唯一
佐原マカ
唯一
駐車場に車を停めたとき、すぐにエンジンを切ることができなかった。しばらくハンドルを握ったまま、正面の白い壁を見ていた。十一月の午後。空は高く、よく晴れていた。
受付で記帳をする。差し出されたペンを持つ手が、ほんの少しだけ震えた。自分の名前を書き終え、ペンを置く。香典を渡し、会釈をする。すべてが、決められた手順どおりに進んでいく。
待合室には、すでに何人かの参列者がいた。黒い服を着た人たちが小さな声で言葉を交わしている。誰かの話し声が断片的に耳に入る。知った顔もいくつかあった。大学の同級生たちだ。遠くから会釈を交わすが、近づいて話すことはしなかった。
式が始まる時刻が近づき、参列者は式場へと移動し始めた。私も、その流れに従って中へ入る。正面に祭壇があり、その中央に遺影が飾られていた。
写真の中で、その人は笑っていた。
見覚えのある笑顔だった。学生時代に、何度も遠くから見ていた表情だ。同じ教室にいても言葉を交わすことはほとんどなかった。話しかけられないまま、ただ横顔を眺めていた。卒業してそれぞれ違う道に進み、もう会うことはないだろうと思っていた。
それが、半年前の同窓会で再会した。久しぶりに見たその人は少し痩せていて、それでも相変わらず穏やかな話し方をしていた。あの頃と同じように、私はまた遠くからその姿を眺めていた。
「また集まろうね」
誰かがそう言って同窓会は終わった。次がいつになるのか分からないまま、それぞれが帰路についた。それから数か月後、訃報が届いた。病気だったらしい。誰も知らなかった。本人も、あまり人には話していなかったようだ。
通夜には行けなかった。仕事があった。本当は、何を着ていけばいいのか、どんな顔をすればいいのか分からなかったからかもしれない。
焼香の列に並ぶ。前の人が終わるたびに一歩ずつ前へ進み、自分の番が来た。遺影の前に立つ。抹香を摘み、香炉にくべる。もう一度、同じ動作を繰り返す。
合掌する。
目を閉じると、その人の姿が浮かんだ。教室の窓際に座っていた姿。同窓会で、グラスを手に笑っていた姿。誰にも言ったことのない想いが、胸の奥にある。
好きだった、と。
けれど、その言葉を口にする相手はもういない。この想いを受け取る人も、もういない。目を開け、一礼する。遺影の中のその人は、やはり笑っていた。
列を離れて席に戻る。式は静かに進んでいく。僧侶の読経、遺族の挨拶、弔電の紹介。すべてが、どこか遠くで起きている出来事のようだった。式が終わり、参列者は三々五々、会場を後にする。
外に出ると、まだ明るかった。十一月の午後の光が駐車場を照らしている。同級生の何人かが隅のほうで話し込んでいた。私は、誰にも声をかけず車に乗り込んだ。
エンジンをかけ、バックミラーに映る自分の顔を見る。泣いてはいなかった。ただ、胸の奥に言葉にならないものがあった。
好きな人は、一人だけでいい。大切な人に代えがあるのは淋しいから。でも、その一人がもういないとき、この想いはどこへ行けばいいのだろう。
車を出し、斎場を後にする。帰り道、信号で止まるたびに、遺影の中の笑顔が浮かんだ。もう会えない。もう話せない。もう、何も伝えられない。それでも、その人が唯一であることに変わりはなかった。代わりなど、いない。これからも、きっと。
家に着き、車を降りる。空を見上げると夕暮れが始まっていた。部屋に入り、黒い服を脱いでハンガーにかける。テーブルに座り、何をするでもなく窓の外を眺めた。
誰にも話せない想いを抱えたまま、日常は続いていく。それでも、この想いだけは確かにここにある。その人が生きていたことも、私がその人を想っていたことも、誰も知らなくていい。ただ、私だけが知っていればいい。
唯一 佐原マカ @maka90402
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