この世界に残されたのは、愛だけだった

サジャル・アリカズタ

第1話 この世界に残されたのは、愛だけだった

ヴァロリアは、魔法によって栄えた強大な王国だった。

人間と超自然の存在が共に暮らし、秩序と繁栄が保たれていた。

そして、その中で――

かつての私は、王国でも指折りの地位にあった。

民は概ね忠実で、聖騎士団は領内の平和を守る盾だった。

少なくとも、その頃までは。

……だが。

「お前は死ぬ運命だ、レイ。

愛する者たちは、とうの昔にお前を見捨てた」

氷の大地に倒れ伏したアラシナの騎士が、血を吐きながら嗤った。

「覚えておけ。

お前に残るのは、闇だけだ」

言葉を終えると同時に、彼の口から血が溢れ、

私の剣はその肉を貫いたまま、凍りついた地面を赤く染めていた。

「……それは、もう聞いた」

私は呟いた。

声は、ほとんど風に溶ける囁きだった。

視線は虚ろで、倒れた騎士を見ていない。

愛する者を失ったあの日から、

私の瞳に光は宿っていなかった。

空を仰ぐ。

息を吸おうとするたび、胸が裂けるように痛む。

氷の大地が身体を縛りつけ、

まともに呼吸することすら難しかった。

それでも私は歩いた。

天穹の刃――

誇りを失い、聖騎士の血で汚れた剣を引きずりながら。

足音だけが、終わりの見えない氷原に響く。

規則的な、乾いた音。

その音に合わせて、記憶が蘇った。

――最愛の人と過ごした日々。

人生で、最も幸福だった時間。

だがこの呪われた物語では、

その記憶さえ、魂を抉る刃でしかなかった。

「後悔、死、放棄……

すべてを味わったさ、遅すぎた騎士」

私は低く呟き、

自らが殺した騎士の言葉をなぞる。

創造主に呪われ、

人生という惨禍の奔流の中を、ただ歩き続けてきた。

――失うものなど、もう何もない。

そう思いながら、

私は自分でも形の分からない運命へと歩みを進める。

かつて、私は尊敬される存在だった。

ヴァロリアにおいて、

力と美徳を兼ね備えた戦士として。

名声。

仲間。

家族。

そして――

心が属する光。

最愛の妻、エヴァンジェリン。

……なぜだ?

なぜ、私を呪った。

なぜ、主よ。

力を得たからか?

それとも、私が“異端”だったからか?

胸に手を当て、問いかける。

だが、答えはない。

思考は霧散し、

方向も、感情も、残っていなかった。

冷たい風が吹く。

だが、目の前にあるのは――

闇だけだった。

「……次は、何だ?」

復讐は果たした。

目指すものもない。

家族は安らぎ、

友は眠り、

愛は救われた。

それでも、未来は重く、圧し掛かる。

「……今度は、どうすればいい?」

雲を見上げ、

救いを探すように呟いた。

その時だった。

頬に、温かいものを感じた。

指で拭い、

それが涙だと知る。

長い間、乾ききっていたはずの瞳が、

深い悲しみに濡れていた。

「……エヴァンジェリン」

名を呼ぶと、

記憶が溢れ、頭を垂れた。

彼女が去ってから、

幾世紀もの間、

感情を心に封じてきた。

だが、それが今、溢れ出す。

彼女は――

優雅で、慈悲深く、

ヴァロリアの希望だった。

妻であり、

癒し手であり、

守護者だった。

……会いたい。

彼女でなければならない。

他の誰でもない。

「レイ!」

鋭い声が、背後から響いた。

私はゆっくりと振り返る。

そこに立っていたのは――

最後に残った、聖騎士。

「……メチル卿か」

刃を下げ、問いかける。

だが彼は答えず、

怒りに満ちた声を放った。

「世界を枯らす悪魔め!

