まつみ草の足跡

水城 真以

まつみ草の足跡

 馬の息遣いが響き渡る。

 荒々しいこの馬は──乱丸らんまるは顔を上げた。

 無意識に表情がほころんだことに、彼自身気づいていなかった。


 驚く侍女に「兄上だ」と言い捨て、乱丸は草履を突っかけつつ慌てて庭に駆け込んだ。


 考えていた通り、兄の長可が勝手に庭に馬を繋いでいる。  長可の愛馬・百段ひゃくだんは荒い息を吐きながら、主の髷(まげ)をんだり、頬を擦りつけたりしていた。


「兄上!」


 乱丸が呼びかけると、長可は「おう、乱」と手を上げた。


「久しいな。息災であったか」

「兄上こそ、お陰さまで」


 乱丸は興奮が悟られないよう、わざと表情を硬くして答えた。


「近く便りをお出しせねばと思うておりましたが、その必要はなかったようですね」


 乱丸が言うと、長可の裏拳がごく軽い力で額に打ちつけられた。


「たわけ。お前は思案し過ぎなのだ。もっとまめに便りを寄越さぬか」


 乱丸はふっと表情を崩し、兄の周りを歩き回った。


「兄上ほど、乱は筆まめな性質ではないのです。許してください」


 桶を持ってきた侍女は、遠慮のない二人のやり取りを、はらはらした様子で見つめていた。

 近頃「鬼武蔵」という異名まで与えられるほど苛烈な男だ。森家に仕える者なら誰もがその恐ろしさを知っているし、恐らくこの国の誰もが森長可という名を恐れているはずだ。


 とはいえ、乱丸にとってこの兄は、畏怖するだけの相手ではない。

 同母の兄弟であり、幼い頃は一緒に川を泳ぎ、馬に乗せてもらって可愛がられていた記憶がある。

 性格は合わないが馬は合う。そういう兄弟であった。


 乱丸が井戸で水を汲んで戻ると、庭を見ながら長可は目を細めていた。


「お前、金山かねやまに行くのだろう」


 乱丸が渡した桶でばしゃばしゃと足を洗いながら、長可は言った。


「めでたいな」

「兄上の方こそ、信濃に入られると上様から伺いました」

「ああ。加増だ。だが、長年、若と一緒にいたからな。お傍を離れるのは寂しい気持ちが強い」


 若、というのは織田家の若き当主・信忠のことである。

 さしもの乱丸も主家の主をそのように呼ぶのは気が引けるのだが、長可は未だに「若」と呼び、信忠もなんだかんだと憎まれ口を叩きつつ、長可を気に入っているようであった。


 藤棚を見ながら、長可は「藤は下がったか」と呟く。

 乱丸は侍女から盆を受け取り、後は下がるよう言い渡した。

 逃げるように去っていく侍女の足音に耳を澄ましながら、長可に盃を渡し、酒を注ぐ。長可はぐいっと煽りながら、乱丸に「兵庫ひょうごをやる」と言った。


「兵庫とは、各務かがみ兵庫のことでしょうか」

「他にどの兵庫がいるか」

「いえ……」


 各務兵庫といえば、「鬼兵庫」とも呼ばれる長可の傅役もりやくであり、右腕だ。亡き父・可成(よしなり)の代から仕えている宿老でもある。


 その兵庫をなぜ自分に――。

 戸惑っていると、長可が乱丸に盃を押しつけた。

 盃の中が白く濁った液体で満たされる。雪のようだなと思いながら、乱丸はそれを飲み干した。


「酒に強くなったな。上様に鍛えられたか」

「いえ。上様は、それほど飲まれませぬゆえ」

「若は、上様に似たようだな」


 嬉しそうに、くすぐったそうに、そして寂しそうに長可は呟いた。

 最初の一杯こそ酌み交わしたが、あとは勝手だ。  長可は手酌で飲みながら、「兵庫は使える」と言い添えた。


「お前を簡単に上様は手放さぬであろう。お前が金山にしばらく戻れぬならば、金山は誰が治める。帰れるまでは、兵庫にやらせろ。そして、戻ってきたら兵庫に政務を教われ」

「……乱に、できますでしょうか」


 ぽつりと言葉が零れたのは、相手が兄だったからだけではない。

 雪のような酒に、少しばかり酔ったせいだ。


「できる」


 長可はきっぱりと言い切った。


「乱は内政に向いている。情に縛られず、その時々に必要なことを見極められる目を持っておる」


 長可は、乱丸の右目をそっと撫でた。


「上様がお前を傍に置き、すぐに奏者そうしゃの役目を与えたのは、そういうところを見極めていたからであろう」

「ですが、城主としてのお役目は、奏者とはまた違います。……乱に、兄上のようにできるかどうか」

