転移先が“病原体”を知らない世界でした。検疫官の私が“英雄”になるまでの三日間

那由多

転移先が“病原体”を知らない世界でした。検疫官の私が“英雄”になるまでの三日間

さっきまで私は病院の更衣室にいた。


 白衣を脱ぎ捨て、髪を雑にまとめ、ロッカーの扉を閉めたところだった。手の甲にはアルコール消毒の匂いが染みついたまま。スマホの画面には「当直明け」の文字。頭はぼんやりしているのに、妙なところだけが冴えている。


 帰って寝る。水を飲んで、シャワーを浴びて、倒れるように寝る。


 そう思った瞬間、視界がすっと白くなった。


 次に目を開けたとき、頬に冷たい砂が張り付いていた。


 石畳。潮の匂い。魚と汗と、腐りかけた果物の臭気。耳の奥で、聞いたことのない言葉が怒鳴り合っている。


 私はゆっくり起き上がった。立ちくらみ。脱水の感覚。徹夜明けには慣れているはずなのに、世界の輪郭が妙に鮮明すぎる。


 ……ついに幻覚を見るようになったか。


 働きすぎの医師が見る幻覚としては、ずいぶん凝っている。目の前を荷車が通り過ぎた。荷車を引くのは馬。道の端には帆船。倉庫の壁は石造りで、看板の文字は読めない。


 幻覚にしては、風が冷たい。匂いが生々しい。砂が痛い。


 そのとき、叫び声が上がった。


「倒れたぞ!」

「瘴気だ! 港の瘴気が強まってる!」


 人垣の向こうで、若い荷運びが膝から崩れ落ちた。咳。乾いた咳。肩が上下し、顔が真っ赤だ。額に汗が浮いているのに、唇は乾いて見える。


 反射で身体が動く。


「大丈夫ですか。息は――」


 言いかけたところで、香の煙が割り込んだ。


 布を頭からかぶった男たちが香炉を掲げて押し寄せる。先頭の男が派手な装束を翻し、倒れた青年の上で香を焚き始めた。煙がむっと広がる。


 青年がさらに咳き込んだ。咳が深くなる。呼吸が荒くなる。


 だめだ、それは。


(香、いま焚く? はぁ? 咳き込みイベントを追加してどうするの)


