聖人の行方
春泥
聖人の行方
ほらこれ、懐かしいだろうと幼馴染が示した先には、何もなかった。
古い教会の中は、昼間だというのに暗いが、何も見えないというほどではない。かつてギャング間の抗争でステンドグラスが吹き飛ばされるたび、信仰心篤い村人が新しいガラスを寄進してきた。しかし聖職者、政治家、一般人までもが誘拐・惨殺される不穏な時代が長引きすぎて信心も摩耗してしまい、破損した窓に板が打ち付けられたまま放置されているのだった。
見ろよ。聖トリーニ像。ここは、あの頃と何も変わらない。
ロッコは人懐っこい笑顔で、再び何もない空間を指し示した。彼はあいまいな笑みを浮かべ、空の台座を見つめる。トリーニという名前にはかすかに聞き覚えがあった。
「それは、トリーニ神父のこと?」
「当たり前だろ。この村で年間何人のトリーニが聖人になると思う?」
空港で迎えを待つ間に冷やかしていた土産物屋で、それらしき絵葉書を眺めていたことを彼は思い出す。
「でも……神父は、ミイラだったろう?」
「死体が腐敗しないというのは、聖人認定されるための第一条件だからな」
正確には、屍蝋化していた。
そしてその聖なる遺骸は、彼が子供の頃は、確かに今ロッコと見つめている空虚なスペースに、椅子に腰かけた状態で安置されていた。
しかし
「神父はどこだ?」少しイラついた口調で彼は尋ねた。
「どこって?」今度はロッコが首を傾げる番だった。
「聖人様は、どこにも行きゃしないさ。なにしろ、この村の唯一の観光資源だからな。気楽にどこかに行かれてたまるか」
ロッコは口角を下げて言った。
お前、しばらく見ない間にずいぶん変わったな、と。
この国に戻ってきたのは、十五年ぶりだった。彼の家族のように亡命という選択肢を選ばなかった叔母の一人を訪問するのが目的だった。彼にはおじとおばが大勢いたし、いとこやはとこは百人を優に超えていた。親族の誰かの結婚式ともなれば、それは賑やかだったのを覚えている。
空港は、レンタカーの支店ほどのこぢんまりとした建物だった。たいして暑くもないのに、彼は大量に汗をかいていた。
「よう、久しぶり」
時間を潰すために売店で冷えていないミネラルウォーターを買い、頭から黄金の光を放つ黒マント姿の人物の宗教画がプリントされた絵葉書をためつすがめつしていた彼に親しげに声をかけてきた同年代の若者が誰なのか、すぐにはわからなかった。
「ああ、そうそう。トリーニ神父な、去年ようやく聖人に認定してもらえたんだぜ。村中大騒ぎさ」
微笑みつつ困惑している彼のことを気にする様子もなく、若者は彼の荷物の一つを手に取ると、ついてこいという身振りをし歩き出した。
小さな空港内で働く者全員と、若者は顔見知りのようだった。警備員、航空会社のカウンター内の女性と次々挨拶を交わす。床にモップをかけていた清掃員から
「あら、ロッコ。そのアメリカ人のお友達は誰?」と声をかけられると、若者は振り返ってにやっと笑った。
「こいつは、こっちの人間さ。親父さんはアイルランド系移民だったけど、こっち生まれ。お袋さんは完全に地元民。お前ん家が引っ越したのはいつだったっけ?」
「十歳の時。十五年前」
「あら、じゃあ、マリアナのところの《泣き虫ちゃん》なの? 大きくなったわねえ」汚れたエプロン姿の恰幅の良い女性は、白い歯を見せて笑った。
「そういえば、お前、泣き虫だったな」ロッコが愉快そうに笑った。「よくうちのお袋に泣きついてた」
「子供だったんだ」彼は頬が熱くなるのを感じた。
