傷痕
水無月 碧
第1話
「ねえ、
白と黒なら、混じり合うことだってあるけれど。
表と裏は、どちらか一方しか観測できないものだから。
「そりゃ……どっちも自分なんじゃない?」
その言葉を、信じきれない。
キミを一番の親友だと思う私と、キミをどうしたって憎んでしまう私。自分の真実は、素顔は、一体どちらなのだろう。
私は、彼女とどう向き合うべきなのだろう。
あの日からもう十年が経つというのに。未だ私は、その答えが出せないでいるのだ。
「ひっ、さしぶりー!」
彼女が地元を離れてから、一年半。
最後に会った時と比べてもなお元気一杯な琴羽に、口元だけを僅かに動かして笑みを返す。
「久しぶり、琴羽。相変わらず元気そうで安心した」
「まあねー! こうして久々にゆらぎに会えたんだから。そりゃ元気にもなるってもんですよ」
その快活さはきっと、彼女が今、とても満たされているからなのだろう。
結婚生活は随分順調だと聞いているし、その証拠に。
「そういや、懐妊だって? おめでとう」
「ありがと!」
だからまた中々会えなくなってしまうし、そうなる前に会おうよ、と。そんな連絡が来たのはつい昨日のこと。
思い立ったらすぐ行動。まったく、幾つになっても変わらないな。
まあでも琴羽が元気そうで、幸せそうで良かったと思う。
確かに私は琴羽に複雑な思いを抱えてはいるけれど、私が彼女にいつも救われていたこともまた事実だから。
そんなことを考えていたせいで気が緩んでいたのだろうか。つい、聞くつもりのなかった問いが口をつく。
「
「勿論。ゆらぎに会えないこと、めっちゃ残念がってたよ」
私達の幼馴染で、今は琴羽の夫の、その現状を。
自分で話題に出しておきながら、胸の奥がじくりと痛む。
二人がそういう関係なのだと知った時生じた心の傷は、掻き毟りすぎて膿んで、きっともう癒えることはない。
私の方が先に好きだった、とか。私のものになるはずだった、とか。
別にそんなことを言うつもりはない。私は選ばれなかった、ただそれだけのことだから。
けれど、それでも。時折、どうしようもなく思ってしまうのだ。
あの日のことがなければ。こんな醜い傷痕がなければ。
彼の隣にいたのは、もしかしたら自分だったかもしれないのに、と。
遊ぼうとはいったものの、残念ながら明日は土曜だというのに出勤だから、本格的にあの子と遊ぶのはその後だ。
今日は実家に顔を見せに行くらしい琴羽と一度別れ、自宅へ帰る。
「変わってなかったな……」
良くも、悪くも。私が親友と呼んだ、私を親友と呼んだ、あの子のままだ。
そして変わっていないのは、私にしたって同じこと。
彼女に抱いてしまった昏い想いは、まるで色褪せることなく今も胸の裡を占めている。
そんな心の澱を流そうとするかのように化粧を落とすと、露わになった素顔が鏡に写った。
左眉の上から右の口元にかけて、一直線に走る傷口。
治療の甲斐あって、けばけばしい程に化粧を厚塗りにし、出来る限り表情を動かさなければ殆ど分からない位にはなったけれど。
流石にこうして、素顔を晒せば一目瞭然。鏡に写る傷痕が、否応なしにあの日のことを想起させる。
ゆえにどうしたって、忘れることなんてできなくて。
「ほんと、私はどうしたいんだろうね」
複雑な思いに結論を出すこともできないまま、私はあの子と一緒にいるのだ。
翌日。
「ほら、乗った乗った!」
軽自動車の助手席をばんばんと叩きながら琴羽が言う。
私は仕事終わりだというのに、どうやら彼女は遠出をするつもりらしい。
琴羽は頑固でこそあるものの、同時に人を慮れる子だから。勘弁してほしいと言えば、きっとわかってくれるだろうけど。
「しょうがないなぁ……」
まあ、いいか。景色でも眺めていれば、もしかしたらこのモヤモヤした気持ちも晴れるかもしれないし。
「それで、どこ行くの?」
「内緒。ま、すぐわかるって」
そう言った彼女が運転する軽自動車は、街の喧騒を外れた郊外へ向かう。
どこに行くのだろうというには、その景色には見覚えがありすぎた。
十年も昔の話だというのに、二人でこっちの方面へ向かうバスへと乗り込んだことは、まるで昨日のことのように思い出せる。
「ねえ琴羽、これって──」
「うん。ごめん、そういうことなんだ。辛い思い出だと思うけど」
予想と違わぬ返答に、我知らず身体が強張る。
それでも。
「わかった、行こう?」
きっと彼女なりの想いが、覚悟があってのことだろう。なら、いいさ。聞かせてもらおうじゃないか。
そう覚悟を決めた瞬間、もう随分と前に痛むことの無くなった傷口が少し熱を持った気がした。
「着いたよ」
到着したのは、やはり予想通りの場所。二十年以上も昔に閉院した、大病院の跡地だった。
何も言わず歩き始めた琴羽に、何処に行くのかなんて聞くまでもなく。私の足は進んでゆく。あの日の記憶に、導かれるかのように。