「今、それやめて。咳が――」


「黙れ」男が私を睨んだ。「瘴気を払っている。儀式の邪魔をするな」


 周囲の視線も同じ方向を向いている。祈りの形をした安心。見えないものより、見える儀式にすがりたい気持ちは分かる。分かるから、余計に怖い。


 私は一歩引いた。ここで割って入れば、倒れた青年の周りがさらに密になる。必要なのは言い負かすことじゃない。被害を増やさないこと。


 代わりに、目を使う。


 倒れた場所。青年の服。咳の乾き方。呼吸の速さ。周囲で同じように顔を赤くしている人はいないか。さっき別の方向で咳をしていた男はいないか。


 視線が船に吸い寄せられた。ちょうど同じ船から降りた別の男が、口元を押さえてうずくまっているのが見えた。


 ……同じ症状かも。


 呪いじゃない可能性が高い。感染症。呼吸器系。問題は病気そのものというより、人の動きだ。


 この世界に“病原体”なんて言葉はないだろうけど、仕組みは同じだ。私が止めたいのは熱ではなく、熱が増える流れ。


 次の瞬間、別の悲鳴が上がった。


「危ない! 落ちる!」


 木箱が崩れた。荷運びの一人が腕を押さえて倒れ、前腕が不自然に曲がる。血がにじむ。さらに年配の男が箱の角に肩を打ってよろめき、頭を石にぶつけて崩れ落ちた。


 人々が一斉に駆け寄ろうとする。


「待って、動かさないで!」


 声が出た。目の前で崩れる身体を見ると、身体が勝手に反応する。


 私はまず頭を打った男へ行った。顔色が悪い。呼吸はあるが浅い。意識は混濁気味で、言葉にならない声を漏らしている。吐き気を訴えようとして、喉の奥が鳴った。


 瞳孔を覗き込む。左右差がある。片側がわずかに大きく、光への反応が鈍い気がする。額にはたんこぶ。耳の後ろにうっすら内出血……見間違いかもしれないが、嫌なサインだ。


 頭部外傷。頭蓋内出血が疑わしい。頸椎損傷もあり得る。


「抱え上げないで。首を動かさない。頭の位置、このまま」


「でも、地面が冷たい!」


「冷たいのは後でどうにでもなる。今動かしたら、取り返しがつかないことがある」


 私は周囲に目を走らせた。


「布を丸めて。首の左右に当てて、動かないようにする。吐きそうなら、身体ごと横向きにする。首だけ捻らない」


 言われた若者が固まる。分からないのは当然だ。だから私は短く、強く言った。


「今は、頭の中で血が溜まるのがいちばん怖い。増えたら、息が止まる」


 口から出してから気づく。この世界にCTなんて多分ない。救急車もない。脳外科もない。


 出血だったら、内科医の私にはどうしようもない。


 その焦りを飲み込んで、私は続けた。


「治す役の人はいる? 治癒師とか、そういう人。いるなら今すぐ呼んで。手遅れになる前に」


 その一言で周囲の空気が変わった。香の煙より、現実の言葉が刺さった。


「いる! 治癒師だ! 呼べ!」


 私は次に骨折の男へ移った。前腕の変形。裂創はあるが、骨が飛び出してはいない。開放骨折ではなさそうだ。


 出血は多くない。まず圧迫して止血。清潔がないなら、せめて新しい布。固定。痛みと出血でショックに寄る可能性もある。


「腕を高く。きつく縛りすぎない。指先の色を見る」


 添え木にできそうな板を探し、布で巻く。指先を押して戻りを確認する。感覚はある。よし。


 その間に、白い外套の女性が駆けてきた。髪を結い、額には汗。息が上がっているのに、目だけは静かだ。


 彼女は頭を打った男の額に手を当てた。


 熱い光が指の隙間から漏れる。


 男の呼吸が少し落ち着いた。顔色が戻る。吐き気が引いたように喉の鳴りが止まる。


 治癒師。魔法。


 幻覚ではないらしい。


 治癒師が私を見た。目が真剣だ。


「あなた、動かさなかったのね」


「動かしたら悪化する可能性がある」


 治癒師は短く頷いた。そしてこちらの世界の言葉で何かを呟いたあと、たどたどしい共通語で、周囲にも聞こえる声で言った。


「……助かった。頭の中で、血が溜まりかけていた。あなたの言う通り。私の術でも、動かされていたら戻せなかった」


 ざわ、と空気が揺れた。


 権威の公開承認。これが効く。私はそれに寄りかかりすぎないように、息を整えた。


 治癒師が続ける。


「私の術は壊れたものを整えられる。でも、壊れ方を増やされたら追いつかない。だから、この方の言うことを聞いて」


 外からの検証が、二度と同じ意味で刺さることがある。


 私は今、ようやくこの場で「口だけのよそ者」から半歩だけ抜けた。


 そして同時に理解した。


 ここは、私の世界ではない。


(転移……? 異世界……? いや待って、私いま何してるの。とりあえず当直明けなんですけど)


