カウンターの中では、泣いちゃいけない サイドストーリー
藤川郁人
早過ぎたギムレット ビフォアストーリー スーズ・ギムレットの禁忌
「だぁ〜、ダメだ〜!」
出勤前、今日も悲鳴を上げているのは。
シェイクの音がどうしてもゴシャ、と濁ったように聴こえるのが抜けず、リズムもバラバラ…わかりやすく言えば、めちゃくちゃだからだ。
出勤前、四限が無い日は必ずこうして1時間のシェイクの練習に充てている。
早くオレも、マスターのように軽やかなリズムでシェイクを刻んで、うまいと言われるカクテルを作ってみたい。
先日やっと最初の一杯――水割りをお客様に出させてもらえて、あの魂が震えるような感動を味わってからは、その想いが一層強くなって。
空回りしている、と言われればそれまでかも知れない。
でも、今は…このバーテンダーという仕事に夢中になっていた。
一人暮らしの冷蔵庫には、既に製氷器が並んでいる。
出来れば純氷でやりたいところだけど、そんな余裕はないし。
ただ、やはり製氷器の氷だと脆くて、かなり砕けやすい。
店で使う硬い氷へのアジャストは必要になるだろうが、とにかくまずはシェイクの基本を身体に馴染ませないとな。
この日も、出勤時間ギリギリまで練習していたシェイクの音はどこかぎこちないままだった。
営業時間は当に過ぎているものの、未だにお客様の姿はないまま。
店としては寂しい物だが、こんな日はやることは決まっている。
マスターからの指導時間だ。
まずはステアから。
「おう、良いじゃないか。
肘も動かなくなってきたな。
人差し指も動かなくなってきたな、そう、人差し指と親指はただの支点だ、動かすのは薬指と中指だけ――」
ステアの練習はまず空のミキシンググラスで始める。
この時に僅かな擦過音――バースプーンの背がミキシンググラスの内側を擦る微かな音。
始めた時には、バースプーンの軌道が不規則になり、ミキシンググラスに当たるカチャカチャ、という音が鳴り響いていた。
ようやくその音が響くことが無くなってきた。
とは言え、集中を切らせば――
カチャ
小さく、音が響く。
指が跳ねて、もう一度。
間をおかずして、マスターの拳骨が飛んで来る。
「馬鹿タレ!
もっと集中せんか!」
「いっ……てぇ!
……分かりました、もう一回お願いします。」
右腕の筋肉を軽くほぐしながらおしぼりを手にする。
今の原因は分かっている。
ミキシンググラスを支える左手が、緊張の余り強張って一瞬揺れたのだ。
掌の汗を拭い、もう一度。
再び空のミキシンググラスに立ち向かう。
ステアの練習は、蝶番がお客様をお迎えする音で終わりを告げた。
「お疲れ様でした〜。
マスター、明日もお願いします!」
着替えた後、店の戸締りを終えてバックヤードを立ち去る前。
マスターに声を掛ける。
「おう、明日も時間あったら見てやるよ。
……あんまり根詰めてやり過ぎるなよ。」
"最初の一杯"の後、どれだけ練習してるんだと問い詰められたオレは、出勤前と帰宅後、1時間ずつ練習していることを白状させられ、怒られた。
それ以来、マスターはこうして無理はするなと口煩く言ってくるようになった。
少しだけそれが、オレを見守ってくれてるように感じる。
「はい、大丈夫ですよ!
あ、明日はシェイクを指導して欲しいんですが……。」
「ああ、分かった。
今日も散々練習したんだ、風呂でしっかりと揉みほぐしてから寝るんだぞ。」
分かりました、と返事をしてバックヤードの扉を開ける。
すっかり秋の夜、という感じだ。
虫の音が遠くから聴こえる。
夜空の星が、少しだけ近くに感じる。
店の中でも合間を見ては練習をしたせいで、右腕はパンパンだ。
今日はステアの自主練は辞めて、カクテルのレシピブックを開こう。
「あ〜、今日も疲れた……。」
2DKのアパート。
アトリエと寝室は分けたいと思っていたから、駅からは歩くけれどお気に入りの部屋だ。
壁が薄いから、以前にステアの練習中に隣りのおっさんが演歌を歌っているのがバッチリ聴こえてきて集中できなかったこともあった。
まあ、55,000円なら安い方だとそこは諦めている。
コンビニで買って来たメシを温めている間に、レシピブックを三冊。
何度も読んではいるけれど、まだ頭から抜けてしまうことも多い。
しっかり覚え込まないとな。
チン、という音を立てて電子レンジがナポリタンを温め終わったことを知らせる。
蓋を開け、ケチャップの濃厚な香りを嗅ぎながら口に含む。
パスタは音を立てるな、と言うが、一人暮らしの気ままさから遠慮なくズゾゾ、と啜るようにしながらレシピブックを開いていく。
このレシピブックはあいうえお順だ。
逆引きもしやすくて助かっている。
昨日はさのところまで読んだから……しからだな。