会話はなく、罅割れたリノリウムの床に二人分の足音だけが反響する。
あの時と、同じだ。
そういえば、と。今更ながらに思い出す。あの日から、丁度十年か。
成程、だから今日なのか。節目というものを重視する彼女らしい。
そんなことを考えているうちに、辿り着いたのは診察室。ドアノブに手を掛けながら、琴羽が遠慮がちに問いかける。
「ここ、だったよね……」
「うん……」
年月による劣化だろうか。ぎいい、と。記憶にあるより大きく、悲鳴にも似た音を立てて扉が開く。
流石に二度もあんなことが起きるはずがないと分かっているのに、強制的に呼び覚まされた記憶が身体をびくりと跳ねさせた。
久方ぶりに見た部屋の中は、経年による劣化を除けば概ね何の変哲もないと評していい。
あくまでぱっと見では、だけれど。
けれど確りと見てみれば、割れた蛍光灯の欠片がそこここに散乱しており、おそらくは血痕と思しき色褪せた染みがそれなりの範囲に付着している。
これがそのままということは、恐らくあの後ここに誰かが入ることはなかったのだろう。
まあ、廃病院に不用意に入った人間が怪我を負ったとなれば、それも無理からぬことかもしれない。
あくまで肝試しのフレーバーであったはずの「呪い」。結果としてそれが、俄かに真実味を帯びることになってしまっただろうから。
「ごめんね、こんなところまで連れてきて。あのね、」
「ねえ」
何かを言おうとした琴羽を遮って、口を挟む。
「言ったよね、私。あれは琴羽が悪い訳じゃないって。だから気に病むことはないって」
確かに事の発端は、琴羽がここに肝試しに行こうと言ったことだったかもしれない。
けれど、それに私は断然乗り気だった。嫌だなどとは、思ってなかった。
言い出したのは彼女でも、あれはあくまで二人で決めたこと。
そうだ、そもそも誰にだって、分かるはずがないだろう。
扉を開いたその衝撃で、外れかけていた蛍光灯が落下することも。その破片が偶然、私の顔を切り裂くなんてことも。
だからそう、彼女に責任なんて、あるはずがなくて────
「だったら!」
そんな思いを断ち切るように、聞いたことがないほどの大声で琴羽が叫ぶ。
「だったら……ゆらぎは少しも私を恨んでないって言える?」
「っ………」
もちろんと言おうとして、言葉が詰まる。
「私ね、気付いてたよ。ゆらぎが必死に、私を恨まないようにしようとしてくれてたこと。それでもふとしたときに、昏い感情が顔を出してしまうこと」
彼女の言葉に、私は知る。
「ずっと、ずっと。言えなくてごめん。怖かったんだ……言葉にしてしまえば、ゆらぎとの関係が終わってしまうんじゃないかって」
あの日から、ずっと。言えない気持ちを抱いていたのは、私だけじゃなかったのだということを。
だけど。
「なら、なんで! 今更になって、そんなことを言い出したんだ!」
かあっと、頭に血が上る。
わかってる。あれは単なる事故だって。感謝してる。痛々しい傷を見て皆がそれとなく距離を取る中、何一つ変わらずそばにいてくれたことに。
キミはみんなの人気者だったのに、いつだって私と一緒に居ることを優先してくれていた。
だからこそ、あの日琴羽がこんなところに誘わなければ、と。
どうしても湧き上がってしまうその想いを抑えつけようとしてきたのに。
そんなことを言われたらもう、溢れ出す気持ちを止められない。
「そうだよ……決まってるでしょ!」
考えれば、考える程。
「琴羽は悪くない、なんてわかってる! けどね、どうして私だけが、とか。キミが軽々しくこんなところに誘わなかったら、とか。そんなの、思わないでいられるわけがない!」
一息に、想いを吐き出す。琴羽の顔から、出来る限り目を逸らしながら。
「はあ……はあっ……」
化粧が崩れることを恐れてもう随分と長いこと出せていなかった大声のせいか、酸素が失われる感覚に頭がくらくらする。
「ごめん……ごめんね……」
こんな単なる八つ当たりに、琴羽が謝っていることにすら腹が立つ。
故に、自然と口調は刺々しく。
「謝らなくていいから。その代わり、教えて。何で今になって、この話を蒸し返したの?」
威圧するような私の言葉に、琴羽は暫く躊躇するように口を噤んでいたけれど。
それでも意を決したのだろう、やがてぽつぽつと話し始めた。
「私、これから先もずっとゆらぎと一緒にいたい。けどね、それはずるずるとこんな半端な関係を続けたいって意味じゃない。互いに言えない想いを抱えたまま、私たちは親友だなんて言い続けてはいけないと思うの。だから──」
おもむろにしゃがみ込んだ琴羽が、手頃な大きさの蛍光灯の欠片を拾い上げて、私に差し出す。
「私にぶつけて欲しい。ゆらぎの今まで抱え込んでいた想いを、情念を。罵倒してくれていい。同じように、顔を切り裂いてくれてもいい。もしそれ以上を望むのなら、それでも」