 ◇



 頭を打った男が落ち着いたことで、周囲の緊張がほどけた。ほどけた分だけ、別の混乱が湧く。人は安心した瞬間に動き出す。動き出して、集まる。


 港の端で咳き込んでいた男の周りにも人が寄る。倒れた青年の周りにも寄る。香炉の煙がそこら中で揺れる。


 私は喉の奥が冷たくなるのを感じた。


 まずい。密だ。


 鎧を着た男――さっきから指示を飛ばしている役人風の男が私に近づく。顔つきは硬いが、目が現実を見ている。


「お前、今のは何をした」


 言葉が通じる。完全ではないが通じる。変なところだけ都合がいい。転移補正ってやつだろうか。ありがたいけど、職場環境がブラックすぎる。


 私は短く答えた。


「応急手当。あと、動かさない判断」


「お前は治癒師ではない」


「違う。医者。病気や怪我を診る」


 役人は私の手元、固定された腕、落ち着いた頭部外傷の男を見て、次に港の喧騒を見た。目が戻る。


「港の監督官だ」彼は胸を叩いた。「この騒ぎは何だ。祓い屋が瘴気と言っている」


 祓い屋の頭領が聞きつけて近づいてくる。香炉を揺らし、偉そうに顎を上げる。


 私は深呼吸した。否定から入ったら負ける。ここは議論の舞台じゃない。現場だ。感染症は、口げんかしてる間に増える。


「瘴気かどうかは今は置く」私は言葉を選ぶ。「でも、あの青年は熱と咳がある。もし、同じ症状が他にも出ているなら……港の人の集まり方は危ない」


 監督官が眉をひそめる。


「もし?」


 私は頷いた。ここは断言しない。


「一人だけなら事故や毒もある。でも、熱と咳が同時に出てるのは嫌な形。判断するには材料がいる。今すぐ集めたい」


 祓い屋が嗤った。


「弱気な言い方だな。瘴気は風だ。風は儀式で払う」


 私は香の煙を見た。美しいものほど人を納得させる。だから危険だ。


 そこへ白い外套の治癒師が私の背後に立った。周囲が静まる。


「先ほどこの方は素晴らしい対応をされていました」治癒師が監督官に言う。「私は賛成です。今は、集めて祈るより、分けて落ち着かせた方がいい」


 監督官の目が一瞬動く。治癒師の言葉は重い。この世界の権威だ。


 私はその権威に寄りかかりすぎないように、具体に落とす。


「咳が出てる人、熱っぽい人を探して。手を挙げさせて。船の関係者か、港の人かも分けたい」


 監督官が部下に目配せする。


「聞け! 咳がある者、熱がある者は前に出ろ!」


 ざわめきの中で、二人、三人と手が上がった。


 一人は倒れた青年の仲間の荷運び。顔が赤い。息が早い。

 一人は船から降りたばかりの男。口元を押さえて、寒そうに肩をすくめている。

 もう一人は酒場の前にいた女。さっきから咳を我慢していたのだろう、やっと噴き出すように咳き込んだ。


 私は監督官を見る。


「……一人じゃない」


 監督官の顔色が変わった。


 私は続ける。ここからは確信に近い。


「同じ症状が同じ時間帯に複数。しかも船と港の動線に沿って出てる。移る熱の可能性が高い。確証を待ってる間に増える形だ」


 祓い屋が声を荒げる。


「移るなどと!」


 私は言い返さない。言い返す時間がもったいない。


 監督官にだけ刺す。


「私が間違ってたら、明日ここから叩き出していい。外れたら私の面子が死ぬだけ。でも当たってたら、港が死ぬ」


 監督官が唇を噛む。港は人と荷物の流れでできている。流れを止めるのは罪に等しい。だから彼は迷う。迷う時間が感染にとってはご馳走だ。


 私は最後の一押しをする。


「水場を作って。手洗いとうがい。倒れた人の周りは縄を張って、入る人を決める。二人だけ」


「なぜ二人だ」


「近づく人が増えるほど、次の患者が増えるから」


 監督官が短く号令をかけた。


