僕と彼女の小さな世界

安野潔

僕と彼女の小さな世界

「ねぇ、この時間がこのまま続いたらいいと思わない?」

 奈緒は僕の顔を見上げて言った。


「うん、思う」

 僕と奈緒は神社の境内にある東屋で二人、抱き合っていた。


 時刻は午後九時を過ぎようとしている。季節は冬、だが二人はときどき吹く冷たい風にも負けないくらい暖かかった。


「はぁ……帰りたくないなぁ……」

 奈緒の口から白い息とともにため息が出る。


「ウチ、泊まってく?」

 僕は真面目な顔をして言う。


「でも今日お父さんいるんでしょ?」


「……うん」

 僕たちは家に居場所がない。だから今ここにいる。ここなら補導もされる心配もない。そもそも僕たちの親は子どもの行動に興味を持っていないため、こんな時間に出歩いていたとしても騒動になることはない。


「あーあ、本当に二人だけの時間が続けばいいのに」


「……じゃあどこか遠くにでも行こっか」


「遠く?」


「うん、家出しようよ」


「それ、いいね」

 奈緒がまた顔を上げる。ニコニコの笑顔で僕を見つめてくる。


「どこ行く?」

 彼女はキラキラの目で僕を見つめる。


「そうだなぁ……」

 僕は考える。しかし中学生で行けるところなんて限られている。ましてお小遣いすら満足に貰えない僕たちにとってはまさに夢のような話だ。


「でも、本当に行けるかな?」

 どうやら奈緒もお金がかかることに気付いたようだ。


「電車とか……なるべくお金を使わないところの方がいいよね?」


「うん……そうなると行けても隣の市とか……かな」


「全然遠くないね」


「そうだね……」

 こういうとき、僕たちはまだ自由に歩くことができないことを実感させられる。


「私、海が見たい」

 奈緒は唐突に言った。


「海かぁ……」

 僕は考える。僕たちの住んでいる場所は海なし県だ、隣県に行けば海は見られるが、それこそ途方もない旅になるためお金も時間もかかってしまう。


「ゴメン、無理だよね」


「……うん……」

 僕は頷くしかなかった。


「でも私はこう君と一緒にいられればどこだっていいの。それこそ隣の市でも全然いいの」


「そんなこと言わないでよ……」


「じゃあいつか、私を海に連れてってね」


「うん、約束する……」

 そして僕たちはまた抱き合った。先ほどよりも強く、寒さにも負けないように。そして僕たちの今までの人生にも負けないように。


 しかし翌日、奈緒は学校に来なかった。その翌日も、翌々日も来なかった。そしてついに一週間が経過した朝のホームルームで、彼女が転校したと告げられた。

 それからのことは記憶になかった。気付けば中学を卒業し、高校に入り、大学生になっていた。


 大学生になり、僕はようやく自由を手に入れた。バイトをして大学へ行くための学費を稼いだ。勉強も同時に頑張ったおかげで、奨学金も借りることができた。しかし大学に行くにはまだ足りなかったが、親を説得して大学に行けることになった。

 そして県外の大学を受験し、これも親を説得して一人暮らしをすることになった。


「おい康介、メシ行こうぜ」

 午後の授業を全部終え、荷物をまとめて教室を出ようとしていると、隣にいた友人に声をかけられた。


「いいね」

 僕は断る理由もなかったので、二つ返事でそれを了承した。


 友人とは大学で知り合い、同じ学部、そして同じ全学部共通授業を何個も取っていたために仲良くなった。彼とは午後の授業を終え、二人ともバイトがないときにはいつも夕飯を食べに行くのが恒例になっていた。だいたいはいつも決まった店に落ち着くのだが、今回は違った。


「最近できた居酒屋があるんだ。行ってみようぜ」


「いいね、行ってみよう」

 僕は彼とともにその居酒屋に向かうことにした。いつの間にか二十歳を越え、酒を飲めるようになってからそういう店にも少しずつだが行くようになった。場所は二人の家とは反対方向で、僕たちは歩いて店に向かった。


 店に到着すると、店内はほぼ満席状態だった。二人は運良く四人掛けのテーブル席に座れたのだが、その後店員から「相席でもよろしいですか?」と聞かれ、さすがに断るのも良くないと思い僕たちは了承した