叔母が産んだ大勢の子供たちのなかに、彼と同い年でロッコというあだ名の従兄がいたことを彼はおぼろげに思い出した。そして、母方の親族全体には、ロッコが十名以上いたことも。
彼のあとについて空港の自動扉を出ると、喧噪と強烈な日差しだがさわやかな風、そして形容しがたい匂いに包まれた。すぐそこに、外国製で、おそらく四十年以上現役を務めている白いセダンが違法駐車されていた。
ワイパーの下に挟まれていた紙を、ロッコはろくに見もしないで、二つに裂いて投げ捨てた。
「なあ、それって違反切符——」
「関係ないよ。気にするな」
「だけど、迎えに来てもらって、悪いよ。僕が払うから」
「おいおい、《泣き虫ちゃん》から《ぐちぐちちゃん》に華麗な変身を遂げたってか? アメリカっていうのは、もっと自由で男らしい国かと思っていたよ」
むっとしたものの、彼は手荒に扱うと引きちぎれそうなドアを開けて、助手席に乗り込んだ。窓は最初から半分空いていたが、ハンドルを回してめいっぱい下げた。十五年ぶりに訪れた母国の空気を全身で感じたかった。それは必ずしも良い匂いばかりではなかったが、異国としか思えなかったこの国が自分や両親のルーツであるということを、最も雄弁に語っている気がした。
ロッコは十一人きょうだいの六番目だった。車の中で、兄三人姉二人、さらに弟妹五人に加え両親の近況を聞かされるうち、彼の意識は次第にこの国で彼らと過ごした子供時代に飛んでいた。
こちらに移住した若かりし祖父が現地の女性と結婚し父が生まれた。父親と彼自身にとって、ここは生まれ故郷なのだが、わずか三世代分の歴史しか持たない彼らは余所者として扱われていた。強い日差しを浴びると真っ赤にはれ上がるだけで一向に日焼けしない強情な皮膚は、父の家系譲りだ。
一方、母方の一族は、何世紀も前に金を求めて騾馬に跨ってやってきた征服者の血筋を受け継いでおり、それを誇りに思っている。彼の母は、女ばかりの七人姉妹の三番目で、ロッコの母は、そのすぐ下の妹だ。女性が美しいことに定評のあるこの国でも姉妹の美しさは評判で、特にロッコの母の美貌は突出していた。しかし美貌以上に、その優しい人柄を彼は覚えている。人種の坩堝のようなこの国で、彼は地元の子らからよくからかわれていた。当時、彼のことを《泣き虫ちゃん》と呼ばなかったのは、この叔母だけだった。
国で二番目の大都市ラコタの外れにある空港からロッコの実家までは、片道三時間ほど。その道程を、ロッコは彼のための記憶の掘り起こしツアーにしようと考えたらしかった。ラコタの中心部は背の高いビルディングが立ち並ぶ無機質な都会だが、注意深く観察すれば、祈祷師や悪魔祓い、恋愛成就の媚薬売りなどといった看板が目に飛び込んでくる。そして、移ろいやすい都市にあって変わらないもの、例えば大聖堂の丸いドームが、ビルの谷間から突如現れる。17世紀から変わらぬ美を損なっているようにしか見えない巨大な看板を指さしてロッコは言う。
「ほらよ、今じゃ、どこもかしこもトリーニ神父だらけだ。聖人になる前は、見向きもしなかったラコタの司教様も、われらが神父を無視できなくなったってわけさ」
毒づきながらも、聖堂の前を通過する際に小さく十字を切ったのを彼は見逃さなかった。
ほら、ここは従兄のアレハンドロに、怪獣映画を見るために連れてきてもらった映画館。あそこは、お前の親父とお袋が出会った病院のある大学。麻薬カルテルやゲリラが暴れてた頃には、誘拐された教授や学生がばらばら死体になって遺棄されてたもんだ。お前といっしょに、パーツをあちこち探しまわったよな。
市街地を抜けると、
あそこは、遠い親戚の家。自宅に豚を飼ってたの、覚えてるか?
