FATAL LOOM 〜世界から見捨てられた天才魔法使いと、世界を見捨てた災厄の女神

水織慧

第一章

第一話:完璧な構文

 ――静寂。遠く、小川のせせらぎが、絡まり合っていた思考を優しくかしていく。

 そよぐ葉擦れが、露わになった心の喧騒をそっと拾い上げ、どこか遠くへとさらっていった。


 澄み渡った心に響き渡るのは、涼やかに謳う小鳥のさえずり。

 それは、森全体が、自分ひとりのためだけに奏でる、贅沢な調べであった。


 深く吸い込んだ森の空気に、意識が静かに研ぎ澄まされていく。

 開かれた視界の端で、弾けた朝露が古びた石碑を濡らし、一瞬だけ鮮やかにきらめく。


 天の指先のような一筋の陽光が、そこに刻まれた文字を浮き上がらせていた。



 ――それは、太古の昔に失われたはずの、人類の英知。



 この空間ばしょを形作るすべてが――いや、それらを構成する根源の粒子さえも。

 まるで、今ここにいる自分のために、緻密な計算によって完璧に配置されているかのようだった。

 ――この碑文も、この光も、今落ちた露さえも。


 なんと美しいのだろう。

 アリウスは息を呑む。これぞ自分が追い求める美の極致だ。

 そして、その中心にあるもの――。彼は、石碑に刻まれた古代文字へと吸い寄せられるように目を移した。


 周囲を縁取る装飾紋様の、奔放でいてどこか規則的なうねりが、中央の記述を際立たせている。



 今すぐにでも試してみたい。この構文コードが紡ぎ出す魔法ことわりは、きっと美しい。




 ――アリウスは、その完璧な「構文」への陶酔に、しばし時を忘れていた。


 ギルドが何を恐れているのか、彼には理解できなかった。

(教会ならまだしも、ギルドが新魔法の研究を即時凍結? 教会が危険視する「災厄」は、根拠のない妄想だ。現に千年もの間、何も起こっていない。それはギルドだって……)


 ――静寂は、唐突に破られた。


「またここにいたのか、アリウス」


「!」


 思考を分断された不快感に、アリウスは反射的に振り返った。

「……メギナス」


「メギナス『様』、だろ。いくらお前が優秀でも、その呼び方は感心しないねぇ」


 深淵な思考の海から強引に引きずり上げられ、アリウスは露骨に眉をひそめた。

「なんの用だ」


「……くく、そう殺気立つなよ。邪魔をして悪かったとは思っている。だが――例の『新魔法』、まだ諦めきれていないんだろう?」


「……あんたには、関係ない」


「まあ聞け。なぜその魔法の研究が凍結されたか教えてやる。ギルドはな、恐れてるんだよ」


「……『災厄』のことか? だがそれは――」


「違うな」

 メギナスは冷ややかな笑みを浮かべ、アリウスを見据えた。

「奴らが恐れているのは『災厄』なんて曖昧なものじゃない。――お前だよ、アリウス」


「……おれ、だと?」


 あまりに突飛な応えに、アリウスは呆気にとられ、渇いた笑いすら浮かびそうになる。だが、真っ直ぐに射抜くようなメギナスの視線。そこに戯言ざれごとを言っている色はない。


「ああ、そうだ。お前の新魔法の研究報告、聞いたぞ。あれは異常だ。魔法を読み解くだけでなく、自由に再構築する? あまつさえ神聖魔法の力すら組み込むだと? そんな芸当、人間に許された領域じゃない」


 メギナスは一歩踏み出し、声を潜める。

「それが本当なら、魔法の概念が根底から覆る。――千年の歴史が、紙屑同然になるんだ」


「だが……だが、それの何がいけない?」


「ギルドも、王も、欲しいのは制御不能な得体の知れない力じゃない。これまで築いてきた自分たちの権威だ。お前の研究を認めれば、ギルドも国も教会に潰されて終わり。研究の凍結は、最初から決まってたんだよ」


