カルマデバッガー
@shinriin
プロローグ 文明世界の終わり
「天、人の不義を嫌い、空より罰を下す。地は震(ふる)い、海は立ち上がりて、不浄の輩(ともがら)を悉(ことごと)く灰塵に帰さしむべし。」
聖徳太子『未来記』
その日、文明世界という名の巨大なシステムは、致命的な破滅を迎えた。
2029年、8月15日 21時 (日本時間)
ITコンサルタントとして独立していた草薙カムイは、高層マンションの一室で、深夜までリモートワークに没頭していた。複数のモニターに並ぶスケジュールの羅列と、クライアントからの催促メール。それが彼の世界のすべてだった。
気晴らしに外の景色を眺めていた時、
不意に、部屋の照明が激しく明滅し、窓の外から「音」ではない「圧力」が押し寄せた。
それと同時に、カムイが作業していたモニターに、深刻なシステムエラーを示すようなノイズが走った。
「……電圧の異常か? またサーバーが落ちたか」
カムイが顔を上げ、苛立ちと共にまた外を眺めた、その瞬間。
彼の目に飛び込んできたのは、夜とは思えない異様な「光」だった。
夜空の象徴であったはずの「月」が、突如として出現した巨大な隕石と衝突する瞬間を、カムイは生々しく目撃した。
無音の宇宙空間で、しかし視覚には確実に「衝撃」が伝わってくる。
月面に走る巨大な亀裂。それは、宇宙の絶対的な秩序が、たった一つの物理的な衝突によって一瞬で書き換えられる瞬間だった。
月は、脆いガラス細工のように、ゆっくりと、しかし確実な破壊の軌跡を辿りながら、数多の破片へと分裂していく。
砕け散った月の残骸――都市一つを軽々と飲み込むほどの巨大な岩塊の群れが、地球の重力に捕まり、白熱しながら大気圏へと猛烈な速度で突入を開始したのだ。
「……っ、まぶしい……!」
カムイは思わず腕で目を覆った。
大気圏との摩擦で発火した無数のデブリが、夜の帳を焼き払う。
彼の部屋は、そして窓の外に広がる街は、一瞬にして昼間よりも明るい、剥き出しの白光に包み込まれた。
過剰な光が視神経を焼き、影という影が消失する。空そのものが太陽以上の輝きを放ち、白熱した破片が尾を引いて降り注ぐ光景は、神話の終焉をデジタル合成で再現したかのような、圧倒的な非現実感に満ちていた。
やがて、カムイの視界の先、水平線の彼方に巨大な光の柱がいくつも立った。
燃え盛る月の破片が、凄まじい速度で太平洋へと着海したのだ。
「冗談だろう……。主要な海域すべてに落ちたのか……?」
窓ガラスがガタガタと悲鳴を上げる。
海面に叩きつけられた質量は、一瞬で莫大な海水を蒸発させ、それ以上に巨大な「水の壁」を押し上げた。
それはもはや、人類が知る「津波」というカテゴリーには収まらない。
地球というプラットフォームの基盤を、根底から書き換えてしまうほどの破壊的なエネルギーだった。
白光に包まれた夜空から降り注ぐのは、海への着弾だけではなかった。
カムイの視界の端、数キロメートル先にある隣接した都市部――数百万人が眠るコンクリートのジャングルに、大気圏で燃え残った小型の月の破片が、音速を超えて次々と突き刺さった。
「……あ」
乾いた声が漏れた。
着弾した瞬間、爆発的な閃光が走り、巨大なキノコ雲がいくつも夜空へ向かって噴き上がる。高層ビル群がまるで積み木のようにあっけなく折れ、火の海が瞬く間に広がっていく。