「乱」


 長可は表情を和らげた。


「できるかどうかではない。やれ」

「……兄上はすごいよなぁ……」


 乱丸は、長可の肩に頭を載せた。


「乱、重たい」

「酔いました」

「嘘をつけ」


 呆れた声だが、長可は振り払おうとはしなかった。それをいいことに、乱丸はますます自重を兄に預ける。

 きっと、長可が親しみを持っている若き主君とて、こんな風に甘やかされてはいないはずだ。

 風の音と、慣れ親しんだ兄のまとう香が、心の不安を溶かしていく。


「兄上。乱は、十八になりました」

「知っている。秋が終わる寸前であったか、お前は生まれた」

「ですが──秋を超えても、乱はきっと、兄上のようにはなれません」

「そうか? 俺が十八の頃は、もっと暴れていたが」

「……ですが、兄上は乱よりもずっと若くして、父上亡きあと、金山の主となられました。嫡男でもなかったのに、内政もそつなくこなされ、まことにすごかったのだなと……ともに暮らしていた頃は微塵も思いませんでしたが」 「思わなかったのか……」

「上様からは知行もいただいております。そつなく政務はこなしているつもりです。……でも乱は、兄上のすごさを、日々目の当たりにしております。兄上のようになれるだろうか……」


 不意に、長可の手が伸びてきた。

 頭の上で弾む掌は、相変わらず無骨で、墨と血の混じった匂いがした。


 この兄は、乱丸よりもうんと幼いうちに一国一城の主となった。

 時にあなどられつつも、鬼武蔵と称されるほどの強い武者となった。


(でも、本当は)


 兄の掌に甘えながら、乱丸は瞼を閉じた。


「……兄上、覚えている?」

「ん?」

「昔、千丸達も巻き込んで、一緒に穴を掘ったこと」

「ああ、あれか。兵庫を落とした」

「楽しかったなぁ」


 思わず笑みが零れる。


 信長に仕えたことに悔いはない。

 どれだけ離れようとも、乱丸は主君の危機にはいつだって駆けつける。その覚悟は常にある。命を捨てても惜しくはない。そう、心の底から思っている。


 しかし、それとは別に──ほんの少しだけ思うのだ。


 もし長可と共に、少しずつ大人になれていたら。


 そんな甘えたことを言えば、きっと今度は本気で小突かれるだろう。考えてもせんなきことを考えるなど情けない、と。

 だから乱丸はそれ以上は話さない。掌の温もりに甘える以上に、踏み込まない。


(でもせめて、今だけは)


 長い睫毛を伏せながら、乱丸は心地よい浮遊感に身を任せた。









「……殿」

「兵庫。いたのか」


 長可が盃を傾けながら、片膝に乱丸を寝かせ直していると、各務兵庫が顔を顰めて現れた。


「殿が若君の御屋敷に入った時から、ずっと控えておりましたが」

「忘れておったわ」

「まったく……というかあの落とし穴、やはり殿もご存じだったのではございませぬか! 儂が穴の中から苦言を呈した際、知らぬ存ぜぬを通しておいででしたが!」


 憤る兵庫に、長可は弟を起こさないよう気を配りながら笑った。


「あの時は、笑いをこらえるのに苦労したものよ。乱の『野良猫が入り込んだのでは』という口八丁に、そなたが気圧されていた顔が……」


 長可は膝の上で眠る弟の髪に、そっと指を差し込んだ。眠りにくいだろうと元結もっといをほどいてやる。

 普段、城内ですれ違う時はつんと澄まして、隙のない奏者の顔をしている。だが寝顔は──昔と変わらない。


(このまま大人にしてやりたかった──などと言うたら、そなたは呆れるだろうよ、乱)


 兵庫の笑い声は、いつしか止んでいた。

 長可は、乱丸の目の下に浮かんだ隈をそっとなぞる。  たとえどれほど血を浴びようとも、長可にとって乱丸はただの弟だ。


「地獄には、この兄が先に待っていてやる。──安心して今は眠れ」


 静かな寝息が耳を打つ。

 幼い頃のまま変わらぬ寝顔に、安堵と罪悪を抱きながら、長可は盃を持っていない手で、膝に広がる黒髪を指に絡ませた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

まつみ草の足跡 水城 真以 @mizukichi1565

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