「……」


 アリウスのすらりと伸びた指が掌に食い込む。それは、泥臭いギルドの騎士には似つかわしくないほど、綺麗で繊細な手だった。


「だから、場所を変えろ」


「……なに?」

 ――唐突な提案に、一瞬理解が遅れる。


「『ミストラル』へ渡れ、アリウス」


「……ミストラル。――正気か? 敵国だぞ」


「『向こう』へ通じるパスならある。……それに、あそこの古代図書館にはこれと同じ碑文が、手つかずのまま眠っているぞ」



 ――碑文。



 アリウスは一瞬その魅惑的な響きに心を奪われそうになる。だが、彼の理性はすぐに警鐘を鳴らした。その表情かおには、明らかな警戒と疑念の色が濃く滲んでいる。

「……騎士団長のメギナス『』が、敵国への『亡命』を斡旋あっせんすると?」


「人聞きが悪いな。おれは、あるべき才能をあるべき場所へ還すだけだ」

 メギナスは口元だけで笑う。それは騎士の顔ではなく、どこか得体の知れない策士の表情だった。


 『還す』。その奇妙な言葉選びに、アリウスは眉をひそめた。まるで、自分が元々そちら側の人間だと言わんばかりだ。


「才能……か。それならサイラスがいるでしょう。あいつは誰もが認める『光』の側の人間だ。おれは、ここで魔法を読んでいるだけの、ただの凡人でいい」


「あいつは所詮『秀才』。お前とは格が違う。……ふん。それとも親父たちが背負った汚名がお前を臆病にしたか?」


 アリウスが何か言い返そうと唇を震わせた、その時だった。



 ――不意に、風が止んだ。



 肌を刺すような違和感。森が……やけに静かだ。木々は時間が止まったようにしんとしている。そして――空が陰った。二人の会話を遮るように、森は暗い影に包まれる。


「な……!?」

 アリウスが空を見上げた瞬間、視界を覆い尽くすほどの巨大な影が上空を通過した。

 それは漆黒の瘴気しょうきを尾のように引き、直後、叩きつけられるような烈風が二人を襲う。木々は恐怖の叫びのように、けたたましい唸りをあげた。


「――なんだ、今のは!? 気配が……尋常じゃない」


「……ドラゴン、のようだな」


「――ッ、ドラゴンだと!?」


「漆黒のドラゴン。一国を滅ぼすほどの力を持つ存在……。っはは。こりゃ、想像以上のデカさだ」


「笑い事じゃない。あっちは都市の方角だ。無駄話は……終わりだ」

 アリウスは右手の指輪に触れると、宙に透明な光の軌跡を描き始めた。瞬く間に形成された光の「構文コード」に呼応して、大気が震える。光は収束し、二つの小さな球状の風となって彼の両足にまといついた。


 ――ダンッ、と大地を蹴り、アリウスは影を追って飛び出した。




+ + +


 ――アリウスの姿が消えても、メギナスはすぐには動かなかった。

 視線を落とし、先ほどまで彼が眺めていた碑文をじっと見つめる。

「凡人、か。ただの模様にしか見えないこれを、解読しようとする時点で異常だというのに。…………さて、舞台は整った。ドラゴン相手とはいえ、あいつの実力なら既存の魔法でも撃退してしまうかもしれん」


 その口元が、いびつに吊り上がる。

「……それでは困るんだよ。あいつには『禁忌』に手を染め、この国にいられなくなってもらわなくては」


 メギナスは、ここへ来る道すがら見かけた少年の方角へ、氷のように冷ややかな視線を投げた。

 森で薪を拾っていた、己の運命など知る由もない無垢な少年。

「あいつは論理的に見えて、誰よりも情に脆い。……だが同時に、新しい玩具オモチャを使いたくてウズウズしている子供ガキでもある」


 それは、局面のすべてを掌握した優位者の笑み。

 盤上に置いた少年ポーン一つで、アリウスキングを詰ませる。

 その確信チェックメイトが、彼の口元を不敵に歪ませた。

「だから『理由』を作ってやるよ。『守るべき弱者』――そんな、最高の大義名分をな。……これなら心置きなく試せるだろう? その素晴らしい禁忌新魔法を」


 魔物の襲来を警告する鐘が鳴り響く中、メギナスは愉悦に満ちた足取りで、ゆっくりと都市へ向かった。




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2026年1月1日 12:00
2026年1月2日 12:00

FATAL LOOM 〜世界から見捨てられた天才魔法使いと、世界を見捨てた災厄の女神 水織慧 @kei_mizuori

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