「井戸を空けろ! 水桶を運べ! 縄を持ってこい!」


 ◇


 私は監督官の部下に縄を渡しながら言った。


「倒れた人の周りに縄を張って。中に入るのは決めた人だけ。勝手に出入りしない」


「決めた人って誰だ」


「まず二人。運ぶ人と水を渡す人。あと、名前を聞いて書ける人がいれば一人」


 監督官が眉をひそめた。


「書ける者?」


「書ける人がいないなら、刻んでもいい。棒線でもいい。とにかく残す」


 倒れた青年の周囲に縄が張られると、人垣が一歩引いた。たったそれだけで空気が少しだけ動いた。人は境界が見えると止まれる。


 倒れた青年は震えていた。悪寒。高熱の入り口の震え方だ。顔は赤いのに手先が冷たい。呼吸数が増えている。


 私は距離を取りつつ声をかける。


「名前は言える? 息は苦しい?」


 青年は声にならない声で頷いて、咳き込んだ。乾いた咳。胸の奥が痛いという訴えが表情に出ている。


 薬はない。酸素もない。点滴もない。ここでできるのは支持療法、そして広げないこと。


「水を」私は監督官の部下に言った。「少しずつ。吐くなら止める。熱が高いと脱水になる」


「水ならある!」


「塩は?」


「ある!」


「砂糖は?」


 監督官が答えた。


「商人から取れる」


「じゃあ、塩と砂糖を少し混ぜた水を作って。甘いくらいでいい。飲めるなら飲ませる」


 この世界で通じる言葉に変換しながら、自分の頭の中でだけ“経口補水”という単語を転がした。


 港の端で咳をしていた男、船から降りた男、酒場の女。さっき手を挙げた三人にも、縄の外で待ってもらう。


「咳がある人はこっち。熱っぽい人も。みんな一列に。離れて」


 離れて、と言った瞬間に、自分でも嫌になるくらい強い口調になっていた。徹夜明けは感情のブレーキが薄い。


 監督官が部下を叱り飛ばして、人の列を作る。港の人間は動線を作るのが上手い。荷の流れと同じだ。


 そこへ祓い屋の頭領が香炉を鳴らして割り込もうとする。


「待て、儀式が先だ!」


 私は監督官ではなく、頭領の後ろにいる見習いたちを見た。若い。目が泳いでいる。怖いのだ。怖いと強い言葉を信じる。


 私は頭領を論破しない。論破すると彼は意固地になる。代わりに、煙にだけ言及した。


「その煙、咳を増やす。今はやめて」


 頭領が顔を歪める。


「瘴気払いを否定するのか!」


「否定してない」私は嘘にならない範囲で答えた。「今は、咳を増やしたくないだけ」


 監督官が頭領を押しとどめた。


「今は港の指揮に従え。儀式は後だ」


 宗教より物流が強いらしい。少なくともこの監督官の中では。


 列に並んだ三人を、私は近づきすぎない距離で観察した。


 船の男は寒そうに肩をすくめている。悪寒の典型。荷運びは息が荒い。酒場の女は咳を我慢しようとして、結局咳き込み、涙目になった。


 同じ時間帯に似た症状が複数。動線は船から港へ。偶然にしては都合が良すぎる。


 私は監督官に言った。


「船の中、もう調べた?」


 監督官が部下に目配せする。部下が走る。しばらくして戻ってきた。


「監督官! 船の中で二人、すでに寝込んでます。高熱で動けないと!」


 決定打だった。


 私は息を吐く。これで断言できる。断言しても医師として不自然じゃない。


「……船が始まり。港が次」私は監督官に言った。「今は止めないと、明日、荷が動かなくなる」


 監督官が歯を食いしばって頷く。


「船を止めろ。上陸はさせるな。荷の受け渡しは外でやれ」


 港が止まる瞬間の音は意外と静かだ。叫び声より先に、空気が重くなる。商人の顔色が変わり、荷運びたちがざわつく。


 私はそのざわつきを見ながら、次の一手を考える。