自身の部屋にまで届く地響きと、空気を震わせる熱い衝撃波。遠くの悲鳴さえ届かない距離で、確実に「数万人の日常」が、一瞬の物理演算によって一掃される光景。
ITコンサルタントとして、これほど巨大な「データの消失」をカムイは見たことがなかった。
だが、真の絶望は、物理的な破壊の直後にやってきた。
月が砕けた際の電磁的な撹乱か、あるいは落下物によるインフラの直接破壊か。
突如として、部屋の隅で警告音を吐き出していたサーバーが、断末魔のような火花を散らして沈黙した。
同時に、窓の外に広がっていた街の灯りが、ドミノ倒しのように次々と消えていく。
「……停電か。いや、これは――」
カムイはデスクに飛びつき、スマートフォンの画面を叩いた。
圏外。
固定回線もWi-Fiルーターも、すべてのランプが消灯している。
予備のタブレット、無線機、あらゆる通信機器が、まるで最初からただの鉄屑だったかのように反応を拒否していた。
世界中を網の目のように結んでいた光ファイバーも、衛星通信も、4Gも5Gも。
人類が数十年かけて築き上げてきた「情報の血流」が、一瞬にして消失したのだ。
街から光が消え、静寂が訪れる。
それは安らかな静寂ではない。情報の遮断という、現代人にとって最も残酷な死刑宣告だった。
隣の部屋で何が起きているのか、海の向こうで何が死んだのか、これから自分はどうなるのか。そのすべてを把握する術を、人類は失った。
暗転したモニターに、呆然とした自分の顔が映り込む。
窓の向こう、水平線の彼方からは、先ほど着海した月の破片が作り出した「水の壁」が、光を失った都市を飲み込まんと唸りを上げて迫っていた。
「プラットフォームが死んだ……。もう、誰も助からない」
真っ暗な部屋の中で、カムイはただ一人、迫りくる水の咆哮を聞いていた。
文明という名のOSが完全にクラッシュした瞬間だった。
夜通し続いた「空の燃焼」と、降り注ぐ月の破片による無慈悲な砲撃。
地獄のような一夜が明け、本来なら希望の象徴であるはずの朝日が昇り始めた。だが、その光が照らし出したのは、黒煙を上げる都市の無残な骸と、水平線の彼方から迫る「物理的な絶望」だった。
隕石となった月の巨大な破片が太平洋に激突してから、およそ10時間。
月の質量が海に叩きつけられたことで発生した波は、太平洋全域を震わせ、日本列島へと向かってその巨大な鎌を振り上げていた。
東京都下、標高の高い丘陵地。高層マンションのベランダからカムイが見たのは、朝の光に照らされた、現実感を喪失させるほど巨大な「水の壁」だった。
「……標高200メートル近いここを、超えるつもりか……?」
カムイの網膜には、視界を左右に埋め尽くし、空を削り取るようにそそり立つ漆黒の海面が映っていた。その高さ、優に400メートル。
高層ビルさえも豆粒に見えるほどの暴力的な質量。それが、時速数百キロメートルの速度で、一切の慈悲もなく関東平野を「デリート」しながら北上していた。
10時間前、通信が死ぬ前にわずかに聞こえていた避難を促すアナウンスも、今はもうない。
眼下に広がる街並みは、昨夜の火災の煙を上げたまま、逃げ場のない沈黙に包まれている。
人々は、自分たちの命を刈り取りに来るものがこれほどまで巨大だとは、この瞬間まで想像もしていなかっただろう。
――ズゥゥゥゥゥゥゥゥゥン!!