山の斜面に建つみすぼらしい集落の前を通過するとき、ロッコはさして興味もなさそうに顎で示した。その青色の屋根には、見覚えがあった。この辺りでは、自宅で豚や鶏などの家畜を飼育することは珍しくない。空気にも、そのにおいが強く漂っている。
奥底から沸き上がってきた記憶は、ロッコの興奮気味の声にかき消されてしまった。
「見ろよ、あの教会」
それは山の中腹で木々の間から尖った屋根を覗かせていた。
胸がざわついたが、それは彼に特段の記憶を呼び覚まさなかった。
「ちょっと寄っていこう」
彼が何かを言う間もなく、ロッコは乱暴にハンドルを切っていた。対向車からクラクションを鳴らされても、一向に気にしていない。
久しぶりに、神父様の聖遺骸とご対面といこう、とロッコは言った。
今では聖人となったトリーニ神父ゆかりの教会という割に、割れたステンドグラスには外側から板がうちつけられ、その板も、貫通した弾丸により穴だらけで、廃墟にしか見えなかった。最近ペンキが塗りなおされた外壁に小学生のような拙い筆で、巨大な聖トリーニの姿が描かれているのだが、周辺には観光客どころか地元住民の姿さえなかった。
この教会は聖なる戦いに敗れたのだ、と先を歩きながらロッコは説明する。こんな交通の便の悪い片田舎の教会よりも、ラコタの有名な大聖堂を聖地巡礼の地としたほうが、大勢の利益になるからって。
明るい太陽の下から薄暗い室内に入ったせいで、最初は先を行くロッコの姿がよく見えなかった。両手を前に突き出しながら、声を頼りにあとを追う。入ってすぐに左に曲がったのは、礼拝用のベンチを避けたのだろうと彼は思う。ただし、ここにまだベンチが残っていればの話だが。
「聖遺骸って、まさか遺体をここに安置しているのか?」
「いまさら何を言っているんだ」ロッコの声に苛立ちが混じっている気がしたが、前を歩く彼の表情は見えない。
ロッコが立ち止まって、彼の方を向いた時には、目が慣れて、内部の様子が見えるようになっていた。ロッコは舞台俳優のような、もったいつけた仕草で彼の前方を示す。
「ほらこれ、懐かしいだろう」と幼馴染が示した先には、何もなかった。いや、正確には、かつては何かがあったことを伺わせる、腰の高さほどの台座があった。
めまいがした。
彼は、額に手をあてて、目を閉じた。
神父は、なぜ聖人になったんだ? 自分の声が遠くから聞こえた。
「お前、まさかハイになってる? お袋に知られたら、殺されるぞ」
麻薬カルテルの脅威は、彼の父が亡命を決意した頃に比べれば収まっているものの、完全に消滅したわけではなかった。父方、母方、双方の少なからぬ親戚が犠牲になっている。彼の母は、煙草にさえ嫌悪を示すぐらいだ。
「うちだって同じさ。クスリなんかに手を出すもんか」
……はクスリになるんだ。甲高い少年の声がした。声変わりをする前のロッコのものだ。
奇蹟を起こした神父の死体は、クスリになるんだ。
そんなわけがないだろう。怯えが声に出ませんようにと祈りながら反論するのは十歳の彼。彼は、目の前にある神父の死骸が恐ろしかった。当時は、椅子に座った状態で、実際にここに安置されていた。
本当さ。アデラの父さん、足の怪我で働けなくなったろ? そこでだ、この神父様から、腿肉をちょこっとだけいただいて、こっそりシチューに混ぜたんだって。
非常に信心深いと同時に迷信深い信者たちは、病気や怪我を治すために、悪い部位と同じ個所の皮膚なり髪なりを神父の体からこそげ落として、それを病人・怪我人に服用させれば治ると信じていた。奇蹟を求めて多くの人間が神父の一部を持ち帰った。
だから神父は、無くなってしまったのだ。
彼は踵を返して駆け出した。ロッコの呼ぶ声は無視した。そして、明るい光の中に飛び出した途端、嘔吐した。
「悪かったよ」ロッコは彼の背中をさすりながら詫びた。「お前があまりにもぼんやりしてるから、ちょっとからかったんだ。まさか、本気にするとは思わなかった」
「ごめん。どうして思い出せないのか、わからないんだ」
「あの頃、この国は暴力で支配されていた。子供だって、不穏なニュースばかり聞いていたらおかしくなるよ」
「お前を置いて行って、ごめんな」
「お前、十歳だったんだぜ」ロッコは陽気に笑った。
彼の気分がよくなると、二人は再び車に乗り込んだ。
