90年越しの神アーチ

あ、まん。

第1話 ある少年との出会い


 今年97歳になる老人は、病院で静かに息を引き取ろうとしていた。


 ベーブ・ルースに憧れ、7歳の頃からバットを振り続け90年経った。


 本当は100歳までバットを振るつもりでいたが、家の近くにある河川敷でバットを振った帰り道に居眠りしたトラックに轢かれてしまった。


 老人は、生涯一度もバッターボックスに立つことはなかった。


 家庭環境、戦争、貧困、生来の運の悪さ……。それらすべてが老人の足かせとなり、夢を果たせずにこうして命が潰えていこうとしている。


 老人が、自分の最期を悟り、静かに目を閉じた。


 うむ? 儂が目を閉じておる。


 病院のベッドで天涯孤独の男は、医師や看護師に看取られながら息を引き取った。だが、不思議な事にそれを病室の天井あたりから見下ろしている自分がいた。


 幽霊になってしもうたか。

 やはり未練があるといかんの……。


 お迎えが来るか、三途の川に行くと思っていたが、どうやら成仏できなかったらしい。


 老人は、老いて朽ちた自分の身体に別れを告げ、街の中をさまようことにした。


 色んな人間がいる。

 人はそれぞれ胸のあたりがチカチカと光っているのを知った。元気な若者は弾むように瞬き、年寄りは穏やかな光を刻んでいる。


 いちばん輝いているのは夢を全力で追っている人間の光。


 逆に夢が叶かった人の光はどこまでも暗い……。


 老人は、そんな今にも消え入りそうな光を灯しているある少年のことが気になった。


 背負っているランドセルが小さく見える巨漢の小学生。顔は幼いのに大人顔負けの立派な体をしている。いったいなぜこの少年の光が消えそうなのか気になった老人は、しばらく彼のそばで観察することにした。


 暗い光の原因その1。

 恐ろしく自己肯定感が低い。

 友達がおらず、学校ではずっと一人ぼっち。


 暗い光の原因その2は、何をするにしても遅い。判断も遅ければ行動も遅い。


 その3の原因として、鈍い少年を取り巻く同じクラスの子たちの悪意なき言動▪▪▪▪▪▪。言われた子は、大人になっても忘れられないような残酷なことを何気なく口にする。


 そして、そのすべての原因は家庭環境にあった。


 古びたアパート。老人も数十年は聞いたことなかった4畳半1間に共用のトイレと風呂。そこに母親と二人暮らしだが、育児放棄した母親は、毎日のように違う男を家にあげては淫らな行為をしている。その間、少年は近くにあるバッティングセンターに行っては、バットの手入れやボールを拭くお手伝いをして、景品のお菓子をもらったりしていた。


 学校の野球部にも所属しているが、同じ野球部の上級生たちにイジメられて、監督も知らないフリをしている。


 1週間ほど少年を見ていた老人は、身体に電気が走ったような衝撃を受けた。それは、たまたまバッティングセンターの受付の人が、お手伝いした駄賃としてくれたコインで少年の打席を見た瞬間だった。


 全球空振り。

 タイミングも高さもめちゃくちゃ。

 ボールを見てすらいないそれは酷い打席だった。


 ――だが、バットの音が違う。


 当たれば、とんでもないことになる。


 老人は、見守ることしかできない自分がもどかしくてたまらなかった。


 そんなある日、少年が通う小学校に転校生がやってきた。


 今まで見てきたどんな人よりもまぶしい光を宿した少年。


天羽瑠十あまばるーとです。皆よろしくね!」


 転校初日の挨拶で、一瞬にしてクラスの女子を虜にした。

 いつの時代にもいるカッコよくて運動神経も抜群、女子にキャーキャー言われるのが当たり前な男の子。


 そんなクラスの人気者が、鈍くさくてクラスの日陰者である少年に声をかけた。


「ねえ、君、ちょっと来てくれない?」


 呼び出されたのは、誰もいない校舎裏。


 何をされるのかとハラハラして見ていた老人だが、ふと瑠十少年と目が合った気がした。


「君の後ろにお爺ちゃんが見える▪▪▪けど、君のご先祖?」

「……えっ、僕には何も見えないけど」

「そう、何か君に言いたそうだから聞いてあげるね」


 何ていい子だ。

 見た目だけではなく、心までイケメンの男の子だなんて、爺、なんだか涙が出そうになってしまう。


 老人は、少年にとてつもない野球の才能があるからもっと自信を持って、野球をした方がいいと、瑠十君に伝えた。


「ふーん、そうなんだ」

「僕の後ろにいるお爺ちゃんは何て言ってるの?」

「うん、あのね……」


 爽やかな笑顔。輝く白い歯をのぞかせる瑠十は、こう答えた。


「君って、野球の才能がない▪▪▪▪▪から辞めた方がいいよって言ってるよ」


 ――そんな。


 誰がそんなことを言った?


「そうだよね。僕みたいな愚図が野球をするだなんてご先祖様も怒っているんだね」

「そうそう」


 少しだけ光っていた巨漢の少年の心の光が消えた。


 なんで、そんなひどいことを言ったの?

 巨漢の子が唯一すがっていた野球という糸が切れてしまった……。


 重い足取りで、クラスに帰っていく巨漢の少年。


「あんな愚図なんて見捨ててのところにおいでよ!」

「どうしてだい?」

「だって、今まで見た幽霊の中でいちばん後光背負ってるもん、お得感あるじゃん」


 そうなんだ。

 自分以外の幽霊なんて見たことがないので、比較できないが、確かにこうして会話できているくらいだから、この少年の言っていることは本当なんだろう。


 しかし。


「遠慮しておくよ、それじゃ」

「お爺さん、一つ忠告しておくよ」


 立ち去った巨漢の少年の後を追いかけようとした老人を呼び止めた。


「野球をやらせたいんだったら、俺がアイツを徹底的に潰すよ?」


 ――んな⁉


 それはいったいどういう意味?









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