 ここで全てを止めたら反発が出る。反発は地下の集まりを生む。地下の集まりは追えない。追えないものは増える。


 必要なのは狙って止めること。


 私は倉庫を指差した。


「あの倉庫の端、空けられる? 熱がある人をそこで休ませたい。咳がある人と一緒に」


 監督官が渋い顔をする。


「倉庫は荷の命だ」


「港の命は人」私は言った。「人が倒れたら荷は腐る」


 監督官は一瞬だけ私を見て、舌打ちして部下に命じた。


「端を空けろ。荷は奥へ寄せろ」


 倉庫の端に簡易の隔離区画ができる。縄。桶。布。灰。水。少しの砂糖と塩。


 治癒師が寄ってきた。白い外套のまま、疲れた目をしている。


「あなたは……さっきから、病を“移る”と言うのね」


「今の形は移る」私は答えた。「船の中にもいるなら、なおさら」


 治癒師は少し唇を噛んだ。


「私の術で熱を下げても、また上がることがある。元気になった人が動き回ると……」


「増える」私は頷く。「それがいちばん厄介」


 治癒師の目が揺れる。


「治すことが、広げることになるなんて」


 私は一瞬迷ってから、正直に言った。


「現実は、よくそうなる。目の前の苦しみを減らすことと、増える苦しみを減らすことは、別の技術」


 治癒師は黙って頷いた。賢い人ほど、矛盾に傷つく。


 夕方。隔離区画に追加の発熱者が運び込まれる。船の荷を扱った者。酒場で船の乗組員と話した者。


 私はひとりひとりに同じ質問をする。


「いつから具合が悪い」

「昨日、誰と長く話した」

「どこで寝た」

「一緒に食器を使った人は」


 相手にとっては意味不明な質問だ。けれど、意味不明な質問ほど、あとで線になる。


 監督官が言う。


「お前、尋問みたいだな」


「尋問じゃない」私は首を振る。「地図を作ってる」


「地図?」


 私は倉庫の壁に炭で丸と線を描いた。名前が書けない者のために、印を決める。船の紋章、酒場の看板の絵、荷運びの持ち物の特徴。丸に印をつけ、線でつなぐ。


「誰がどこで繋がったか。線が見えたら切れる」


 監督官はしばらく壁を見ていた。港を仕切る男の目が、物流の目から、人の目に切り替わる。


 夜。港は騒がしかった。祓い屋の怒号。商人の不満。酒場の抗議。監督官の怒鳴り声。


 それでも隔離区画の中は静かだった。縄の外に人が寄りつかないだけで救えるものがある。


 倉庫の壁の線を見ながら、私は胸の奥に遅れて湧いてきた感情を見つけた。


 恐怖。


 そして奇妙な現実感。


 ……これは幻覚じゃない。


 私は喉の奥で小さく呟いた。


 当直明けに、何してるんだろう、私。


 それと同時に、もっと古い記憶が匂いと一緒に浮かび上がる。


 私がまだ内科の医師だけをしていた時。世界的に感染症が流行した。


 パンデミック初期。病棟の廊下。防護具の不足。噂と怒号。患者の家族が泣き叫んで、病棟の入り口を叩いた夜。私は前線で患者を診ていた。治療はした。けれど、増える勢いは止められなかった。


 画面の中で疫学者が言っていた言葉が、当時の私には難しかった。接触者追跡。行動変容。感染経路。全部、遠かった。


 その結果、救えなかった人がある。今も頭によぎる。


 だから学んだ。医者を一回辞めてまで、公衆衛生を。制度と行動を。人の流れを。現場で患者を診ることと、現場そのものを守ることは別だと、骨に刻んだ。


 二度と、同じ後悔をしたくなかった。


 ◇



 二日目の朝、港は目に見えて疲れていた。


 倒れている人間の数が増えた、というより、動けない人間が増えた。高熱は人を黙らせる。咳は会話を奪う。筋肉痛は働く力を削る。港の機能は人の体力でできている。体力が落ちれば荷は動かない。


