綾子ねえさんの海
瀬季ゆを
綾子ねえさんの海
ある晩のことです。私は明日の仕事の支度を終え、布団に入りました。もう何年も続いている、まったくいつも通りの一日でした。ですから、まあ明日もいつも通りであろう、と特に思うところもなく、無味の眠りについたのです。ついたはずでした。
ですが、瞳を閉じたその瞬間、私は海におりました。
真白の満月が、霞立つ地平線から顔を出しております。ところが不思議なことに、水底にも黄金の満月が輝いているではありませんか。水底など見えぬはずなのに、私には、水面が煌めくのは、その水底の満月の所為であることが分かりました。水底の月がぶくぶくとあぶくをたてて溶け、そのあぶくが水面を輝かせているのです。ええ、何度でも言いましょう。見えぬはずなのに、私には分かったのです。
ひと足早く真夜中を迎えた南の空では、ひときわ大きな星が輝いておりました。その輝きは、きゃらきゃらと音を立て分裂するや、ぱっぱっと紺青の夜空に散らばって、次々と星座を作ってゆきます。イーゼル座、貝殻座、オオルリ座―― もちろん、実際にそんな星座はありません。ですがあれらはそうなのです。
ゆらりと、水面に魚影があらわれました。尾をのぞけば、人の影のようにも見えました。あれはおそらく、人魚になりゆく魚か、魚になりゆく人魚でしょう。できれば、魚になりゆく人魚であればいいなと私は思いました。だってあの魚影は間違いなく、私の初恋の、綾子ねえさんなのです。
ええ、綾子ねえさんですとも。だって、水底で溶ける満月も、音を立てて分裂する南天の星もイーゼル座もすべて、綾子ねえさんが幼かった私に聞かせてくれたお話に出てきたものですから。
綾子ねえさんに最後に会ったあの日、今だから最後であったと言えるあの日、私は綾子ねえさんに尋ねました。綾子ねえさんはどうしてそんなに不思議で素敵な世界を描けるの、と。綾子ねえさんは確か、こう言っておりました。
「行きたいところがないから」
と。
幼い私に、その言葉の意味は分かりませんでした。きょとんとする私を置き去りに、綾子ねえさんは、続けてこうも言っておりました。これはよく覚えています。
「この世界でなら、私は魚か、それとも人魚になるのがいいかしらね」
その一週間後、綾子ねえさんは街にやってきた奇術師の男と駆け落ちしてゆきました。綾子ねえさんのお母さんが言うには、その後まもなく綾子ねえさんは捨てられ、直に、まったくの消息不明になってしまったそうです。
さめざめと泣くおばさんを眺めながら、私はなんとなく、綾子ねえさんはついに、本当に行きたいところに行ったのだなあと思っておりました。
ですから、あの魚影は綾子ねえさんに違いありません。けれど私は思うのです。かなしみのまま飛び込んだ世界は、本当の救いになるのでしょうか。綾子ねえさんのかなしみは、すべて月の泡と共に溶けてくれるのでしょうか。
私は、やっぱり綾子ねえさんはいずれ魚になればよいと思います。泣くだけ泣いたら人の心など忘れて、美しい夜に、美しい海をただ漂う、美しい魚になればよいのです。綾子ねえさんの世界は、どこまでも美しく、透明であって欲しいのです。この世界は私の、いつも通りの、行きたいところなど考える余裕もない日々の果ての、憧れなのですから。
魚影を見送りながら、私は大きくあくびをしました。きっと私の話を聞いたみなさまは、これをありふれた、つまらない夢の話と思うでしょうね。当然です。当の私でさえも、きっと翌朝にはすべておぼろげな夢として、この景色を日常の隅に追いやってしまうでしょう。
それでも私は今、とても安らかな心持ちです。いつか必ず、私はこの海へ戻るでしょう。私のまま戻るでしょう。そうしてついに、ついに私は綾子ねえさんの魚をこの胸に抱き、ふたりで海底の満月と共に溶けるのです。
綾子ねえさんの海 瀬季ゆを @yuoseki
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