第1話:一坪の野望、紺青の船出

第1話:一坪の野望、紺青の船出


極東の魔導都市、その最下層に位置する「裏路地(バックヤード)」。 そこには、都市の上層部から排出された廃熱と、消費され尽くした魔力の残滓が、重く湿った霧のように立ち込めていた。


「――白銀の塔では、すべてが合理的すぎたわ。正しい答えしか許されない世界に、私の魂は少しずつ窒息していたのよ」


サトコ・ナンバは、カビ臭い地下室の真ん中で、満足げに鼻を鳴らした。 数日前まで、彼女は「白銀の天秤(シルヴァー・スケール)」の最高幹部として、一国の国家予算に匹敵する魔導資産を動かしていた。だが今、彼女の細い指先が触れているのは、最高級の羊皮紙ではなく、ひび割れたコンクリートの壁だ。


「ナンバさん、本当に、本気なんですか……?」


背後で、若き魔導士のタクミが、今にも泣き出しそうな声を出した。彼はサトコが塔を去る際、周囲の制止を振り切って付いてきた唯一の助手だ。 「ここには何もない。あるのは、巨大ギルドが使い捨てた『ジャンク・エーテル』のゴミ溜めだけです。術式一つ起動するのにも、ヘドロのような魔力を濾過しなきゃならないなんて!」


サトコは振り返り、タクミを真っ直ぐに見つめた。彼女の右目、深い海の色を湛えた**「紺青の魔眼」**が、薄暗い室内で静かに発光する。


「タクミ、あなたの鼻には何が聞こえる? 私はね、ここから『可能性』の匂いがするわ。誰にも見つけられていない、剥き出しの熱狂の匂いが」


サトコは、部屋の隅に転がっていた山積みのガラクタの中から、一つの小さな物体を拾い上げた。それは、煤にまみれた木彫りの馬の玩具だった。


「これを見て。巨大ギルドの鑑定士なら、これを『魔力価ゼロの廃棄物』と断じるでしょうね。でも、私の眼には違うものが映る。……この木馬には、かつてこれを握りしめていた子供の笑顔と、それを贈った親の祈りが、微かな『記憶の波紋』としてこびりついているわ」


サトコは、その木馬を大切そうに掌で包んだ。 「タクミ、世界には二種類の魔力があるの。一つは、塔の上で取引される無機質な『高純度魔力』。そしてもう一つは、人々の生活の端々にこぼれ落ちている、この『思い出の残滓』よ」


「……思い出、ですか?」


「そう。一つひとつは小さくて、灯火にもならない。けれど、これを何百万、何千万と繋ぎ合わせたらどうなると思う? 都市を動かす大瀑布(フォール)にだって匹敵するはずよ」


サトコは地下室の床に膝をつき、チョーク代わりの魔導石で巨大な円環を描き始めた。 彼女の描く魔法陣は、攻撃のための鋭い直線を含まない。すべてが緩やかに繋がり、巡り、循環する――それは、支配ではなく**「共鳴」**を前提とした未知の術式だった。


「さあ、タクミ。私たちの最初の商品を登録しましょう。この木馬を、今まさに必要としている誰かのために」


サトコが魔法陣の中心に木馬を置き、自身の紺青の魔力を注ぎ込んだ。 瞬間、地下室の空気が震えた。


キィィィィィン――。


耳の奥をくすぐるような、澄んだ高音。 陣から溢れ出した紺青の光が、地下室の湿った壁を透過し、路地裏の至る所へと染み出していく。それは、スマホという名の簡易受信機(デバイス)を持つ、名もなき市民たちの指先に届く「招待状」だった。


「……信じられない。魔導回路が、温かい。……いや、笑っているみたいだ」 タクミが、震える手で自身のデバイスを確認した。 「ナンバさん、見てください! スラムの住人たちが、自分の持っているガラクタを次々と術式に繋ぎ始めています! 『亡くなった母さんの櫛』、『初めての給料で買ったペン』……。小さな、本当に小さな魔力の断片が、信じられない速度で循環し始めてる!」


「いいわ、その調子よ。これを**『モバ・レッジ』**と呼びましょう。誰もが魔法を売り買いし、思い出に新しい価値を与える、小さな村(レッジ)の広場のように」


サトコは立ち上がり、額の汗を拭った。彼女の瞳には、かつての白銀の塔では決して見られなかった、少女のような輝きがあった。


「ナンバさん、これ、ひょっとすると……既存の魔導市場を根底からひっくり返しちゃうんじゃ……」


「あら、そんな大層なこと。私はただ、『面白いこと』がしたいだけよ。停滞した世界に、新しい風を吹かせたいの。……あら?」


その時、サトコの魔眼が、都市の上空から降り注ぐ「冷たい意志」を捉えた。 それは、都市の魔導権益を独占する巨大ギルド**「オラクル・レギオン」**の監視魔法だった。


「……やはり、気づかれたわね」


地下室の気温が、急激に下がる。 床に描かれた紺青の魔法陣が、外部からの強引な魔導干渉によって激しく点滅し始めた。


「ナンバさん、オラクル・レギオンの攻撃術式です! 回線(ゲート)を閉じましょう、このままじゃ僕たちまで焼き切られる!」


「閉じないわ。……逃げるのは、いつだってできるもの」


サトコは不敵に笑い、逆に魔法陣の上にどっかと腰を下ろした。 彼女は、自身の紺青の魔力を、防御ではなく「増幅」へと振り分ける。


「オラクル・レギオンの執政官たちに教えてあげましょう。白銀の塔を降りた魔女が、泥の中でどんな宝石を見つけたのかを。……タクミ! 出力を最大に上げなさい。ユーザーたちの『喜びの声』を、そのまま障壁に変えるのよ!」


「正気じゃない! ……でも、なんだか、やれそうな気がしてきた!」


タクミもまた、恐怖をかなぐり捨て、サトコの魔法陣に自身の魔力を叩き込んだ。 路地裏の地下室から放たれた紺青の光柱が、一瞬だけ、都市の夜を青く染めた。 それは、強大な力に対する宣戦布告であり、同時に、新しい時代の産声でもあった。


巨大ギルドの干渉を真正面から跳ね返したサトコは、荒い息をつきながらも、満足げに周囲を見渡した。


「……一坪の地下室、ここが私たちの『D.N.O』の聖域よ」


サトコは、壁の隙間から差し込む微かな月の光を見上げた。 そこには、自分がかつていた「白銀の塔」が、傲慢なまでに高く聳え立っている。


「見てなさい。いつかあの塔の高ささえも、人々の『喜びの総量』で追い抜いてあげるから」


彼女の指先には、木馬から受け取った小さな温もりが、まだ残っていた。 その温もりこそが、世界を循環させるための、最強の動力源になることを、サトコ・ナンバは確信していた。


第1話 完


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