レシピブックに掲載された写真は美しく着飾った貴婦人のようで、手の込んだガーニッシュがカクテルの品格を主張してくるように見えた。
良いなぁ、こんなガーニッシュが作れたら、もっとお酒が美味しく見えそうだな。
とは言え、まだまだ技術的には半人前も良いところだ。
しっかりシェイクが出来るようにならないとな。
しのページを読み終え、すのページを開いた時だった。
飾り気のない、黄色いカクテル――スーズ・ギムレットを見つけた。
一つのガーニッシュもない、シンプルなカクテル。
だけど、その色合いがピカソの用いた印象的な黄色に重なって見えたんだ。
スーズ・ギムレットか…明日振らせてもらおうかな、飲んでみたい。
気が付いた時には、レシピブックのページはなのページまで進んでいた。
翌日。
マスターにシェイクを見てもらい、まだまだだな、なんて言葉に少しだけ落ち込みながら。
スーズ・ギムレットを振らせてもらえないか聞いてみた。
「お、良いところ突いてくるじゃねえか。
あのリキュールは少し難しいぞ、やってみな。」
「ありがとうございます!」
レシピブックを思い出しながらシェーカーに氷を組んでいく。
スーズを40ml、最初の一杯よりは震えることのなくなった手でメジャーカップを傾け、シェーカーに注ぐ。
ライムを搾り、20ml。
左肩の前で構えて――左脚でリズムを刻むようにしながらストロークを始める。
指先に伝わる温度を頼りに、シェーカーの中の液体が溶け合うように一つになるのをイメージしながら、なんとかリズムを乱すこともなくその一杯を作り上げる。
冷やしたカクテルグラスに注ぎ、その色合いが昨日見た写真とは違うような気がして、不安に囚われる。
「おし、まずは飲んでみろ。」
「はい…。」
少しだけ震える指でグラスを持ち上げる。
この間試しに作ったギムレットは温くて、水っぽくて。
マスターの作るギムレットとの違いを見せ付けられて落ち込んだのを思い出す。
恐る恐る口を付けたその時。
最初に感じたのは香り。
ライムの届ける爽やかな香りが、ハーブの香りと溶け合って微かに鼻をくすぐる。
そして、口に含んだ時には――僅かに、それでも確かに口腔内に広がっていく柔らかな苦味――その後に、リキュール由来の甘やかな味わいが、その苦味を包み込んでいく。
そして、ライムの酸味がそれらの余韻を断ち切るかのように爽やかに――。
うん、これは――美味しい。
「おう、よくできたじゃねえか。
こりゃあお客様に出せるのももうすぐだな。」
「本当ですか!?
ありがとうございます!」
マスターの顔が満足そうに笑った後、そうだ、と少しだけ悪戯を思いついたように片頬を上げる。
「せっかくだ、ライムとレモンの違いも体験してみると良い。
ちょっと待ってろ。」
そう言って、あっという間にシェーカーに氷を組み、スーズを注ぎレモンを搾り入れる。
早い。
いつかはオレもあの流れるような動きでカクテルを作れるようになるだろうか。
登る頂の高さを見せつけられたように感じる。
リズミカルな、乱れることのないシェイクの音の後。
注がれたスーズ・ギムレットは昨日見た写真と瓜二つに見えて――技術の違いを否応なく実感させられてまた少しだけ落ち込む。
「ホラ、飲んでみろ。
スーズにはレモンも合うんだぜ。」
「いただき、ます……。」
もう一度、そっくりなそのグラスを口に付ける…。
スーズ由来の苦味と甘み、それを舌の上で転がしながら待っていたが、ライムの鋭さを感じる酸味とは違って――この一杯の酸味は、優しさを感じさせるような、甘やかさと同居するような――それでも、間違いなくアフターフィニッシュを締めるような力強さを感じた。
「これは…美味しいです!
ライムとレモンでもこれだけ変わるなんて…!」
「おう、面白えだろ、カクテルって。
お前ならどっちが好きだ?」
「オレは…やっぱり、マスターの作ったこのレモンのスーズ・ギムレットの方が好きですね!」
おう、おう、と満足げに頷いていたマスターの顔が、何かを思い出したように突然強張る。
「そう言えばさ、フミトくん。
今さらなんだけど。」
親指を噛みながらオレに問いかける。
なんだ急にくん呼びだなんて。
「なんですかマスター。
急に気持ち悪い言葉遣いして。」
「……お前、まだ18じゃなかったっけ……。」
「そうですよ?」
「……酒、飲んじゃダメじゃ……。」
………………。
「忘れましょう。
人は忘れることのできる生き物です。」
「……そうだな。
お前、老けて見えるからバレないだろうし。」
今日のioriも平和である。
何故か落ち込むオレを除いて。
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