ジグザグな山道を登っていく車のなかで、彼は全開の窓から頭を半分突き出して風にあてながら
「神父は、どうして聖人に推薦されたんだ?」
「奇蹟を起こしたからさ」ロッコは呆れていた。「それ以外に、理由があるか。ただ信心深く貧乏人に善行を施したっていうだけじゃ、村のヒーローにはなれても、バチカンには認めてもらえないだろ」
「奇蹟って、どんな?」
神父はロッコや彼が生まれた時点では、すでに亡くなっていた。
「まず、死後も遺体が腐らなかった」
「それは、ここは熱帯気候だけど、高知ならば気温が低いし、山の冷たい水に漬けておけば――」
「おいおい、興冷めなこと言うなよ。ある幼い女の子が原因不明の高熱で死にかけていた。そして全身醜い発疹に覆われていた。神父は、とても子供好きで、なかでも小さな女の子のことが大好きだった。神父が女の子の体を、くまなく舐めまわすと」
「なんだって?」
「聞こえなかったのか?」
「聞こえたよ」彼は、ロッコがふざけているのか測りかね、横目で様子を伺った。「それ以外は?」
曰く、痙攣し激しく震える男子の体を抱いて、なでさすりながら一晩ともに過ごしたら病気が治った。膿んで蛆のたかった傷口に、神父が自らの唾を混ぜた軟膏をを塗ると跡も残さずきれいに治った等々。
「だから、神父の体の一部を病人の体内に取り込めば病気が治るっていう迷信が生まれたんだ。藁にでもすがりたい溺れる者は結構いた。でも、亡骸が完全に消滅する前に地下の霊廟に移されてたし、正式に聖人認定されてからは、ラコタの大聖堂に移された。ガラスケースに安置されたトリーニ神父は、観光客に大人気なんだぜ」
悪趣味極まりない、と信仰心を持たない彼は思うが、口には出さなかった。この国では、大都市のラコタでさえ、悪魔祓いや祈祷師が失業することはないのだから。
目的地に到着したときには、日が暮れていた。この辺りは一年中春めいた穏やかな気候だが、夜は冷える。薄いジャケットしか身に着けていない彼は震えていた。
車の音を聞きつけて、家の中から腰の曲がった女性が出てきた。その姿を見て彼はぎょっとした。それがロッコの母親だと思ったからだ。
だが、それはロッコの母方の祖母、そして彼の祖母でもあった。
十五年ぶりの再会でどのような態度をとるか決めかねて困っていると、中からほっそりとした女性が現れた
「お母さん、お客さん?」
「孫が帰ってきたんだよ」
「あら、よかったわね」
彼の記憶から抜け出てきたかのような美しい女性だった。とても十一人もの子供を産んだようには見えない。
「アルマ叔母さん、お婆さん、ご無沙汰してます」
頭を下げる彼に、叔母はにっこり微笑んだ。目尻に皺ができたが、それでも美しいことに変わりはなかった。彼の記憶にある優しく可憐な叔母とほとんど同じといってよい。
「どちら様?」アルマは首を傾げてそう言った。
この国の「家」は都会も田舎も基本的に同じだ。簡素な建物の内部には最低限の家具しかないため閑散とした印象を受ける。そして、たいがいどこの家庭にもカラフルなイエス像が置かれている。
幼少の頃の彼とロッコの家族は父親の仕事の関係でラコタに住んでいた。それもあって大勢いるいとこたちのなかで、彼とロッコは兄弟のように育った。二人はこの祖母の家でもことあるごとに顔を合わせていた。
「ごめんなさい。最近、忘れっぽいのよ。よく来てくれたわね、パブロ」
「ポールだよ、母さん。こいつは、ポール」
「いえ、パブロで結構です。子供の頃は、そう呼ばれていた」
「《泣き虫ちゃん》の方が通りがよかったけどな」
「《泣き虫ちゃん》って?」
にこにこしているアルマ叔母を、祖母がじっと見つめている。その深い皺と垂れた瞼に埋もれた瞳は愁いを帯びていた。
夕飯はトウモロコシ粉のパンや鶏肉とジャガイモ、ハーブを煮込んだスープであった。この国の伝統料理は、移住先でも母親がたびたび作ってくれたことを彼は懐かしく思い出した。
「マリアナ姉さんはね、私たち姉妹の中ではお母さん的存在だったの。両親は農場で一日中働き通しだったし、上の姉さんたちは、若くしてお嫁に行ってしまっていたから。料理はすべてマリアナが教えてくれた。おかしいわね。私とマリアナとは、二つしか違わないのに」
アルマ叔母は、食事の間中、楽しそうに彼の母親マリアナの思い出を語る。
