琥珀の糸、純愛の檻

アーレ

抽出される純潔

 ​サクラは今日も美しい。


 彼女が眠るベッドの傍らに椅子を置き、俺、フートは「観測」を続けていた。

 窓から差し込む朝の光が、透き通るような白い肌の稜線をなぞり、枕に広がる長い髪の合間に細い影を落としている。


​「ふぁぁ・・・・・・あれぇ? フート? おはよ~」


 ​​「おはよう、サクラ」


 微睡まどろみから覚めたばかりの、潤んだ瞳。瞼の隙間からのぞく虹彩は、宝石よりも精緻せいちで、それでいて脆い。



 ​一目惚れだった。幼馴染の彼女は幼い頃から、個としての完成度が他とは違っていた。

 この美しさを、欠けることなく護り抜く。そのために俺は剣を取り、身体を鍛え上げた。彼女の純潔を汚す全ての外敵を排除し続けた結果、彼女から告白され、俺たちは夫婦となった。


 ​「朝食はできている。早く目を覚まさないと、君の体温と同じ温度まで冷めてしまうぞ」


 ​「わぁかった~ぁ〜」


 食卓に並んだのは、彼女の好物と、彼女の肌の透明度を保つために俺が厳選した食材のスープだ。サクラがスプーンを口に運ぶ。

 俺は自分の食事にはほとんど手をつけず、彼女の動きを注視していた。

 食べ物を咀嚼そしゃくするたびに動く、細い顎のライン。飲み込む瞬間に、白い喉首が上下に微かに揺れる。


 ​「……フート、食べないの?」


 ​「食べているよ。君が栄養を摂取し、その血が巡り、頬に赤みが差す……その『生命の循環』という現象を摂取することが、俺にとっては最高の食事なんだ」


 サクラは「もう、大げさなんだから」と照れくさそうに笑い、再びスープを口にする。彼女はその視線に含まれる、純粋で冷徹な「観測」の熱に気づいていない。

 俺にとって彼女の食事は、単なる日常ではない。彼女という完璧な個体を維持し、損なわせないための、神聖なメンテナンスなのだ。




 食後の準備中、サクラが甘えるように背中を向けた。


 ​「フートぉ〜、髪とかして〜」


 俺は彼女の美しい髪を手に取る。一本一本の太さ、指をすり抜ける摩擦抵抗を確かめるように、丁寧に、執拗なまでに時間をかけてくしを通した。


 ​「ありがとう! フート!」


 ​「……こちらこそ」




 ​街へ向かう道中、品のない話し声が耳に飛び込んできた。


 ​「ねぇねぇ知ってる? 最近糸で固められて、顔もわからないぐらいぐしゃぐしゃにされて……四肢もバラバラ、内臓や肉が食われた死体が見つかったらしいわよ」


「怖いわね~、私たちも気をつけないと」


 ​(個を消すような破壊は、ただの汚物だ。誰かわからなくなるまで損なうなど、美学の欠片もない)


 ​俺は隣を歩くサクラの、細く繊細な手首を、少しだけ強く握り直した。


 ​(俺のサクラには、そんな下俗な真似はさせない。彼女の美しさを損なう権利があるのは、世界で唯一、彼女の価値を正しく理解している俺だけなのだから)