衝突音ではない。それは、大気が押し潰される轟音だった。
400メートルの波が、平野部にある都市を飲み込む。ビル群は水面に触れた瞬間に座屈し、コンクリートの粉塵となって波の中に溶けていく。
水はただ流れるのではない。瓦礫と泥、そして無数の「かつて人間だったもの」を巻き込んだ肉挽き器となって、大地を削り取りながら、カムイの立つ丘陵地へと競り上がってきた。
死が、目の前にまで迫っていた。
高層マンションの低層階は一瞬で水圧に粉砕され、建物全体が強風に煽られる大樹のように大きくしなり、不吉な亀裂の音を立てる。
荒れ狂う漆黒の水面が、ベランダのすぐ足元まで一気に到達した。
(……ここで、終わりか)
死を確信し、カムイが最期の瞬間を覚悟して目を閉じた、その時だった。
――チリン……
すべてを粉砕する波の咆哮、鉄骨がひしゃげる凄まじい絶叫をすべて突き抜けて、透き通った鈴の音色が耳の奥に響いた。
その瞬間、マンションを直撃し、カムイを飲み込もうとしていた奔流の勢いが、物理法則を完全に無視して不自然に逸れた。
なぜ、この建物が倒壊しなかったのか。なぜ、自分だけが濡れることすらなくここに立っていられるのか。
ITコンサルタントとして培ってきたあらゆる論理を尽くしても、説明がつかない。
カムイが目を開けると、そこにはかつての東京の面影はなかった。
あるのは、瓦礫と炎の残骸を浮かべながら、猛烈な速度で渦巻く泥水の海だけだ。
標高の高かったはずのこの場所さえも、今や大海原に浮かぶ孤独な島、あるいは残骸と化していた。
「……インフラ、物流、ハードウェア……。文字通り、物理層(レイヤー)から全てが消されたか」
手すりを強く握りしめたカムイの耳には、今もあの鈴の音が残響として響いている。
だが、その音の意味を反芻する余裕すら、世界は与えてくれない。
波の引き際と共に、大地が昨日以上の激震に襲われた。
月が砕けたことによる重力の消失と隕石となって降り注いだ月の欠片の衝撃、400メートルの波がもたらした膨大な水圧の変化。それが、地球の地殻という名の基板に、修復不能な亀裂を走らせていた。
400メートルの津波が引いた後、世界は変わり果てた姿を晒していた。
カムイの住む高層マンションは、荒れ狂う海の中に突き出した、折れかけた墓標のように佇んでいた。窓の外に広がるのは、東京という巨大都市があった場所を埋め尽くす、瓦礫と泥水の静寂だ。
マンションの上層階で生き残った人々は、当初、必死に「生存」を繋ぎ止めようとしていた。
通信は途絶えたままだが、人々はベランダにシーツで「HELP」の文字を掲げ、鏡で光を反射させて救助を待った。
「日本政府が動いているはずだ」「自衛隊や米軍が助けに来てくれる」
そんな、崩壊しきった社会への淡い信頼が、彼らを支える唯一の糧だった。
だが、カムイだけは、冷徹なシミュレーションを止めることができなかった。
(……救助など、来ない)
カムイが空を見上げると、そこには砕け散った月の残骸が、土星の環のように地球を囲う「死の帯」となって輝いていた。
月の破片は、単に地球へ降り注いだだけではない。重力バランスを失い、砕裂した月の一部は地球の軌道上を高速で周回し、数時間前まで月の影に隠れていた地球の裏側――北米、欧州、アフリカ――に対しても、時間差で同様の「破片の豪雨」を降らせていたのだ。
主要な海域すべてに巨大な月の質量が着海し、地球上のあらゆる沿岸都市は400メートル級の波に磨り潰された。
これは地域的な災害ではない。地球というプラットフォームそのものが、全セクタで同時に致命的なエラーを吐き出している状態だった。
「救助を出す側の『国』というシステム自体が、もうどこにも存在しないんだ」
マンションの廊下では、備蓄食料を分け合う人々の姿があった。
しかし、その表情は救助が来ない日が二日、三日と過ぎるにつれ、次第に絶望に染まっていく。夜になれば、街を照らす光は一つもなく、ただ空に輝く「砕けた月の帯」が、死者の国を冷たく照らし出すだけだった。
生存者たちが懸命に生きようとする意志さえ、この巨大な「バグ」の前では、処理を遅らせるだけの無意味な待機状態に過ぎなかった。
そして、津波の惨劇から4日後。
ようやく水が引き、泥にまみれた大地が姿を露わにし始めた頃。
地球という基盤そのものが、内側からの圧力に耐えかねて、最後の叫びを上げた。
巨大津波の惨劇から4日後。
泥水が引いた大地は、黒く澱んだ残骸となって広がり、文明の終わりを告げていた。
生き残った人々は、食料や水を求めて瓦礫の中を彷徨い始めていたが、その瞳に希望の光はなかった。
そして、その日の正午過ぎ。
地球というプラットフォームの最後の処理が実行された。
――ゴォォォォォォォォォン!!
