大切なものを織りなして―パイロット版―

花絵 ユウキ

大切なものを織りなして―パイロット版―  『最初の最低』

 これは、あの喫茶店を初めて訪れた日の、わたしの記憶――。



 肌を焦がすような日差しがようやく落ち着いてきた季節の、日曜日。


 高校の野球部の練習試合を友達と見に行く予定だったはずの、そんな午後だった。

 しかし三時間前に『流行病に罹患した』というLINEが入って、今日の約束はキャンセルとなってしまったのだった。


 唐突に宙に浮いてしまった時間を、どう扱えばいいのか分からなくて。

 まだ明るい時間帯。自室でベッドに寝転がる気にもなれず。

 ……かといって、勉強する気にもなれず。来年度は大学受験が控えているのだから、準備をしておいたほうが良いのも分かっているけれど。


 窓をわずかに開けた先から、苦味を含んだ香りが流れてきた。

 近所の家が、オレンジを煮ている匂いだ。

 柑橘に馴染み深い此処、影片町かげひらちょうではよくあることで、風が強い日はその香りが坂の上まで流れてくる瞬間もあった。


 深呼吸したら、持て余された胸の余白に、その爽やかな空気が入り込んできたようで。


 ちょっと、外に出てみようかな。そんな曖昧な気持ちでシャツに袖を通し、ポシェットを斜めに掛けて、家を出た。


 学校の前を通り過ぎ、五分ほど歩いた末、商店街へ向かう坂を下りていくとの前で自然と足が止まった。


 これまで、何度も前を通りかかったことのある、素朴な純喫茶――。



 商店街の中ではなくて、その少し手前。

 これが、商店街の中だったとしたら、もう少し繁盛していたのかもしれないけど……絶妙に、惜しい位置にあるこのお店は、人の出入りの少ないひどく落ち着いた佇まいで。


 正直、入りづらい……。


 仮にいま、この中に入ってしまって『はずれ』だったら、出るのも気まずい。そんな気がする。


 けれど、前々からこの道を通過するたびに、お店の扉の脇に飾られている日時計のオブジェの存在が気になっていた。

 幻想的で、でも、なんだか懐かしい雰囲気もあって。

 これを飾った人が、どんな人なのか、ただ単純に興味が湧いていた。



「SUNDIAL……」


 

 初めて、立て看板に書かれていた店名をよく見てみて、納得した。


 ……なるほどね。だから、日時計だったのか。ちょっと、おもしろいかもしれない。

 わたしは空気を一つのんで、意を決して扉を開けた――。




「…………」



 カラン、と軽快なドアベルの音が鳴る。

 優しいココアのような香りに包まれたこの店には、先客がひとり、席に座っていた。


 もしお客さんがいるとしたら、絶対、お爺さんかお婆さんだよね――扉を開ける前からそう決めつけていたけれど、そこにいたたった一人の先客は、右目に黒い眼帯をした中学生くらいの子だった。


 その子はカウンターの席で、無言無表情でタブレット端末に左目を集中させていた。

 ……それがまた、不気味といったら失礼かもだけど……異様なオーラを放っている風に感じた。


 は、はずれ、だったのか……も……。


 半歩下がり、やっぱり帰ろうとしたところで、店の奥からひとりの男性が現れた。



「あ、こんにちは」



 いらっしゃいませ、ではなく、そう言ってきたその人に、一瞬呼吸が止まった。


 見たこともないような、顔面偏差値の高すぎる男性が、そこに立っている。

 現実の世界に有り得る範疇の顔じゃない。


 百万年に一度の逸材――いや百万年生きていないから分からないけれど! とにかく、フィクションの世界へ連れてこられたかのような、神様が本気を出して生成したような、一言でいうととんでもないイケメンが、この影片の小さな喫茶店で、わたしを見ている……!



「あ、あのっ……わたし、ちょっと通りかかって……それで……」


「よかったら」



 慌てるわたしをよそに、イケメンはグラスに水を注いで、落ち着いた声でそう言った。

 眼帯の子の隣の席に、そのグラスを置いて、優しい目をして微笑んでいる。

 ……もう、帰るわけにもいかない空気が、そこに流れていた。



 木目調で統一された素朴な内装をキョロキョロ確認しながら、水の置かれたカウンター席まで歩いていく。


 そのとき、先客の子が弄っていたタブレットの画面が一瞬見えて、ひっ、と思わず小さな悲鳴をあげてしまった。

ものすごい速さで、マインスイーパーをクリアしている。一秒に三個くらいはフラグを立てて、わたしが後ろを通り過ぎる間に、ひとつのステージを終わらせていた。


 そっちはあまり見ないようにしながら、席につこうとした途端。


「いらっしゃい……」と、その子がタブレットをテーブルに伏せて、ほんの小さな声で呟いてきたのだ。



「え……?」


「ああ、この子もうちの、なんだ」



 イケメンに言われて、思わず、目をぱちくりさせた。



「えっ、お客さん……じゃなかったの?」



 そのとき、先客だと思っていたその子と目が合う。

 こくりと頷いたその子は小さな身体を動かして、わたしの席の椅子を、ゆっくりと引いてくれた。

 

 あれ、なんか悪くない、のかも……?