 買い物の帰り道、不意に背後から明るい声が響いた。サクラの幼馴染だという少女が、弾んだ足取りで駆け寄ってくる。


 ​「サクラ! 久しぶり! ちょっと時間ある? お茶でもしていかない?」


 ​サクラは少し困ったように俺の顔を伺ったが、俺は無機質な笑みを浮かべて頷いた。


「行ってくるといい。新生活の片付けは俺がやっておく」


 ​「本当? ありがとう、フート! すぐに帰るからね!」


 ​サクラは何度も手を振りながら、友人とともに街の雑踏へと消えていった。

 彼女の体温が離れた瞬間、俺の視界から色彩が抜け落ちたような錯覚に陥る。だが、これでいい。今は彼女という「実物」がいない時間にしかできない、俺だけの儀式がある。




 ​帰宅した俺は、迷わず最奥にある書斎へと向かった。

 重厚な扉を閉め、鍵をかける。そこは、世界で唯一、サクラという個体を純粋に抽出するための聖域だ。

 ​壁一面には、膨大な数のスケッチが貼り出されていた。

 それらは一般的な「似顔絵」ではない。

 左耳の裏にある微かな産毛。

 手首の内側を走る、透き通った青い静脈の分岐点。

 光の加減で複雑な模様を描く、瞳の虹彩の拡大図。

 ​ 俺は一枚の絵を指先でなぞった。

 それは、彼女が水を飲み干した瞬間に見せる、喉仏の隆起をミリ単位の精度で写し取ったものだ。


 ​「……美しい。だが、やはり足りないな」


 ​紙に定着された線は、あくまで「過去の残像」に過ぎない。俺が欲しているのは、今この瞬間も絶え間なく変化し、脈動し続ける彼女という生命のドキュメントだ。

 実物を眺めている時の、あの脳を焼くような興奮。彼女の欠片を網膜に焼き付けるたびに、俺の「保存欲求」は際限なく膨れ上がっていく。


 ​その時だった。

 静寂を切り裂くように、激しく扉を叩く音が響いた。


 ​​「サクラが……サクラが急に現れた化け物に……白い糸に巻かれて、連れ去られて……!」


 ​友人の震える声が鼓膜に届く。

 その瞬間、俺の思考は極めて冷静に、そして冷酷に研ぎ澄まされた。


 ​「……糸、だと?」


 ​脳裏に浮かぶのは、今朝聞いた「個を消す汚物」の噂。

 あの下劣な蜘蛛が、俺のサクラを、代わりのきかない唯一の傑作を、ただの「餌」として扱おうとしている。

 ​ 怒りよりも先に、絶対的な拒絶が身体を駆け巡った。

 俺のサクラを損なっていいのは、彼女の価値を正しく理解し、保存できる俺だけだ。


 ​「場所を案内しろ」


 ​俺は壁に掛けられた愛剣を手に取った。

 鞘から引き抜かれた白銀の刃が、書斎の薄暗がりの中で冷たく、鋭利な光を放つ。

 ​ この剣は、彼女を傷つける者を排除するために鍛え上げた。

 一秒でも早く、あの汚物を切り刻まなければならない。彼女の肌に、あの不快な粘つく糸が触れていると思うだけで、内臓が裏返るような不快感がこみ上げる。


 ​「一秒でも早く、彼女を奪い返す。……一ミリでも彼女を損なうならば、その代償は蜘蛛の命だけでは足りないと思え」


 ​俺の声は、自分でも驚くほど低く、温度を失っていた。

 怯える友人を促し、俺は家を飛び出した。

 ​サクラ。待っていてくれ。

 君を汚す塵は、この俺が一切の慈悲なく、その存在ごと「切除」してやる。




 迷いはなかった。友人が指し示した森の深淵へ、俺は一直線に突き進む。立ち塞がる下位の蜘蛛どもなど、一瞥もくれない。俺の剣筋は、ただ彼女へと続く最短距離を切り裂くためだけにある。


 ​「……いた」


​ 広大な空洞の奥、天井から吊り下げられた巨大な繭(まゆ)。そこから露出しているのは、サクラの、あの白く細い手首だ。


 ​「あら、もう来たの? この娘、いい鳴き声だったわよ」


 視界の端で、蜘蛛女の鋭い脚がサクラの肩口を浅く裂くのが見えた。


 白磁のような肌に、鮮烈な「赤」が線を描いて走り、そこから命の象徴である雫が溢れ出す。


 ​「……っ、あ……っ……」


 ​サクラの唇から漏れるのは、言葉にならない掠れた吐息だ。

 蜘蛛の毒が回っているのか、彼女の顔色は病的なまでに青白く透き通り、浮き出た血管の青さが際立っている。恐怖に支配された瞳の虹彩は激しく収縮し、まるで壊れかけた硝子細工のような危うさを放っていた。

 ​その光景を目にした瞬間、俺の胸の奥で、ドロリとした熱い塊が跳ねた。


​(ああ……これだ。これこそが、俺の見たかった「究極」だ)


 いつも通りの穏やかな彼女もいい。だが、今この瞬間、極限の恐怖と痛みに晒され、生物としての本能を剥き出しにして震える彼女は、言葉を失うほどに神々しい。

 乱れた長い髪が肌に張り付き、荒い呼吸に合わせて激しく上下する鎖骨。その窪みに溜まる冷や汗の一滴までもが、俺の網膜に焼き付いて離れない。


 ​もっと見ていたい。


 このまま、彼女が絶望に染まりきり、自分という存在の形を保てなくなる寸前の「境界線」を、この手でなぞりたい。

 俺の中の欲求が、彼女を徹底的に蹂躙し、保存したいという狂おしいほどの欲求を突き上げてくる。


 ​だが――同時に、猛烈な「不快」が俺を突き刺した。

 ​サクラの美しい肌に、蜘蛛女の不潔な粘液がまとわりついている。

 俺の、俺だけの傑作に、あんな下俗な化け物が土足で踏み入っている。

 