それは、これまでの津波の咆哮とも、月の砕裂の音とも違う、地底から直接響くような重く、低い唸りだった。
カムイの立つマンションの足元から、マグニチュード10を超えるような激しい揺れが襲い、建物全体が軋みを上げて崩壊寸前となる。
「……地震……か。いや、違う。これは……」
窓から見える、富士の裾野。
その神聖な山容が、巨大な口を開いたように裂けた。
真っ先に目に入ったのは、富士山と、その隣にそびえる箱根の神山だ。
山頂から噴き上がったのは、巨大な炎の柱だった。
火口からは粘り気のある真っ赤な溶岩が、まるで血の涙のように山肌を伝い、大量の火山灰と水蒸気が、天を覆い隠す巨大な黒い傘となって広がる。
一つではない。二つ、三つ。
日本列島の、そして地球上の、これまで沈黙していたはずの「火の山々」が、まるで連鎖反応を起こしたかのように次々と目を覚ましたのだ。
東の空には富士山、南には伊豆諸島の火山群。
カムイのマンションからは見えないが、日本アルプス、九州、そして海の向こうの大陸でも、同様の炎が吹き上がっていることが、地鳴りと大気の変化から容易に想像できた。
「……月の消失による地殻変動か。それとも、あの津波の重圧がトリガーになったか……」
ITコンサルタントとしての冷静な分析が、脳裏を過る。
それはもはや、地震というレベルではない。地球のプレート構造全体が、根本からバグを抱え、システムを再起動しようとでもしているかのような、暴力的な変革だった。
空は、火山灰によって瞬く間に覆い尽くされた。
昼間だったはずの時間は、一瞬にして鉛色の夕闇へと変貌する。
太陽の光は完全に遮断され、降り注ぐのは熱気を帯びた粉塵だった。
「ゲホッ……ゲホッ!」
カムイは、窓を閉めても容赦なく隙間から侵入してくる火山灰に、咳き込んだ。
粉塵は目に入れば視界を奪い、呼吸すれば肺の機能を麻痺させる。
遠くから、火山灰に包まれながらも、人々が泣き叫ぶような声が聞こえてくる。
それは、文明の息の根を止める最後の鉄槌だった。
火山灰は、残された僅かな農地を覆い尽くし、水資源を汚染し、発電所や残存するインフラを完全に麻痺させる。
空から降り注ぐのは、もはや熱い灰色の雪。
人々は、この灰色の世界で、食料も水も、そして希望の光さえも失っていくことを悟った。
終わりのない夜が、始まったのだ。
火山噴火から数週間が経過した頃、世界は「終わらない夜」に包まれていた。
成層圏まで到達した莫大な量の火山灰と、月の残骸が作り出したデブリの帯が太陽光を完全に遮断。地球の平均気温は数日で20度以上も急降下し、季節外れの猛暑に晒されていた世界は、一転して「永久凍土」へと叩き落とされた。
かつて東京都下と呼ばれた丘陵地も、今や厚い氷と灰色の雪に覆われている。
「……リソースが、底を突いたか」
カムイは、氷の膜が張った高層マンションの室内で、白い息を吐きながら最後の一缶の保存食を眺めていた。
水道は凍りつき、電力というライフラインを失った現代文明にとって、この「全球凍結」は決定的なチェックメイトだった。
文明が維持していた「秩序」という名のセキュリティは、飢えと寒さという物理的な負荷によって完全に無くなった。
当初は互いに助け合っていたマンションの住民たちも、一ヶ月が過ぎる頃には、食料を巡って互いを監視し合う「敵」へと変貌していた。
「開けろ! そこに隠してるのは分かってるんだ!」
「子供が死にそうなんだ、頼む、一口だけでいい……!」
廊下からは、かつて隣人だった者たちの、獣のような叫び声とドアを叩く鈍い音が響き続ける。
最初は哀願だった。それが罵倒に変わり、やがては暴力による略奪へと発展する。
法も警察も機能しない閉鎖空間で、人間は最も効率的に他者から奪う方法を選択し始めた。それは、ITコンサルタントとして見てきた燃えた案件に似ていたが、流れるのは罵声ではなく本物の血だった。
外に目を向ければ、さらに地獄は深まっていた。
食料を求めて瓦礫の山を彷徨う群衆。凍りついた泥水の中から、腐敗した魚や、あるいは「それ以上のもの」を探し出す者たち。
極限の飢餓は、人間の理性を「生存本能」という原始的なコードにまで退化させる。