 思っていたほど、まずいお店ではないみたい。

 なんかちょっと変わっているけど、しっかり出迎えてくれた二人に、自然と肩の力が抜けていくのが自分でも分かった。

 


 眼帯の子に渡されたメニューを見ながら、オレンジのソーダが目に留まり、これ美味しそう、だなんてひとりで呟いていると「甘いから、お勧め」とその子が横からぽつりと返してくれた。


 それを皮切りにぽつぽつと、イケメンが世間話をしてくれた。

 初夏までは、オレンジではなくて、夏みかんのソーダを提供しているらしい。「影片らしいですね」と返したら「移住者だけどな」なんて笑っていた。

 店に流れる穏やかな空気に、いつしかわたしは今日ここに初めてきたという感じがしなくなるほど、その場に自然に溶け込んでしまっていた。

 


 

 そのときだった。

 最低の一日の、幕開けとなったのは――。



「あ? んだこいつ、客?」



 ドアのベルの音と共に現れた姿に視線をうつす。


 赤茶の髪に、赤茶の瞳。

 派手な容姿をしたその男の人は、色素とは裏腹に、服装は部屋着か外着か区別もつかないような地味な灰色のパーカーを纏っていて、なんともアンバランスな風体をしていた。


 なにより印象的なのは、一度見たら忘れられない、眉間のしわと、強烈な仏頂面。



「おい。口のききかた」


「うるせーな。おい、そこのクソ女、日曜に一人で来てんじゃねーよ。暇だから帰ろうと思ってたのによ」



 ……く、クソ……?

 え。それって、わたしのこと……?


 初対面のそいつは、イケメンの制止もものともせずに、不機嫌な面のまま、わたしの座る席までつかつかと歩いてくる。

 そして、見下ろしながら舌打ちをした。



「え?」



 なにこいつ。

 有り得ない。わたし、なんかした?

 

 こいつもお客ではなくて店側の人間なのか、ぶつくさ文句を言いながら、客席ではなくカウンターの中まで足を踏み入れている。

 そして、わざとなのか、わたしのテーブルの目の前に、ドサっと乱暴な仕草で手に持っていたスーパー袋を置いた。バランスが崩れて、中からオレンジがひとつ転がり落ちる。



「やめろ。初対面だろ」


「知るか。お前のせいで疲れてんだよ俺は。買い出しなんて行かせやがって。ほら、クソ女。さっさと帰れ。邪魔だ」


 

 はい? ちょっと待ってよ。なにが起きてるの?


 シッシ、と言いながら払いのける仕草をみせてきたそいつに、状況を読めないながらも、怒りのボルテージが上がっていく。


 これが、店員? そんなことある? いくらなんでも最低すぎる。


 気づいたら、あまりの腹立たしさに心臓が高鳴っていて、握った拳が震えていた。



「ちょっとなんなの、黙って聞いてりゃさっきから、この悪態店員! バカじゃないの!?」



 突然わたしが大声を上げたからか、目の前の悪態店員とイケメンが驚いたように、動きをとめた。

 ただ、隣に座っていた眼帯の子だけは、無表情のままマインスイーパーを再開している。



「はあ!? バカだと!? バカって言ったやつがバカなんだよ、このバーカ!」


「どんだけ幼稚なの? あー、もう最低すぎ。二度と来ないし、こんなお店!」



 ほんっと、イライラする。

 どうしてこんな目にあわなきゃいけないの!


 荷物をまとめて、テーブルにお金を叩くように置いた。

 イケメンと眼帯の子に「ごちそうさま」とだけ残して、さっさと店を後にする。



 去り際、カラン、と鳴いたドアのベルが、耳にこびりついていた。




 せっかく、良い日曜日になったと思ったのに。

 あいつのせいで、ぜんぶ、ぜんぶ、台無し。


 帰りの坂道を登りながら、一度、SUNDIALを振り返る。


 ……やっぱり、最低。


 しかしその建物は、なにも知らなかったころよりも、ずっとずっと、身近に感じる気配を帯びていた。

 それは、この喫茶店の中に、生きた人がいるのを、見てしまったからかもしれない――。


 ほんの少しだけ、まだ、この場所のことを考えていた。


 秋めく空を引っ掻くように、筋雲が遠く、遠く、伸びている。



 これはわたしが体験した、最初の最低な、特別な日曜日――。

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