 興奮は、一瞬にして氷点下の殺意へと反転した。

 俺以外の人間が……ましてや人ならざる汚物が、彼女の「形」を損なうことなど、万死に値する。


 ​「……よくも、俺の傑作に触れたな」


 鞘から解き放たれた白銀の刃が、薄暗い空間に鋭い弧を描く。

 俺の剣技に慈悲はない。それは、キャンバスに飛び散った泥をナイフで削ぎ落とすような、純粋な「清掃」だった。

 蜘蛛女が反撃に移る暇など与えない。サクラの柔肌に触れた卑しい脚を、付け根から正確に断ち切る。


 ​「ぎぃぃあああああ!?」


 耳を突き刺すような悲鳴。だが、俺の心はのように静かだった。

 視界にあるのは、のたうち回る怪物ではなく、損なわれたサクラの肌と、それを汚した

「不純物」だけだ。


 ​「……五月蝿い。その声も、その脚も、すべてが彼女の静謐せいひつを乱すノイズだ」


 ​俺は流れるような動作で、さらに二本の脚を斬り飛ばす。

 苦痛に悶える蜘蛛女を、まるで屠殺場の作業員のような冷淡な目で見下ろしながら、急所を外した箇所に次々と刃を立てていく。

 それは戦闘というより、不備のある個体を解体する「作業」に近かった。

 ​ 蜘蛛女が絶望に瞳を染め、命乞いをするように口を動かした瞬間。

 俺の剣が、その喉元を一閃した。


 ​「終わりだ。お前のような汚物に、これ以上の時間は割かない」


 ​ 糸が切れ、絶命した蜘蛛女が床に崩れ落ちる。

 俺は即座に剣を納め、返り血を一滴も浴びないように配慮しながら、サクラの元へ駆け寄った。


 ​「サクラ、もういい。排除した。」


 ​俺はまゆの糸を丁寧に、そして執拗なほど繊細な手つきで切り裂き、彼女を抱きとめる。

 腕の中に落ちてきたサクラは、まだ毒と恐怖の影響で小刻みに震えていた。

 ​ 青白い首筋。

 裂けた服の隙間からのぞく、傷ついた鎖骨。

 恐怖に濁った瞳。

 ​ 先ほどよりもさらに痛々しく、それゆえに狂おしいほど美しい。

 俺は彼女を強く抱きしめたい衝動を抑え、耳元で優しく、冷徹に囁いた。


 ​「さあ、家へ帰ろう。……二度と、君の形を損なうものが現れない、俺たちの聖域へ」




 俺はサクラを抱え、急ぐように家路を辿った。

 道中、彼女の傷口から滲む血が俺の服を汚していく。しかし、それはもはや些末なことだった。重要なのは、彼女という個体が、今この瞬間も「生きている」という事実だ。


 ​家に辿り着き、地下の「特別な部屋」へと彼女を運んだ。


 柔らかな布が敷き詰められた台の上に横たえられたサクラは、まだ毒と恐怖に震え、涙を流していた。


 ​「大丈夫だ、サクラ。もう、君を傷つけるものは誰もいない」


 ​ そう囁きながら、俺は彼女の服をゆっくりと剥がしていく。

 蜘蛛女につけられた浅い傷痕。不潔な粘液がまとわりついた肌。それらを丁寧に拭き取り、消毒液を塗る。

 サクラが「ひっ……」と息を呑むたびに、俺の指先に微かな悦びが走った。


 ​「心配ない。この傷はすぐに塞がる。だが、それでは惜しい」


 俺は、自ら調合した香油を指先に取り、彼女の傷跡へと丁寧に馴染ませていく。

 それは治癒のためではない。この「恐怖に震える生命の最高潮」を、腐敗させることなく、新鮮なまま肌に定着させるための処置だ。




 ​目を覚ましたサクラは、見慣れない部屋と、俺の冷たい視線に、初めて明確な「恐怖」の色を宿した。

 彼女は拘束されていない。しかし、逃げ出すことも、抵抗することもできない。

 俺の視線が、彼女を透明な檻の中に閉じ込めていた。


 ​「フート……? 何、これ……?」


 ​その問いに、俺は答えなかった。

 代わりに、壁に掛けられた様々な器具を手に取る。

 細いメス、精緻なピンセット、そして、俺が長年研究してきた「生命の維持」のための魔道具。

 ​俺は彼女の細い首筋に指を滑らせた。脈動する血管を、肌の下で蠢く生命の力を感じ取る。

 瞳は恐怖に大きく見開かれ、呼吸は浅く、速い。

 絶望の淵に立たされた彼女の姿は、あまりにも、あまりにも完璧だった。


 ​「ああ、サクラ……」


 ​俺は、彼女の傷ついた頬に、そっと口付けた。

 その体は、かすかに硬直している。


 ​​「これこそが、君の『究極』だ。誰にも邪魔されない。誰にも汚されない。俺だけの、永遠の傑作」


 彼女の瞳の中で、生命の炎が絶望に歪み、激しく明滅する。

 その「生と死の境界線」で震える脆弱な輝きこそが、俺が一生をかけて蒐集したかったものだ。


 ​俺は彼女の瞳をじっと見つめた。


 その「生と死の狭間」にある、脆弱で、だからこそ最も純粋な「個」の輝き。

 ​ゾクリ、と。

 俺の全身を、抗いがたい歓喜が駆け巡った。


 ​(永遠に、このまま。この最も美しい状態で……)


 サクラが何かを言いかけて声にならない。


 ​ フートの唇が、ゆっくりと、しかし確信に満ちた笑みを象った。

 その部屋には、サクラの恐怖の震えと、フートの狂気に満ちた愛の息遣いだけが満ちていた。


 彼の傑作は、今、完全に「固定」されたのだ。

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