ダイニングで食卓についているのは、彼とロッコ、アルマ叔母と祖母の四人だけだった。祖父は彼がまだこちらに住んでいる間に、まだ五十代で亡くなっていたことを彼は思い出す。それでも当時は、復活祭やクリスマスシーズンにはこの家に祖母の七人の娘と子供たちが一同に会し、大変な賑わいだったものだ。
みんなどこへ行ってしまったのだろう。彼は訝しむ。きっと、それぞれの暮らしに忙しく、十五年ぶりに帰郷した甥/従兄になど構っていられないのだろう。
「マリアナはどうしてパブロと一緒に来なかったのかしら」
ランプの光を反射して、彼を見つめる叔母の黒い瞳が輝いていた。いまだ少女のようなあどけなさを発するこの叔母が十六歳で結婚して十一人の子をなしたとは信じがたいと彼は思う。
「母は――」
彼は口ごもった。彼の母マリアナは、七人姉妹のなかで唯一大学を卒業している。そして、看護師として大学附属病院で働くうちに、彼の父親と出会い、結婚した。子供は彼一人だ。
「今日、空港を出てから、ラコタの大聖堂前を通ってきたけど、悪趣味なトリーニ神父の巨大な看板が立ってたよ。なあ?」ロッコは笑いながら、彼の方を見た。
「ええ。あんなものは、僕が子供の頃にはなかった」
「トリーニですって?」叔母は形のよい鼻に皺を寄せた。
「パブロ」
それまで黙々とちぎったパンで皿の底に残ったスープをぬぐっていた祖母が口を開いた。皆が祖母を見つめた。
「お前は、どうして帰ってきたんだい」
「それは」
皆の目が自分に注がれたことを感じ、彼は頬が火照るのを感じた。
「それは」
故郷に戻るのに理由がいるだろうか? 彼の手は落ち着きなく、胸の辺りをまさぐったものの、力なく膝の上に落ちた。口が急に重たくなっていた。
「何年振りかしら。パブロはちっとも変わってないわね。会えてうれしいわ」
叔母が陽気に言って、また彼の母の少女時代を語り始めた。祖母の視線は、しばらくの間彼に注がれたままだった。
彼の寝室としてあてがわれた部屋には、トリーニ神父の小さな木像が祀られていた。数々の病人を快復させた聖人にあやかって、この辺りでは、病気になるとトリーニ神父に祈りを捧げるのだった。
信仰を「つきあい」程度にしか思っていなかった父の影響が強く、彼自身はそのような土着の信仰とは無縁に育った。ただ、若き日の母が、この黒い像の前に跪いて祈りを捧げているのを、開いていたドアの隙間から見た記憶があった。
あの時、誰のために祈っていたのだろう。
見てはならないものを見てしまったという気がして、その時の彼は、そっと足音を忍ばせてその場を離れた。
気が付くと、片膝をついて、小さな像の前で首を垂れていた。ちょうど、あの時の母のように。
「誰か病気なのか」
ロッコが戸口に立っていた。
慌てて立ち上がった彼は、眉間に皺を寄せて首を振った。
「いいや」
ロッコは清潔なタオルと追加の毛布を持ってきていた。高知にあるこの家は、夜はずいぶんと冷え込むのだ。
「お前、ゴメズおじさんのこと覚えているか?」ロッコが唐突に言った。
「ああ」ここよりさらに標高の高いところで牧場を経営していた大叔父だ。夏休みには、ロッコやほかのいとこたちと交代で牛の世話を手伝った。牧場近くの冷たい湖で泳いだり魚を釣ったり。夢のような少年時代の象徴だ。
「死んだよ」
言葉を失った。
「だって、まだそんな年では」二十人という大きょうだいの末っ子だったゴメズは、彼の両親より年下だった。まだ五十を少し過ぎたぐらいのはずだ。
「おじさんも、あれにやられた」
彼のおじやおばたち、それに少なからぬいとこたちが、すでにあれのせいで亡くなるか、精神病院に入れられている、とロッコは言った。
「俺らの爺ちゃんも、それで死んだ。まだ六十になる前に。それが始まると、家族はまず祈祷師に頼るか、聖トリーニに祈るんだ。できるだけ家で面倒を見るけど、もう駄目だって思ったら精神病院行き。親類の半数はそんな風にして死ぬのさ」
「それってなんだよ」
薄暗い部屋のなかで、ロッコの茶色い瞳は、瞳孔が開いて真っ黒になっていた。
「お前は、さっきトリーニ神父に何を祈っていたんだ?」
彼の胸がざわついた。何を祈っていたか? 祈りを捧げていた記憶が彼にはなかった。ロッコがふざけているのか真面目なのか、わからなかった。