「神よ……なぜ私たちを見捨てたのですか!」
ある者は凍った地面に膝をつき、二度と戻らない天に向かって慟哭する。
ある者は狂気に逃げ込み、灰色の空を指差して笑いながら、裸足で雪の中を歩き去っていく。
そしてある者は、寒さに耐えかねて、残された家具や本を燃やして僅かな暖を取るが、それも数時間で尽き、灰色の雪に埋もれて物言わぬ氷像となった。
カムイは冷めた目で、崩壊していくコミュニティを観察し続けていた。
救助は来ない。食料は増えない。気温は下がり続ける。
この世界というシステムには、もはや「正常終了」へのパスは残されていない。
残されているのは、すべてのプロセスがリソースを食いつぶし、最後に沈黙するだけだ。
氷河期の静寂が、狂乱の叫び声をゆっくりと、しかし確実に飲み込んでいく。
カムイは、自身もまたその終わりの一部であることを理解しながら、静かに目を閉じた。
世界が灰色の氷に閉ざされてから、どれほどの月日が流れただろうか。
カレンダーをめくる気力はとうに失われ、カムイの認識はただ「夜」と「さらに暗い夜」の反復に過ぎなくなっていた。
窓の外には、月はおろか、かつて世界を焼き尽くそうとした白熱の空さえも存在しない。成層圏を覆い尽くした膨大な火山灰が太陽光を完全に遮断し、地球から「色彩」という概念を奪い去っていた。
かつての高級マンションの室内は、今や冷徹な石牢のようだった。
廊下から聞こえていた飢えた人々の怒号も、ドアを叩く音も、略奪者の足音も、赤ん坊の泣き声も、いつしか完全に止んでいた。
リソースを奪い合っていた「隣人」という名のプロセスたちは、一人、また一人と致命的なエラーを吐いて強制終了していったのだ。
今、この巨大な廃墟で動いているのは、カムイという名の、残り数パーセントの生命維持プログラムだけだった。
カムイの意識は、すでに自身の肉体を離れつつあった。
指先の感覚はなく、肺は冷気を吸い込むたびに、錆びついた機械のように不快な軋みをあげる。もはや「寒さ」すら感じない。ただ、全身の細胞が活動を停止していくプロセスを、冷めた傍観者のように眺めているだけだった。
(ああ……ようやく、止まるのか……)
かつてあれほど執着した地位も、金も、ITコンサルタントとしてのプライドも、灰色の闇に埋もれて消えた。
救助は来なかった。奇跡も起きなかった。
人類が数千年かけて積み上げてきた文明という名の巨大なコードは、物理的な破壊と環境の激変という致命的なバグによって、一行も残らず上書きされた。
「……全部、無意味だ……」
最後の一息が、白く、弱々しく口からこぼれる。
自分は、ただ死ぬためだけに、あんなに必死に生きてきたのか。
歯を食いしばり理不尽に耐え、効率を求め、最適化された人生を歩んできた結果が、この救いようのない暗闇での孤独死なのか。
視界が急速に狭まっていく。
モニターの電源が落ちるように、世界が周辺部から漆黒に塗り潰されていく。
心臓の鼓動が最後の一打ちを終えようとした、その刹那。
――チリン……
厚い火山灰の雲も、死の沈黙も、絶望の闇も。
そのすべてを容易く突き抜けて、あってはならない音が響いた。
この地獄のような現実のどこにも存在し得ない、あまりに清らかで、透き通った、鈴の音色。
その音は、死に向かって沈んでいくカムイの魂を、釣り針のように鋭く、しかし優しく引き止めた。
(なんだ……? 今のは……)
答えを探す思考のメモリは、もう残っていなかった。
ただ、その透明な音色だけを網膜の裏側に焼き付けながら、草薙カムイの「一度目」の意識は、底のない闇へと没していった。
(……なんだ、これは)
暗闇に沈んだはずの意識の海で、カムイは「何か」と対峙していた。
形も、次元さえも定かではない情報の奔流の中で、言葉ではない意思が直接脳に書き込まれてくる。
『……を……書き換……。……、運命のデバッグ(修正)を……』
ノイズ混じりのその声に応えようとしたが、喉が動かない。意識という名のファイルが強引に解体され、別のセクタへと転送されていくような、吐き気を催す加速感。
(待て、俺は死んだはずだ。何を……お前は誰だ……!)