 僕は友人の隣の席に移った。さすがに見ず知らずの人間の隣に座るのは相手にとっては気まずいだろう。やってきたのは僕らと年の変わらなさそうな女性二人組だった。


「すみません、お邪魔します」

 と金髪ショートの女性が言った。後ろには黒髪ロングの女性もいる。


「いえいえ全然! こんな可愛い子たちと飲めるなんてラッキーだな!」

 後半部分は僕に耳打ちする形で友人が言う。


「すみません…」

 黒髪ロングの女性がそう呟いて、僕の目の前の席に座る。僕は気になって女性の方をチラッと見た。


「え…」

 僕は思わず声を出してしまった。その声に目の前の彼女も僕の顔を見た。


「こう…君?」

 目があった瞬間、彼女は驚いた表情と同時に困惑したような表情を浮かべ、つぶやいた。


「康介、もしかして知り合いか?」

 友人の言葉で確信したのか、彼女の顔は懐かしい表情を浮かべた。


「奈緒…?」

 僕も彼女の名前を呼んだ。数年ぶりの再会だった。僕の目の前にいたのは、紛れもなく奈緒だった。昔の面影を少し残しながら、奈緒は大人になっていた。


 僕たちが知り合いだと分かると、僕の友人と奈緒の友人が、僕たちのことを根掘り葉掘り聞いてきた。

 その中で分かったことは、彼女はあのとき県外に転校したこと、高校を卒業してすぐに働きに出ており、今もその仕事を続けているということ。現在は親元を離れて一人暮らしをしていること。友人とは高校からの付き合いだということ。そして、現在彼氏はいないこと。

 そんなことを話していると、奈緒は知らない間に酔いつぶれて寝てしまっていた。


「そろそろお開きにするか」

 友人がそんなことを言う。いつの間にか二人での夕食会は飲み会へと変わっていたらしい。


「奈緒、起きて」

 奈緒の友人が肩を叩く。一向に起きる気配はない。


「おかしいなぁ……奈緒こんなになるまで酔ったことないのに……」


「ちょうどいい、康介、おまえ送ってってやれよ」

 友人は茶化すように笑って言った。


「送っていけって言っても、家わからないし……」


「だったら住所教えましょうか? 奈緒も康介さんなら教えていいって言うと思うんで」

 なぜか奈緒の友人も乗り気だ。


「そうかなぁ……」


 結局二人に押され、奈緒の住所を聞いて送っていくことになった。奈緒をおんぶし、スマホに教えてもらった住所を入れた。どうやら居酒屋から徒歩十分ほどのところにあるらしい。僕の友人と奈緒の友人は「二軒目どうする?」と話をしている。この数時間で二人もだいぶ仲良くなったみたいだ。


「じゃ、頑張れよ」

 ニヤニヤとしながら友人が僕に言った。僕は「うるさいな」と言って、二人と別れた。


 僕は奈緒をおんぶし、片手にスマホを持ちながら歩き出す。しかし日頃から運動を全くしていない僕は、すぐに体力の限界を迎えてしまった。運よく公園があったので、ベンチに彼女を座らせ、僕はその隣に座った。


