智慧の輪
@Sumiyoshi
第1話 小春日和
どうにもこうにも とは、この事だ。
長く勤めた会社であったが、心労がたたったのだろう。
朝に起きると激しい眩暈におそわれた。
だめだ、立つこともできない。
笹井千絵は、体調不良のため退職した。
惜しまれつつであったのが、せめてもの救いだろう。
もう自分は年齢も50歳を目前にしている。
こんな身体では、すぐの再就職も難しい。
愛する夫は、五年前に他界している。子供はいない。
夫の俊也に先立たれてから、急に自分が老け込んでいくのを感じていた。
料理を作るのも、食べてくれる相手がいれば張り合いもでるが、もうそれは叶わない。
そう、千絵には張り合いというエネルギーが枯渇してしまったのだ。
千絵は失業手当をもらうことにした。
それと退職した会社からは、少しではあったが、退職金もでた。
これで少しの間は暮らしていける。
一度、人生のおさらいをしよう。
これから先、自分がどの位生きていくのかわからない。
このまま、抜け殻のように終えるのは、やはり哀しい。
私が何を好きで、何が欲しくて、何をしたいのか、おさらいだ。
朝の太陽の陽射しが、千絵を照らした。
第二の人生のスタートが、今から始まるのだ。
今日は何の予定もない日。
眩暈が落ち着くのをゆっくりと待ち、落ち着いたころに珈琲を沸かして飲んだ。
こんな時間の過ごし方を、千絵は忘れていた。
さあ、今日が始まる。
千絵は、簡単にトーストを焼き、サラダを用意した。
二杯目の珈琲と一緒にして、朝食を食べ終えた。
はて、これからどうする?
千絵に与えられた時間はたっぷりとある。
簡単に部屋の掃除を終えた千絵は、とりあえず外に出ることにした。
今日は快晴だ。
遠くを眺めると、雄大な山々がそびえたっている。
あの山に、俊也と一緒に登山をしたなぁ…。
急な斜面を登るとき、息切れしている私を見て俊也が笑ってからかったっけ。
…そうだ。あの山に俊也がカメラを忘れてしまったんだった。
あの時の思い出は、あの山のどこかにひっそりと眠っているんだね、きっと。
そんな事を思い出しながら、千絵は歩き始めた。
千絵は遠くの山をながめた後、近所の小さな公園目指して歩き始めた。
子供のいない千絵にとって、公園は無縁の場所だ。…そう、今までは。
季節柄、道路の脇にタンポポが咲いている。
時折、モンシロチョウも飛んでくる。
知らない間に春がやって来ていた事に、千絵は新鮮な喜びを感じた。
――あら、この花はなんという花なのかしら?
思えば、足元の花すらも気付かないで走り抜けた毎日だった。
規則正しく、企業の歯車の一つとして働いている間に、自分の感情の大切な部分を忘れてしまっていたのではないか。
美しくも可憐な、名も知らぬこの雑草を見つめながら思った。
あとどれくらい自分の生きている時間が残されているかは分からないけれど。
色んなものに触れ、様々な感情を取り戻したい。
空を見上げてみれば、うっすらと霞がかっている。
その空の高い所で旋回を繰り返しているのは、トンビだろうか。
見るもの全てが新鮮で感動に溢れていた。生の息吹を感じる。
心が満たされているせいだろうか。まったく眩暈はしないし、忘れていた。
しばらく歩くと、変わった造りの建物に目がいった。
――この通りにこんなお店があったなんて知らなかったわ
瀟洒な喫茶店だ。甘くとろけそうな程可愛らしい外観をしている。
『金の鈴』 入口の所に、木製のプレートにそう書いてあった。
丁度、お金も持ってきたことだし、興味半分で入ることにした。
どうせ、この後の予定などありはしないのだから。
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