問いかけは、爆発的な純白の光によって遮断された。
「……っ!!」
カムイは弾かれたように顔を上げた。
肺が吸い込んだのは、重く冷たい火山灰ではない。湿り気を帯び、埃っぽく、それでいて懐かしい「夏の教室」の匂い。
(どこだ……ここは……。誰かと、話をしていたはずだ……何を、何を言われた……?)
混濁する思考を整理しようとするが、直前まで交わしていたはずの対話の内容は、砂時計からこぼれる砂のように指の間から抜け落ちていく。残っているのは、魂に刻まれたあの透明な鈴の音色と、言いようのない喪失感。
「――ねえ、結局何も起きなかったよね、ノストラダムス」
「期待損だよなー。1999年7の月、空から恐怖の大王が降ってくるとか言っておいてさ」
「結局、世界なんて終わんないんだよ。あー、宿題だりぃ……」
周囲から聞こえてくる、脳天気な少年たちの声。
カムイが呆然と視線を巡らせると、そこはセミの声が窓を叩く、昼休みの教室だった。
黒板に書かれた「夏期講習」の文字。木製の机の感触。
そして、隣の席には――。
「……草薙くん? さっきからずっと固まってるけど、大丈夫?」
隣り合う席から、一人の少女が怪訝そうにこちらを覗き込んでいた。
如月結衣だ。まだ幼さを残したその顔。
彼女は、窓の外を凝視したまま動かないカムイを心配して、おずおずと声をかけてきたようだった。
カムイは彼女に言葉を返すことができなかった。
目の前の少女も、呑気な会話を繰り広げるクラスメイトも、2029年の絶望を経験した彼にとっては、あまりに脆く、実体のない「過去の残像」にしか見えない。
自分の腕を見る。高校時代の艶の有る肌の腕。
壁にかけられたカレンダーの「1999年8月」という数字。
(戻った……のか。いや、この状況を「奇跡」として処理するのは早計だ)
沸き上がる困惑を、カムイは無理やり論理の檻に押し込めた。
「世界を救う」などという言葉は、彼の辞書にはない。ただ、あの400メートルの津波、火山灰に閉ざされた孤独な死――あのような「最悪の結末」だけは、何としても回避しなければならない。
(まずは現状の把握。そして課題の抽出だ)
なぜ時間は巻き戻ったのか。あの鈴の音は何だったのか。2029年の崩壊を防ぐための変数はどこにあるのか。
これから起こる歴史、経済の変動、技術の進化。そのすべてを「既知の仕様」として利用し、生存確率を最大化させる必要がある。
カムイは心配そうにこちらを見る如月結衣の視線を無視するように、ただ静かに拳を握りしめた。
この世界という名の、欠陥だらけのシステム。
その設計ミスを洗い出し、あらゆるリスクを先回りして潰す。
(俺が俺として生き残るために……このふざけた筋書きを、徹底的にデバッグしてやる)
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