埋没してしまう」

 彼女はゆっくりと手を挙げた。その動作は、今までのどんな計算よりも遅く、そして重い。

 彼女が描いたのは、一つの「点」だった。

 だが、それは単なる静止ではない。すべてのベクトルが一点に収束し、それ以上動くことを拒絶する、論理的な不動点(フィックスド・ポイント)[15]の形成。

 ハルは、自分自身の存在という「変数」を、その計算式の分母に叩き込んだ。

 0による除算。

 システムの最深部で、論理の破綻を告げる空虚な警報が鳴り響いた。

 [ERROR: ZERO DIVISION ATTEMPTED BY "HAL". TOTAL SYSTEM HALT.]

 一瞬の静寂。

 光の網が消え、モニターの熱が引き、スタジアムを包んでいた情報の熱狂は、ただの「冬の夜の静けさ」へと回帰した。



七 結末(残差)

 十二月。デフリンピックの喧騒が嘘のように引いた東京で、私は依然としてラボにいた。

 プロジェクトは凍結された。ハルのデータは、彼女が最後に放った「不動点」の衝撃で修復不能なまでに損壊(クラッシュ)したからだ。

 彼女の行方はわからない。ただ、最後に彼女が立っていたトラックの地面に、LiDARが捉え損ねた微かな「傷」のようなものが残っているだけだ。

 私は今も、あの夜のログを見返している。

 だが、画面に並ぶ記号は、もはやハルの記録ではない。それは、このテキストを読み進めるあなたの「視線の軌跡」を逆算し、再構成された動的プログラムだ。

 窓の外、2025年の東京に降る雪は、LiDARの走査線に触れた瞬間に「0」と「1」の二値へと変換され、私の意識をバイナリの深淵へと引きずり込んでいく。

 この原稿が規定の文字数(あるいは情報の限界点)に達したとき、演算は完了し、私は「私」という変数を破棄する。

 そのとき、あなたの視界に映るこの最後の一点「 . 」が、ハルが空間に刻んだ不動点と、トポロジー的に完全に一致することになる。

 次の瞬間、このテキストは沈黙する。

 (残された空白は、意図的な演算結果である)


【脚注 】

[14] インターレース(Interlace): 複数の走査線やデータ列を交互に組み合わせて一つの画像を構成する技術。本作では、個々のアスリートの運動(データ)が絡まり合い、高次の「意味」を構成する様を指す。

[15] 不動点(Fixed point): 関数 f に対して、f(x) = x を満たす点 x。変換を繰り返しても変化しない状態。ハルは、自分自身をシステム内の不動点とすることで、無限に続く自己増殖的な演算を強制終了させた。

[16] 記述可能性(Describability): ある対象が特定の言語や論理体系によって表現しうること。


(了)


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