 監督官は顔色を失っていた。祓い屋に文句を言う暇もない。現実の重みが勝っている。


 私は隔離区画を見回り、布を配らせた。布で口と鼻を覆う。濡らすと呼吸がしやすい。灰を混ぜた水で手を洗う。桶を分散させ、井戸の周りに人が溜まらないようにする。


 布を配っていると怒鳴り声が上がった。


「この女は何様だ!」


 祓い屋の頭領だ。派手な香炉と派手な装束。彼らの儀式は目立つ。目立つことが信頼の土台になっている。だから地味な手順は憎い。


 頭領は監督官に詰め寄る。


「港の神聖な儀式を妨げるな! 瘴気の流れが乱れる!」


 監督官が苛立たしげに言い返す。


「儀式をした連中が倒れている!」


 その言葉が私の胸に静かに落ちた。


 やっぱり感染症だ。


 私は隔離区画の発熱者の数と、隔離していない区域の発熱者の数を板に書かせた。文字が書けない者のために棒線と丸にする。増減が一目で分かる形。


 港の人間は数字より荷の数が好きだ。だから私は“数”を“見える荷”にした。


 治癒師が寄ってくる。目の下にクマができている。


「熱を下げた人が、隔離から出ようとして揉めた」彼女が言った。「治ったのに閉じ込めるな、と」


 想定していた最悪の摩擦だ。


「出すと増える」私は短く言った。


 治癒師が小さく首を振る。


「私の術で楽にしたい。でも、楽にした結果で増えるなら……私が広げたことになる」


 その罪悪感は医療者には耐えがたい。私も知っている。あの頃、私たちは“治療しているのに間に合わない”という感覚に押し潰されかけた。


 私は治癒師の目を見た。


「あなたは悪くない。目の前の苦しみを減らすこと、その価値は変わらない」


 治癒師の目が揺れる。


 私は続けた。


「ただし、動けるようになった人は隔離の外に出せない。だから、熱を下げた人ほど隔離が必要」


「矛盾してる」と治癒師が言った。


「直感と仕組みが噛み合ってないだけ」私は答えた。「直感は元気=安全。仕組みは元気でも移す。それが現実」


 治癒師はしばらく黙ったあと、静かに頷いた。


「分かった。私が言う。治癒師の言葉なら聞く人がいる」


 彼女は正しい。権威は使い方を間違えると毒だが、正しく使えば命を救う。


 治癒師は隔離区画の外に立ち、人々に向かって言った。


「熱が下がっても、外へ出ないで。あなたが元気になった分だけ、港が倒れることがある。私の術は“楽にする”。でも“増やさない”のは、別の仕事」


 祓い屋の頭領が顔をしかめる。自分の立場が削られるのが分かるのだろう。


 その頃、隔離区画の外で、昨日頭を打った男がぼんやりと起き上がっていた。治癒師の術で持ち直したのだろう。だが、ふらついている。


 私はすぐに声をかけた。


「起き上がらないで。頭を打ったあとは遅れて悪くなることがある」


 男は不満そうに眉を寄せたが、結局座り込んだ。監督官がそれを聞いて私を見る。彼の目が少し変わった。手当てだけの人ではなく、“先を読んで止める人”として見始めている。


 私は監督官に港の端へ来てもらった。


 倉庫の壁の図を指差す。


「これが線。船の乗組員、荷運び、酒場、宿。ここを切れば、港を全部止めなくて済む」


 監督官が眉をひそめる。


「全部止めないで済むのか」


「済む」私は言い切った。「全部止めたら反発が出る。裏で集まる。集まったら追えない。必要なのは狙って止めること」


 監督官は腕を組んだ。


「狙って止める、か」


 私は現実的な提案を続ける。


「船は一度に入れない。順番に停泊。乗組員は上陸させない。荷は外で受け渡し。熱がある人は別の小屋。接触した人も別の小屋。食事と水は外から渡す」


 監督官がため息をつく。


「小屋が足りない」


「倉庫の一部を空ける。酒場を一つ借りる」私は言った。「今は酒場を閉めた方がいい。閉めないと港が閉まる」


 監督官は渋い顔をしたが、諦めたように頷いた。


 祓い屋ギルドはこの流れを見て、次の手に出る。


「ならば、もっと大きな祓いを」


 恐怖を商売に変えるとき、最も簡単なのは“集めること”だ。


 ◇



 三日目の朝、港の広場で「封呪の大祓い」が宣言された。


 高価な香と護符を売り、皆で唱和し、肩を寄せ合う儀式。恐怖が人を集める。集まるほど線は太くなる。


 私は広場を見て胃が痛くなった。


 止めたい。止めたいが、力づくで止めたら彼らは地下に潜る。地下の集会はもっと追えない。追えないものは増える。


 だから私は別の手を取る。


 記録だ。


 私は監督官に言った。


「広場にいる人の数を数えて。できれば名前も。護符を受け取った列を、列ごとに分けて」


 監督官が険しい顔をする。


「この状況で、まだ線を引く気か」


「線は嘘をつかない」私は言った。「嘘をつくのは、人の願いの方」


 治癒師が隣に立つ。彼女は祓い屋の儀式を、痛みを堪えるような目で見ていた。


「私も記録する」彼女が言った。「治癒師の目で見た方が、港の人は信じる」


 儀式は派手だった。


 香炉の煙が広場を覆い、祓い屋の頭領が腕を振り上げる。人々が唱和し、護符が手から手へ渡る。肩が触れる。息が混ざる。咳が一つ、二つ、三つ。


(護符、回し渡し方式……それ、接触感染の教材みたいなことしてる)


