放課後ダイスロール・戦国 〜開始3ページで信長が丹羽長秀の家来になる確率は6分の1〜

モノック

第1話 桶狭間の悲劇(あるいは、確率六分の一の凶弾)

 五月の西日は、気怠いほどに長く教室に居座っていた。

 放課後の2年B組。遠くから運動部の掛け声と、吹奏楽部のチューニングの音が混じり合って聞こえてくる。それは平和な日本の、ありふれた高校の日常音だ。


 歴史研究部部長、翔太(しょうた)は、机の上に足を投げ出し、大きくあくびをした。

「……飽きた」

 その一言が、部活動の始まりだった。

「何が?」

 窓際で文庫本を読んでいた美咲(みさき)が、顔も上げずに尋ねる。

「歴史だよ、歴史。教科書通りの展開。予定調和の勝利。テストのために暗記するだけの年号。つまんねーんだよ」

 翔太は手に持っていた教科書をパタンと閉じた。表紙には『詳説 日本史B』の文字。

「桶狭間の戦い、復習してたんだけどさ。これ、結末わかってんじゃん。信長が奇襲して、今川義元が死ぬ。以上。確定した未来をなぞって何が楽しいわけ?」


 パソコンに向かってカタカタとキーボードを叩いていたレンが、眼鏡の位置を直しながら口を挟む。

「それが歴史という学問だからね。確定した事実から因果関係を学ぶ。それが僕たちの部活の趣旨だろ」

「いーや、違うね」

 翔太はニヤリと笑い、制服のポケットから「あるもの」を取り出した。

 コンビニで買ったキャラメルのおまけについてきた、安っぽいプラスチックのサイコロだ。

「歴史の面白さは『IF(もしも)』にある。そして、そのIFを決定するのは、いつだって偶然だ。……そうだろ?」


 翔太はサイコロを親指で弾いた。白い立方体が空中で回転し、翔太の手のひらに収まる。

「だから、リミックスしようぜ。俺たちが神様になって、戦国の運命を書き換えるんだ」

 美咲がようやく本を閉じ、呆れたように翔太を見た。

「また始まった。で、今度は誰をいじめるつもり?」

「いじめるなんて人聞きが悪い。……桶狭間だ。信長が勝つのはいいとして、誰か一人くらい、予想外の退場者を出すべきだと思うんだ」


 翔太は黒板の前に立ち、チョークを走らせた。

 カッカッカッ、と小気味良い音が響く。


 1:今川義元の影武者

 2:信長の馬

 3:前田利家(まだ若いし)

 4:柴田勝家(怪我くらいで)

 5:通りがかりの農民


「……なんか地味じゃない?」美咲が不満そうに言う。「もっとこう、歴史がひっくり返るようなインパクトが欲しいなぁ」

「インパクトか……」

 翔太は少し考え、ニヤリと笑って「6」の横に文字を書き足した。


 6:松平元康(後の徳川家康)


「は?」レンが手を止めた。「待ってよ翔太。松平元康って、当時まだ18歳くらいだろ? 今川の人質として参戦してるけど、ここで死んだら江戸幕府が開かれないじゃないか」