「ゴメズおじさんが亡くなったのは、お前がまだこっちに住んでいた頃だ」
広大な牧草地。庭のように知り尽くしていた山で迷子になり、震えて泣いているのを発見されたゴメズおじ。男らしく屈強なおじは、二人の憧れだった。
二人で、おじさんの病気を治そうと、教会に行っただろう、とロッコは言った。
「教会に?」かつてトリーニ神父の遺体が祀られていた教会の記憶が深い水の底から浮上してきて、消えた。その当時はまだ、ステンドグラスが無傷で残っていた。
「祈りに行ったのか?」当時から父親の影響で信仰心が薄かった彼としては、あまり考えられない行動だったが、気休めでもゴメズおじがよくなるよう祈りたかったのかもしれない。
「バカだな。トリーニ神父に奇蹟を起こしてもらうためさ」
「奇蹟って」
病気になった部位と同じ神父の体の一部を食べれば快復すると住民は信じていた。
頑丈な頭蓋骨と、かなり長い時間格闘した。そして
「お前は『足りなくなると困るから、全部もらっておこう』と言った」
しかしいざブツを手に入れると
「お前は、『先に実験してみよう』と言った」
ミイラの一部などを病人に食べさせて、万一何かあったらどうする、と幼いながらに彼は思ったのだった。
「だから、豚小屋に入れられた、いとこのところに行くことにした」
二人で、悪臭ふんぷんたる家畜小屋に忍び込んだ。糞尿にまみれて、顔中に食べ物のカスがこびりついていた。腰にロープが巻かれ、家畜小屋の柱にくくりつけられていたが、そんなものは必要なかった。彼女はまだ二十代のはずだったが、やせ細った体は縮み、奇妙に捻じれた姿勢で横になっていた。ぽっかり開いた目に何かが映っても反応がない。
彼は、皺だらけの彼女の顔の前に、少し千切り取ったそれを突きつけた。反応がないので、唇にあてて歯をこじ開けようと試みると、突然木偶人形に命が宿ったみたいに大きく口を開けて、彼の指ごとそれに嚙みついた。
驚きと痛みで慌てて手を引っ込めた。指についた歯形からわずかに血が滲んでいた。
病気をうつされたのではないかと、死ぬほどの恐怖を味わった。
現代ではとっくに、それが伝染病ではなく遺伝病であることが判明しているのだが、少年の彼はまだそれを知らない。
泣きながら、排泄物や藁がからんでもつれた不潔な髪の毛に覆われた彼女の頭を殴打した。彼女は、悲鳴すら上げなかった。
残りは、どこにやったのか。今こそあれが必要なのに。
そんなことを考えながら、彼は夕飯に食べたものを、すべて床にぶちまけた。
飛行機の中で、彼は窓の下に広がる故郷の光景を目に焼き付けようと、瞬きも惜しんで見つめていた。
シートベルトを外してよいというアナウンスがあり、彼はほっと息を吐きだすと、トイレに立とうとして、ふと上着の胸ポケットに手をやった。何か固く小さいものが指に触れた。それは内ポケットに用心深く仕舞われていた。
古びたビロードの小箱だった。ドラマで、片膝をついてプロポーズするシーンに登場するような。
求婚するような相手は思い浮かばなかった。なぜこんなものを持っているのか、額に皺を寄せながら開けてみる。複雑な装飾を施された金の指輪だった。
「まあ、素敵。アンティークですね?」
ドリンク満載のカートを押すフライトアテンダントがにこやかに尋ねた。
「ええ、数百年前のもので、母の家に代々伝わるものです」
考える前に口からそう飛び出した。
温かいコーヒーをすすりながら、その指輪は、五十歳という若さで他界した母が亡くなる数年前、彼に託したものであることを思い出した。
どうやら、私もあれに捕まってしまったみたい。私がすっかりなくなる前に、お前にお願いしておくわ。それが母の遺言だった。
久々の帰郷は、叔母マリアナに母の指輪を託すためだった。
彼はため息をついて、内ポケットにビロードの小箱を戻した。それなりに高価なものだし、歴史的価値もある。国際宅配便で送ることができるかどうか、帰国したら考えようと思った。父も母も、いい顔はしないかもしれない。一体なんのための帰郷だったのだ、となじられそうだ。
その父も母も今はこの世にいないという事実は、彼の頭をかすめてすぐに消えた。
聖人の行方 春泥 @shunday_oa
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