「おーい……」

 僕は奈緒の肩を数回揺すってみたが、やはり反応がない。どうやら完全に寝ているようだ。


「全く……」

 僕はまた奈緒を背負い、歩き出した。


「うぅぅぅん……」

 歩き出して数分後、彼女が起きたようだ。


「うん? え? こう君? なんでこんなここに?」

 僕の背中で奈緒がパニックになり暴れる。僕は奈緒の両腕が首に巻き付き、危うく窒息するところだった。


「落ち着いて落ち着いて」

 なんとか奈緒を落ち着かせると、奈緒を背中から下ろし状況を説明した。


「私そんな飲んでた……?」

 奈緒は今の恥ずかしい状況と酔っているということもあって、だいぶ顔が赤くなっている。


「とりあえず水買ってくるよ」

 僕は近くの自販機で水を買って奈緒に渡した。奈緒は水を一口飲み、やっとちゃんと落ち着いたようだった。


「家まで送ってくよ」

 僕は言う。


「あ! そう言えば何でこう君がいるの? 恵は?」

 恵というのは奈緒と一緒にいた友人のことだ。


「彼女は僕の友人と二次会に行ったよ」


「そうなんだ……てか何で私の住所知ってるの?」

 奈緒は僕の持っていたスマホに設定されている自分の住所へのルート案内を見ながら言った。


「ああ、恵さんに聞いたんだよ」


「恵……!」

 信頼していた友人に裏切られたような表情をしていたが、すぐに「まぁいいか」と言った。


「だってこう君だし」

 何かに納得したように、一人で手を叩く。


「じゃあお家までお願いしようかな」

 奈緒は言う。僕は「うん」と言って、奈緒を家まで送り届け、連絡先を交換して別れた。


 そこからは少しずつ連絡を取るようになった。奈緒が転校してから僕が何をしていたのかということや、僕が大学で何を学んでいるのかなどいろいろと聞かれては答えてを繰り返した。何もできず、どこにも行けなかった子どもの頃とは違い、時間が合えば彼女とご飯を食べに行ったりした。


 そうして気付けば、奈緒と最後に会った季節になっていた。その日はたまにしている夜の通話の日だった。


『もしもし』

 僕から電話をかけると、すぐに奈緒が出た。しかしいつもより元気がないようだ。


「奈緒、どうした?」

 僕は気になって奈緒に聞いた。


『お父さんが……』

 少し鼻をすすりながら、奈緒は言った。どうやら泣いているようだ。


「お父さんが……どうしたの?」

 僕は言う。そういえば再会してから奈緒の両親のことは聞いていない。


『お父さんがお金持って行っちゃった……』


「え? どういうこと?」


『私が貯めたお金、全部持って行っちゃった……』


「え……」

 奈緒の言ったことに絶望を覚えた。奈緒はまだ親との関係がこじれたまま、大人になってさらに悪化しているみたいだ。


『私……どうしたらいいの……』

 電話越しの奈緒の嗚咽はだんだんと大きくなっていく。


「待ってて、すぐ行くから」

 僕は電話を切るとすぐに家を出た。玄関の鍵を閉めるのすらも忘れて、僕はだんだんと走るスピードを上げた。


 ノンストップで駅までたどり着き、来た電車に飛び乗った。奈緒と再会した店のある駅までたどり着くと、またダッシュで改札を抜ける。奈緒の家までは駅から徒歩十五分ほどだ。駅から出て、再会した店の前を走り抜ける。

 気付けば奈緒の家の前まで来ていた。身体がやっと、自分が今まで激しい運動をしていたのだと気付く。膝に手をついて肩で息をする。息が整ったところでマンションのエントランスにあるインターホンに奈緒の部屋番号を打ち込み、少し待つ。


『はい……』

 とか細い声が応じる。


「僕だよ」

 そう言うと、エントランスのドアが開いた。そしてインターホンが切れる。僕はまた走り出した。といっても奈緒の部屋は二階だ。すぐに着いた。

 今度は部屋の前のインターホンを鳴らす。するとすぐに鍵が開く音がして、ドアが開いた。


「奈緒」

 僕は努めて優しい声で名前を呼んだ。目の前の奈緒は顔を見せたくないのか、ずっと俯いたままだった。


「奈緒……」

 もう一度名前を呼ぶ。すると奈緒はゆっくりと顔を上げた。目は赤くなり腫れている。どうやら僕が来るまでずっと泣いていたみたいだ。


「こう君……」

 奈緒が僕の名前を呼んだ。


「こう君!」

 もう一度僕の名前を呼んだかと思うと、奈緒は僕に抱きつきまた泣き始めた。


 玄関前でしばらくそうしていると、奈緒の嗚咽がだんだんと小さくなる。ようやく落ち着いたようだ。この状況を誰かに見られなかったことが救いだった。


「一回中入ろっか」


 僕の声で、奈緒は僕を家に招き入れた。奈緒の家に入るのは初めてだ。どうやらワンルームで、ラグが敷いてある上にローテーブルが置いてあるだけの簡素な家だった。周りにはタンスが一棹あるだけだった。


「家の中、何も無いでしょ?」

 奈緒が自虐気味に言った。


「……」


「実は一人暮らししたいって言ったらお父さんとお母さんにいろいろ言われたの。でも強引に引っ越したんだ。だから物が少ないの。今ここにあるのは恵から貰ったやつとか、中古の家具屋さんに行って買ったりした物なの」