「そうだよ! 260年の平和が消えちゃうよ!」

「だから面白いんじゃん」

 翔太は悪びれもせずに言った。

「確率は六分の一だ。ま、普通に考えれば1か2が出る。家康が死ぬなんて、よっぽどの不運がない限りありえない」

「悪趣味だなぁ……」


「いくぜ。運命のダイスロール!」

 翔太の手から放たれたサイコロは、乾いた音を立てて机の上を転がった。

 コロコロ……。

 固唾を呑んで見守る三人。

 サイコロは、黒板消しにぶつかって少し跳ね、そして止まった。


 六つの黒い点が、無情にも天井を向いていた。


「……あ」

 美咲が短い声を漏らす。

 レンが頭を抱えた。

「嘘だろ……統計的に、こういう時に限って……」

「マジかよ」

 言い出しっぺの翔太自身も、少し顔を引きつらせていた。だが、ルールはルールだ。彼は震える声で宣言した。

「け、決定……! 桶狭間にて、松平元康、討ち死に……!」


 その瞬間、西日の差す教室の空気が、ぐにゃりと歪んだような気がした。


 ***


 永禄三年五月十九日。尾張国、桶狭間。


 天が裂けたかのような豪雨が、戦場を叩きつけていた。

 視界は白く煙り、敵も味方も定かではない。泥濘(ぬかるみ)は兵たちの足を絡め取り、あちこちで悲鳴と怒号、そして鉄と鉄がぶつかり合う鈍い音が響いている。

 今川軍の先鋒として大高城への兵糧入れを命じられていた松平元康(もとやす)は、この混乱の最中にいた。


「殿! ここにおられては危険です! 一旦、下がりましょう!」

 側近の本多忠勝が、雨音に負けじと叫ぶ。

 だが、若き元康は、濡れそぼる面頬(めんぽう)の下で、じっと前を見据えていた。

 冷たい雨が、鎧の隙間から染み込んでくる。体温が奪われていく感覚。しかし、彼の胸の内に燃える火は消えていなかった。


(……この戦が終われば)

 元康は思う。

 幼き頃より、織田と今川の間で人質として翻弄されてきた。母とは生き別れ、父は家臣に殺された。

 だが、耐え忍べば必ず好機は来る。

 今川義元公が織田を倒せば、三河の地に戻れるかもしれない。岡崎の城で、家臣たちとまた笑い合える日が来るかもしれない。


(わしは、生きる。何としても生き延びて、いつか必ず……)


 その時だった。

 ヒュッ、と風を切る音がした。

 それは、狙って放たれたものではなかったかもしれない。

 混乱する戦場、恐怖に駆られた名もなき足軽が、闇雲に空へ向かって放った一本の流れ矢。

 数万本飛び交う矢の中の、たった一本。

 だが、その一本は、まるで吸い寄せられるかのように、歴史の特異点へと向かった。


 ドスッ。


 鈍く、重い音がした。

 元康の思考が、唐突に断絶する。

「……?」

 痛みはなかった。ただ、世界が急激に傾いだ。

 視界が赤く染まっていく。

 泥の冷たさが背中に伝わったとき、彼は初めて、自分が仰向けに倒れたのだと理解した。

 空が見える。

 鉛色の空。雨粒が、スローモーションのように落ちてくる。


「……と、殿ォォォォォッ!?」


 忠勝の絶叫が、遠くから聞こえる。獣のような咆哮。

 ああ、忠勝が泣いている。あのような剛の者が、子供のように泣いている。

 元康は手を伸ばそうとした。だが、指先一つ動かない。

 喉の奥から、熱い鉄の味が込み上げてくる。


(……無念)


 その二文字だけが、脳裏を過(よぎ)った。

 天下を統一するはずだった男。二百六十年の太平を築くはずだった男。

 その壮大なる未来図は、たったひとつのサイコロの目によって、呆気なく白紙へと還った。

 松平元康、享年十八。

 その瞳から光が消えた瞬間、桶狭間の雨は、いっそう激しさを増したように見えた。


 ***


「……死んだ、だと?」


 織田信長は、報告に来た伝令を見下ろしたまま、動きを止めた。

 奇襲は成功した。今川義元の首も取った。

 この戦は、織田家の乾坤一擲(けんこんいってき)の大勝利で終わるはずだった。

 だが、その勝利の酒に、一滴の猛毒が垂らされたような違和感が、信長の胸をざわつかせていた。


「は、はい……。松平元康殿、流れ矢に当たり、即死との由(よし)……」

「馬鹿な」

 信長は吐き捨てるように言った。

「あの男は死なん。幼き頃より人質として苦汁を舐め、それでも虎視眈々と爪を研いでいた男だ。あのような男こそが、しぶとく生き残り、最後に笑うのだ。……それが、流れ矢一本で?」

「事実にございます。松平勢は総崩れとなり、三河衆は散り散りに……」


 信長は天を仰いだ。

 雨は上がり、雲の切れ間から月が覗いている。

 だが、信長にはわかっていた。何かが狂った。世界の歯車が、致命的な音を立てて外れたのだ。


 元康が生きていれば、織田は東の憂いを無くし、西へと覇道を突き進めたはずだ。最強の盟友となるはずだった男の死。

 それは、東からの壁が消滅したことを意味する。


「……是非もなし」


 信長は、低く呟いた。

 その言葉の意味は、これまでの「仕方がない」という諦念とは違う。

 これより先に待つ修羅の道への、絶望的な覚悟であった。

「三河は荒れるぞ。甲斐の虎(武田)、相模の獅子(北条)が黙ってはおらぬ」

 信長は、濡れた髪をかき上げた。その瞳には、すでに次なる地獄が映っていた。

「五郎左(丹羽長秀)を呼べ。……これより、歴史を作り直す」

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