 夕方、最初の発熱者が出た。


 儀式の中心にいた若者が急に青ざめて座り込む。悪寒で震え、歯を鳴らし、咳が止まらない。周囲が一斉に寄る。寄るほど線は太くなる。


 治癒師が駆け寄るのを私は止めなかった。彼女の術は必要だ。目の前の苦しみを減らすことは今も大事だ。


 ただし私は監督官に言った。


「寄らせないで。治癒師が治す間、周りは離す。護符を配るのを止める」


 監督官が怒鳴る。


「離れろ! 離れろ! 今は祈りじゃない!」


 祈りじゃない、という言葉が口から出るのが、この世界にとってどれだけ異常か。監督官は理解していないかもしれない。でも港を守る責任が言わせたのだろう。


 翌朝。


 線は爆発した。


 儀式に参加した者の丸が一気に増えた。昨日は元気だった者が、悪寒で震え、咳で胸を押さえ、立てなくなる。酒場を閉めたのに、広場が酒場の代わりになってしまった。


 監督官が青ざめて私を見る。


「……儀式に出た者が、真っ先に倒れてる」


 私は頷いた。


「集めたから」


 広場の真ん中で、祓い屋の頭領が震える声で叫ぶ。


「瘴気が強まったのだ! だから祓いが必要なのだ!」


 人々が揺れる。揺れるのは、頭領の言葉が本能に刺さるからだ。原因を外に置ける言葉は人を救う。救う代わりに現実から遠ざける。


 私は壁に炭で図を描いた。隔離区画の線と、儀式参加者の線を並べて描く。


 図は残酷なほど明瞭だった。


 隔離区画は線が細い。儀式参加者の線は太く、絡まり、増殖している。


 私は広場の前に立って言った。声は大きくしたが、言葉は短くした。長い説明は恐怖に負ける。


「見て。こっちは分けた線。増えてない」

「こっちは集まった線。増えてる」


 祓い屋の頭領が叫ぶ。


「絵で瘴気が分かるか!」


 治癒師が一歩前へ出た。彼女の声は小さいのに、広場の空気が静まる。


「私の術で熱を下げても、原因は残る。元気になった人が動けば、また広がる」

「だから、集める儀式はやめて。治した人ほど、分けて休ませる必要がある」


 祓い屋の見習いがぽつりと漏らした。


「……俺たちも、怖かった。何をすればいいか分からなかった」


 その一言で港の空気が戻ってきた。怒りより現実が勝つ。怖さを認めた瞬間、人は少し賢くなれる。


 私は祓い屋の頭領を責めなかった。責めたら彼らは殻に閉じこもって最後まで抵抗する。必要なのは吊るすことじゃない。役割を組み替えることだ。


「あなたたちは港を守ってきたんだと思う」私は言った。

「でも今回はやり方が違う。守るなら、集めない。分ける。洗う。記録する」


 監督官が宣言した。


「今日から港に検疫所を設ける。船はここで止める。熱のある者は分ける。接触した者は待機」


 そして監督官は、祓い屋の頭領の前まで歩いていき、香炉を指差した。


「それは置け。今日からお前らは水桶運びだ」


 広場が、どよめく。


 頭領が顔を真っ赤にした。


「我らにそんな雑役を――」


「雑役?」監督官が吐き捨てた。「港を守る仕事だ。香じゃなくて灰を配れ。手を洗わせろ。隔離区画の見回りも、お前らがやれ」


 祓い屋の見習いたちが目を丸くする。香炉の代わりに、灰の入った桶が渡される。護符の代わりに、布が配られる。



 監督官は最後に言った。


「祓い屋ギルドは隔離区画の補助に回れ。香の集会儀式は禁止だ」


 派手な断罪はない。ただ、信用が静かに崩れて、役割が組み替わった。


 夜。


 港の風は少しだけ軽かった。新しい発熱者は減った。線が細くなった。


 治癒師が乾いたパンを差し出した。


「あなた、ここに残るの?」


 私はパンをかじりながら、遠くの帆船を見た。次の船が来る。次の熱が来る。これは終わりじゃない。仕事が始まっただけだ。


 私は笑った。笑うしかない。


「……残る。検疫所を動かす人が必要だから」


 治癒師が小さく笑った。


「英雄ね」


「英雄じゃない」私は首を振った。


「当直担当」


 そこでようやく胸の奥に溜めていた言葉が出た。呆れと諦めと、それでも前に進むしかないという覚悟が混ざった言葉。


 当直明けに転移して、異世界でも働かされるのね!


 潮風が、少しだけ優しくなった気がした。

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