よくも我がパラディンを――」

言葉を遮るように、

彼は剣を振るい、突進してきた。

……はぁ。

私はため息をつき、

剣を握り直す。

「死を望むなら、叶えてやろう」

剣と剣がぶつかり合い、

雪が四方へと弾け散った。

衝突は続き、

そのたびに空気そのものが切り裂かれているかのようだった。

彼の剣技は洗練されていた。

だが――それでも足りない。

この戦いの結末は、

刃を交える前から決まっていた。

「……な、なぜだ……」

メチルの目は見開かれ、

信じられないものを見るように私を映していた。

「どうして……

こんな堕落した存在が……

聖騎士団長を……」

最後の息と共に、

彼は問いを残した。

――過信だ。

それが、彼の敗因だった。

私は彼の傍らに膝をつき、

静かに言葉を落とす。

「知っているか」

声は低く、

冷えていた。

「私は、これまでお前たちのために多くを捧げてきた」

たとえ種族が違おうと。

たとえ“闇”の存在であろうと。

「それでも私は、

この王国と民を守ろうとした」

――だが。

「お前たちは、何をした?」

私の手は、彼の肩を掴む。

力が、無意識に籠もった。

「王国を滅ぼし、

民を殺し……」

言葉が、詰まる。

「……そして、

私の最愛の妻まで奪った」

声が、震えた。

「なぜだ?

なぜ、そこまでした?」

メチルは血を吐きながら、

それでも叫んだ。

「正しかったのだ!

お前のような悪魔の存在は脅威だった!」

「今こそ、それが証明された!

お前は――

死ぬべき存在だったのだ!」

……理解していた。

彼らは、

私が脅威ではないことを知っていた。

それでも全てを奪い、

この男は自分を正義だと信じて疑わなかった。

私は、ため息をついた。

「……無駄だな」

話す価値すら、続かなかった。

私の瞳は異色だった。

左は深紅。

右は透き通るような蒼。

右手を掲げる。

掌の上に、

濃い赤のエネルギーが集束していく。

「私を“悪”と断じた者は……」

静かに、宣告する。

「死ぬ」

「や、やめろ――!」

彼の叫びは、

もはや届かなかった。

暗赤色の球体が、

彼の頭上に落ちる。

――ダークエンド。

存在そのものを、

痕跡すら残さず消し去る禁忌の術。

エネルギーが彼を包み込み、

肉は灰となり、

骨もまた、崩れ落ちていく。

「くそ……!

何度でも呪ってやる……!」

耳を裂く悲鳴が、

やがて途切れた。

次の瞬間、

そこには何も残っていなかった。

私は、果てしない空を仰ぐ。

「……私は、死ぬのか?」

低く、問いかける。

人は、生きながら死ぬことができる。

だが――

すでに内側が死んでいる者は、

どうやって死ねばいい?

肉体の死は、

苦しみを終わらせるかもしれない。

だが魂は、

終わりなき痛みを抱え続ける。

エヴァンジェリンを思い浮かべ、

そっと目を閉じる。

唇から、

かすかな吐息が零れ落ちた。

死は、近い。

残された願いは、ただ一つ。

――もう一度だけ。

彼女に会いたい。

一瞬でいい。

笑顔を見ることができれば。

名を呼んでもらえたなら。

「……もし」

声は掠れ、

涙が止まらなかった。

共に過ごした記憶が、

心を灼き、

同時に、失った痛みが胸を引き裂く。

「……本当に、そこまで必死なのか?」

突然、

頭の中に声が響いた。

それは、

自分自身の声だった。

「……ああ」

私は膝から崩れ落ち、

地に伏す。

「必死だ」

「彼女は、もういない」

その言葉は、

砕けた心に塩を塗り込むようだった。

分かっている。

彼女は、心の中で生き続けている。

だが――

それだけでは、足りなかった。

私は腕を伸ばす。

閉じた瞳の向こうに、

彼女を求めて。

「……一度だけ」

涙が頬を伝い、

黒い跡を残す。

「お願いだ……

もう一度、温もりを……

エヴァンジェリン……」

言葉に力はない。

それでも、

想いの全てを込めた。

「……エヴァンジェリン……」

名を呼ぶ声は、

ほとんど消え入りそうだった。

先の戦いで、

身体は限界を迎えていた。

それでも――

「レイ……!」

……幻か。

それとも――

「レイ!」

その声。

目を開いた瞬間、

雲間から黄金の光が差し込んだ。

視界が、眩む。

だが――

次に見た光景は、

それ以上だった。

「……そんな……」

乾いていたはずの瞳が、

再び涙に濡れる。

光の中から、

白い衣を纏った天使が降りてくる。

黄金に輝く翼。

涙に濡れた蒼い瞳。

ツインテールの金髪。

雪のように白い肌。

……幻でもいい。

この瞬間、

確信していた。

彼女は、

私のために来たのだ。

「……エヴァンジェリン……!」

失われていた力が、

一気に戻る。

私は腕を広げる。

彼女もまた、

涙を流しながら、

私を抱きしめた。

「レイ……!