一目見ただけで分かるほど震える私の手が、差し出された欠片を掴み取る。
「っ……どうして、そこまで」
暫く会っていなかったんだから、そのまま忘れてしまえば良かったのに。
私に抱く、その罪悪感ごと。
そんな私の気持ちを見透かしたかのように、彼女はかぶりを振った。
「呼びたいんだ、もう一度。何の後ろめたさもなく、ゆらぎを私の親友だって」
私だって、叶うのならそうしたいよ。だって、好きなんだから。二十年も一緒にいたんだから。
「……わかった。答えを出そう。私たち二人の関係に」
そう決意し、考える。表と裏、私はどちらを選ぶべきなのかを。
私の素顔は、一体どちらであるのかを。
琴羽が好き。その気持ちに嘘はない。そして、琴羽を恨む気持ちにも。彼女が悪くないなんてことはこの際関係ない。それが私の正直な気持ちなんだから。
そんな相反する気持ちの、どちらが本当の私なのかを、考えて、考えて、考えて。
そうして、ふと気付く。
「ああ、そっか……」
「ゆらぎ……?」
馬鹿だなあ、私は。こんなの、考えたところで答えが出るはずがないのに。だって、いくら考えをこねくり回したところで、それは結局理屈でしかない。
本当に大切なのは考えることじゃなく、自分自身の気持ちと向き合うこと。
眼を閉じて、ゆっくりと思い返す。
泡のように次々と浮かんでは消えていく思い出の中から、一つの光景が像を結ぶ。
『大好きだよ、ゆらぎ』
『琴羽。私達はずっと、いつまでも一緒だよね』
そうか、私は────
手の裡の欠片を、強く握りしめる。痛みと共に血が滲むけれど、構わない。
そうして掴んだ欠片を振りかぶり、覚悟を決めたように私から眼を逸らさない琴羽に背を向け、扉の外めがけて思い切り放り投げた。
唖然とした表情を浮かべている琴羽へ振り返り、告げる。
「やっぱり、さ。考えて出るようなものじゃないよね。この答えは」
好きな筈なのに、恨んでしまって。一緒にいたいのに、遠ざけてしまいたい。複雑な想いは絡み合って、考えれば考えるほどにほどけない。
だから。
「きっと、大事なのは。久々に会った琴羽に抱いた、最初の気持ち」
それこそが、自分の裡から生じた想い。
思考とは無関係に湧き出した、私の真実。
「琴羽が元気そうで安心した。琴羽が幸せそうで良かった。こんな気持ちになるのは、琴羽のことが好きだから。それがきっと、私のほんとう」
「ゆらぎぃ……」
琴羽が感極まったように目頭を擦る。まったく、相変わらず泣き虫なんだから。
「勝手に恨んだりとか、遠ざけようとしたりとか。そんなどうしようもない人間でごめん。抱え込むだけで、キミに伝えようとしなくてごめん」
本当は、わかってた。
どれだけ琴羽を恨んでも、離れることを選べなかったのは、キミと親友でいられることを捨てられなかったから。
もっと早く、それに気付けていれば。伝えられていれば。その後悔は、どうしたって消えることはないけれど。
「だけど、やっぱり。それでも私は、琴羽とこれからも親友でいたいよ」
それでも、今更だけど伝えたい。
恨みとか、妬みとか。きっと全てが消えたわけじゃないけれど。それでも私は、琴羽と一緒にいたいのだと。
ああ、やっと気づけた。やっと言えた。
自覚した想いが、十年もの間心を覆っていた靄を晴らしてゆく。
「えへへ……嬉しい」
涙でぐちゃぐちゃな顔のまま笑みを浮かべた琴羽が、私に拳を突き出した。懐かしいな。昔はよくやってたっけ。
嬉しいことがあった時や、二人で何かを成し遂げた時。
或いは、それこそこんな風に喧嘩した後の仲直りの儀式として。
こうして笑って拳を合わせれば、それだけでキミと心が通じ合えた。
誰より近くにいたのに。いつだって、その機会はあったはずなのに。
こんな簡単なことも忘れてしまうくらい、私達は離れてしまっていたんだね。
「嬉しい、かぁ……言っとくけど、重いよー? 私の琴羽に対する想いは、さ」
合わせた拳がごつりと鈍く、けれど小気味良い音を響かせる。どうしよう、気持ちが溢れて止まらない。
だけど、それでいいんだ。だって、嬉しいものは嬉しいんだから。
表情を大きく動かせば、化粧が剥がれて引き攣った傷口が露わになり、恐怖を与えてしまうから、と。
あの日以来封じていた、そんなありのままの笑顔を浮かべる。
きっと、琴羽になら大丈夫。
「想いなら私だって負けてないから。大好きだよ、ゆらぎ!」
ほら、やっぱり。
私の傷痕を、素顔を見ても、キミはちっとも揺るがない。
合わせた拳から伝わる熱と、想いの籠った琴羽の言葉が、あの日私たちの間に出来てしまった見えない壁を溶かしてゆく気がした。
傷痕 水無月 碧 @Rutie
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