 初耳だった。


「親には引っ越し先は告げなかったんだけど、見つかっちゃったみたい」

 奈緒の顔がだんだんとまた歪んでいく。涙をこらえているようだ。


「こう君……私、どうしたらいいの……?」

 目に涙が溜まる。


「……僕の家に来る?」

 僕は考えた末言った。奈緒は驚いた表情で僕の方を見た。


「いいの……?」

 数秒の沈黙の後、奈緒は言った。僕は無言で頷く。


 そこからの行動は早かった。奈緒は簡単に泊まるための準備をして、僕と一緒に部屋を出た。念のため奈緒の父親がまだ近くにいないか少し警戒しながら駅まで向かう。

 なんとか父親に会わずに駅までたどり着き、電車に乗って僕の家に向かった。


「ここ、座って」

 彼女をソファーに座らせる。僕はキッチンでお湯を沸かし始める。


「ココアあるけど、飲む?」

 僕の問いかけに、奈緒は無言で頷いた。

 ココアを淹れ、奈緒の前に置く。彼女はコップを手で包むようにして一口飲んだ。


「ねぇ……]

 数分の沈黙の後、奈緒が小さく声を発した。


「どうしたの?」


「海、行きたい……」

 彼女は言う。


「海……」

 その瞬間、昔の約束を思い出した。奈緒と最後に会った日、海に連れていくという約束をしたのだった。


「うん、行こうか」

 僕は言う。そして僕たちは家を出た。


 僕たちの住んでいる県は海のある県だ。海までは電車に乗って一時間ほどで到着する。

 電車を降りて歩いて数分で海にたどり着く。海辺には砂浜などは無く、代わりに海を眺められる大きな公園がある。

 季節柄、強い海風が冷たく頬にあたる。休憩がてら公園にあった東屋に入る。僕が椅子に腰を下ろすと、奈緒は隣に座り無言で僕に抱き着いてきた。

 僕はそのとき、また昔のことを思い出した。彼女と最後に会った日も、神社の東屋で抱き合っていた。


「ねぇ覚えてる?」

 奈緒はつぶやく。


「何を?」


「昔こうしたことあったよね……ほら、最後に会った日……」


「僕もちょうどそのときのこと思い出してたよ」


「ホント?」

 奈緒があのときのように顔を上げる。その表情は驚きに満ちている。


「うん」

 僕が頷くと、奈緒は笑った。


「ねぇ、この時間がこのまま続いたらいいと思わない?」

 奈緒は昔と同じセリフを言う。


「うん、思う」

 僕も同じセリフを思い出す。


「はぁ……帰りたくないなぁ……」

 奈緒の口から白い息とともにため息が出る。


「ウチ、泊まってく?」

 僕は真面目な表情ではなく、少し笑いながら言う。


「うん」

 奈緒も笑って答えた。


「このまま二人だけの時間が続けばいいのに」


「続くよ」

 僕は言った。奈緒は顔を上げる。


「ホント?」

 その目はキラキラしていた。


「うん、好きなだけ僕の家にいたらいいよ」


「でも……親にバレたらどうしよう……」

 奈緒は不安な表情を浮かべる。


「大丈夫、僕が守ってあげるよ」


「なーに? そのキザなセリフ」

 奈緒は笑いながら言う。どうやらツボに入ったらしい。だんだんと肩の震えが大きくなっていく。


「笑いすぎじゃない?」

 僕も釣られて笑ってしまう。


 しばらく二人で笑っていた。この空間が幸せだと感じた。二人の笑いが収まってくると、また静かになる。


「ねぇ……どこか遠くに行こうよ」

 昔僕が言ったようなセリフを、今度は奈緒が言う。


「どこ行く?」


「そうだなぁ……海は今見たし……」


 奈緒は少し考えてから、

「隣の市にでも行ってみる?」

 彼女の答えに僕は笑った。釣られて奈緒も笑った。


「いいけど、近いね」


「冗談だよ」


「もっと遠くに行こうよ」


「南極とか?」


「それは……ちょっと遠すぎるな……」

 また笑う。


「でも、私はこう君と一緒にいられるだけでいいの。一緒にいられるならどこにも行かなくてもいいの」

 奈緒は僕と目を合わせる。僕も真正面から奈緒を見つめる。だんだんと顔が近づいてくる。僕たちは目を閉じてキスをした。


 そして僕たちは強く抱き合った。昔よりも強く、寒さにも負けないように。僕たちの今までの人生にも負けないように。そしてこれからの人生を自由に歩けるように願いながら、僕たちはまたキスをした。

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僕と彼女の小さな世界 安野潔 @Kiyoshi-Anno

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