やっと……見つけた……!」

彼女は私の胸に顔を埋め、

子供のように泣いた。

……それは、

私も同じだった。

「……お互い、見つけたな」

そう言って、

彼女を抱き締める。

顎を、

彼女の頭に預けた。

「……頼む……

もう行かないでくれ……」

声は、懇願だった。

「二度と……

君を失わない……

誓う……」

喜びと恐怖が混じり合い、

視界が滲む。

この再会が、

奇跡なのか。

それとも、

また別の妄想なのか。

「……どこにも行かないわ」

その言葉が、

胸を温めた。

彼女は顔を上げ、

私を真っ直ぐ見つめる。

その蒼い瞳は、

生を取り戻したかのように輝いていた。

やがて彼女は、

優しく私の頭を撫でる。

柔らかな笑みを浮かべて、

囁いた。

「……何も持たずに戻るくらいなら、

私は最初から来なかった」

そう言い終える前に、

彼女は顔を近づけ――

唇が、重なった。

冷たい風の中で、

その温もりは確かだった。

蜂蜜のような甘さが、

胸に広がる。

私は、

心から笑っていた。

一瞬の中で、

人生が走馬灯のように過ぎ去る。

目を開けると、

温かさが身体を包み、

古い傷が、静かに消えていった。

まるで――

魂そのものが、

癒されていくようだった。

「……エヴァンジェリン……」

変化した身体を見て、

声を上げる。

彼女は微笑み、

私の手を取る。

「レイ……

行く時間よ」

その瞬間、

天から降り注ぐ黄金の光が、

私たちを包み込んだ。

身体が、

ふわりと浮かび上がる。

混乱が、

一気に押し寄せる。

そして――

目を閉じた。

気づけば、

冷たい感触が全身を包んでいた。

雪だ。

目を開くと、

自分の身体が氷の大地に横たわっているのが見えた。

……動かない。

「……そうか」

低く、独り言のように呟く。

ついに――

起こったのだ。

私は、死んだ。

だが、不思議と恐怖はなかった。

むしろ、胸の奥に小さな安堵があった。

彼女が現れた瞬間に、

もう理解していたのだ。

あれは幻ではない。

彼女は、本当に迎えに来たのだと。

「……はは」

物憂げに、笑みが零れる。

彼女が現れた時点で、

私の命はすでに尽きていたのだろう。

それでも――

それでよかった。

彼女は、

そっと私の頬に触れた。

冷たいはずの指先は、

なぜか温かい。

「すべてのものには、終わりがあるわ」

彼女は、静かに囁いた。

「私の人生も。

この世界も。

そして……あなたの人生も」

私は、何も言わずに聞いていた。

彼女は続ける。

「でもね」

そう言って、

私の胸に額を預ける。

「終わらないものも、あるの」

その声は、

確かで、優しかった。

「それは――

私たちの愛」

彼女は顔を上げ、

もう一度、唇を重ねた。

そして、

私の頬を伝う涙を、

そっと拭う。

「さあ、レイ」

柔らかな笑顔で、

彼女は言った。

「永遠に、一緒にいきましょう」

……ああ。

私は、

もう迷わなかった。

悲しみを手放し、

この瞬間を受け入れる。

「……ああ」

静かに、

それでも確かに答える。

「永遠に一緒だ。

……俺の人生、

俺のエヴァンジェリン」

目を閉じる。

光が、

すべてを包み込む。

こうして――

私が生涯で味わった

すべての苦難は、

最愛の妻、

エヴァンジェリンと共に在る

永遠の安息という形で、

来世への報いとなった。

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