水を流してはいけない-間宮響子-

江渡由太郎

水を流してはいけない-間宮響子-

 間宮響子がその依頼を受けたのは、午前一時を過ぎてからだった。


「……”夜中のトイレだけ“、なんです」


 電話口の女性は、震える声を極限まで抑えていた。


「入ると、必ず“誰かが先に使っていた気配”がある。でも、家族は全員寝ていて……」


 響子は、すでに嫌な予感を覚えていた。




 朝。

 響子は依頼主のマンションへと向かった。


 トイレは、家の中で最も境界が薄い場所だ。

 問題の家は、ごく普通のマンションだった。

 築年数も浅く、事故物件でもない。


 だが、トイレの前に立った瞬間、響子の背筋が粟立つ。


 便座の蓋は閉まっている。

 それなのに――中に誰かがいる“圧”だけが、確かに存在していた。


「夜中、何時ごろですか?」


「……必ず、二時十六分です」


 その時間を聞いた瞬間、響子は小さく舌打ちした。


 水回りの霊が最も活発になる時刻だった。


「今晩、霊障について調べたいので滞在してもいいですか?」


「はい……宜しくお願いします……」




 深夜。

 二時十六分。


 響子は、トイレの前に立っていた。

 家中の電気は消してある。


 静寂の中――。


 ちゃぽん。


 便器の奥から、波紋を広げるように水が揺れる音がした。

 誰も水を流していない。


 だが、水面が“呼吸するように”上下している。

やがて、音が変わった。


 ――ずる……。


 ――ずる……。


 何かが、便器の中で身体を引きずっている。


「……出てきなさい」


 響子がそう告げた瞬間、便座の裏から、髪の毛が垂れ下がった。


 女のものだ。

 異様に長く、濡れている。

 そして――。

 顔は、上を向いていた。

 便器の中から、こちらをじっと見上げている。


「……水を……流さないで……」


 声は、配管を伝って、頭の内側に直接響いた。


 響子は理解した。

 この霊は、殺されたのではない。

 誰にも気づかれず、夜中のトイレで倒れて亡くなった。数年間経過後にはドロドロに肉も骨も液状に腐敗していた。


 そしてただの汚水だと思われそのまま水を流され、“処理された”人間だ。


 事故でも、事件でもない。

 だから、記録に残らない。


「ここは、あなたの居る場所じゃない」


 響子が印を結ぼうとした、その瞬間――。

 背後で、トイレのドアが、内側からノックされた。


 コツ……。


 コツ……。


「……まだ、いるよ」


 便器の中の女が、笑った。




 翌朝、霊は消えた。

 女性は涙ながらに礼を言った。


「もう、大丈夫なんですよね……?」


 響子は、少し考えてから答えた。


「ええ。ただし――夜中に、トイレで水の音がしても、絶対に流さないでください」


 帰り際、響子は振り返った。

 トイレのドアが、ほんの少しだけ、開いていた。

 中から、水の張られた音がした。


 ちゃぽん。


 誰も、使っていないのに。



 ――(完)――

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