祈り
玄道
The pray
「
──誰?
暗闇の中に、私は立っている。
見渡す限り、何もない空間に。足下に、リノリウムの質感を感じた。
"ガゴン"
音がして、スポットライトが何かを照らし出す。
痣だらけで、煙草の痕も生々しい"それ"は、もういない筈の人──姉の亡骸だ。
『晶子……逃げなさい、来ちゃ駄目』
──何から、何から逃げるの?
"ぴしっ"
◆◆◆
令和×年 十二月三十一日 午後十一時
「はぁっ……はあ……っ!」
私──
早めに入浴したのに、汗で気持ち悪い。
──最悪の年越しだ。
仕方なく、軽くシャワーを浴びる。
湯気と水音が、嫌な記憶を呼び起こす。
◆◆◆
姉──
私は、姉が殺されるまで、義兄──高末
それが私の罪だ。
姉は三年間、誰にも相談できず、行政の目も届かず、人知れず傷跡を増やし……遂に世を去った。死因は挫滅症候群。
不審に思った病院関係者の通報が切っ掛けで、義兄は逮捕された。
姉の身に起きたことを考えると、おかしくなりそうだった。
夢の中の姉は、棺の中の姉より痛ましい姿だった。
◆◆◆
虚脱感に苛まれながら、私はのろのろと服を着る。
一人暮らしの、何もない六畳間に敷いた、折り畳み式マットレスに倒れ込む。
都会では、除夜の鐘など聞こえる筈もない。
田舎では……実家ではどうだろう。姉の葬儀以来、両親とも疎遠になった。
◆◆◆
『雄一君を前科者にするなんて……あの馬鹿娘は』
『夫が妻を殺すなんて、ある筈ないだろ。それに雄一君は、あんなに立派な人なのに』
二人が、そうこぼしたのを、私は聞き逃さなかった。
結局、姉を悼んだのは、私と、姉の二人の友人だけだった。
葬儀後、両親の番号はブロックし、転居して住所の閲覧制限もかけた。
今は、あの男への復讐心だけが、私を生かしている。
◆◆◆
両親は、義兄は、何を思って過ごしているだろう。
──どんな思いで、除夜の鐘を聞いているだろう。
"ぱきっ"
何かのひび割れる音がする。
ラジオすら聞かず、私は、天井を見上げた。
野暮ったい、学生の頃の姉。
就職し、垢抜けた姉。
結婚式は、白無垢で挙げた姉。
姉の笑顔だけが、天井のスクリーンに浮かんでは、蜃気楼のように去っていく。
方や妹は、笑顔も涙も、およそ感情は殺意以外、消え失せたかのようだった。
──姉さん、辛かったよね。痛かったよね。怖かったよね……ずっと、独りで。
そして、姉を映し終えたスクリーンに、柔和そうな男の顔が浮かんだ。
"ぱきっ"
"ぐぅ"
胸の奥で、何かの鳴き声が聞こえた。額に、汗が浮かぶ。呼吸が荒くなる。視線が固定され、私は見えない拳銃を、天井に向かって構えた。
撃鉄を起こし、目を狙う。眉間を狙うと、弾がきちんと貫通しないらしい。
その時、日付が変わった。
新年を迎え、何処かから歓声が聞こえる。
私は、虚しくなって腕を下ろした。
──私は、膨れ上がる殺意を、どうすれば良いのだろう。
何故、大切な人を殺した者を、殺してはいけないのだろう。
"びしっ"
今年は、初詣に行ってみようか。何年ぶりだろう。
──こんな時に一人でいたら、狂ってしまう。
どうせ届かぬ祈りを捧げるため、私は身支度を始めた。
アイラインを引きながら、私は九条晶子を見つめる。
幸い、まだ人であるようだ。
薄い口紅を施しながら、考える。
人でなくなれば、鬼にでもなれば……私の手で復讐できるのかな。
"びしり"
私の中に、黒く濁った胚が詰まった、異形の卵がある。それを孵してはならない、それだけは知っている。
◆◆◆
午前一時半
近所の神社に、私は来ていた。
出店もあり、境内には人の温度がある。
私は、自分が何を祈ろうとしていたのか、忘れそうになった。
家族連れ、若い恋人、高齢の夫婦……。皆、新年の始まりを慶んでいる。
誰もこの世の──、私の歪みなど知らない。当然だ。
二礼、二拍、一礼。
"びし……ぱき"
神様どうか、本当にそこにいるのなら、義兄の──高末雄一の死を願う私を、私の祈りを聞いてください。
私の殺意を、殺してください。
"ばき"
私は、何を祈っているのだろう。
届かないのに。祈りを叶えるものなど、何処にもいないのに。
自分の他力本願ぶりを思うと、情けなさに頬が濡れた。
姉の葬儀で、流し尽くした筈なのに。
"ぴしり"
"ぱき……ぴし"
姉の声がする。
『逃げて』
奥歯が"ぎり"と音を立てる。
"ぴきっ"
逃げなければ。
"くはぁ……はぁ"
私の
ふと、我に返る。
温かい喧騒が、私を包んだ。
叫びそうになるのを、必死に堪える。
──助けて。
<了>
祈り 玄道 @gen-do09
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