第2話


十年前。



「おお、すげえ。この席こいつのせいで全く黒板見えないじゃん。

お前、よく後ろに座れるな?臭くない?」



すぐ後ろで繰り広げられるやり取りに静はできるだけ息を殺した。



「それにさ、名前と顔が一致しなさすぎだろ。

こんな豚みたいなやつが“如月静きさらぎしずか”とか、笑わせんなって。俺、名前だけ聞いた時どんな可愛い子くるのか想像したけど真逆」



教室に汚い笑い声が響き渡る。

下品で、耳にまとわりつくような嗤い声だった。


男子生徒たちから吐き捨てられる容赦のない暴言に釣られて、周囲の生徒たちもクスクスと肩を震わせる。

誰一人として止めようとする者はいない。ただ、面白い見世物を見るような目で静を眺めているだけだ。


静はこんな状況に置かれていながら、反論の一つすら口にできない自分に強い憤りを覚え、体を小刻みに震わせていた。

通っている高校で、静はいじめの標的になっていた。


けれど、抵抗する勇気もなければ、声を上げる術もない。

ただ机に向かい、視線を落とし、嵐が過ぎ去るのを待つしかできなかった。



「おい、デブ。

お前の金で昼飯買ってこいよ、なあ?」



男子生徒のリーダー格である川島が、苛立ったように静の椅子を勢いよく蹴った。

ギシ、と嫌な音がして、背中に衝撃が走る。


もう一度蹴られたとき、その足先は静の脇腹に当たった。



「うっ……」


「ぶひっ、だってさ。ウケる」


「さっさと行けよ。

俺、クリームパンと焼きそばパン。あとメロンパンもな」


「俺はいちごミルクとあんぱんね」



川島の取り巻きたちからも命令口調で次々と投げつけられる言葉。

静は唇を噛みしめ、か細い声を絞り出した。



「……いやだ」



それは、ほとんど聞き取れないほど小さな抵抗だった。



「は?

おい、豚。てめえ、俺に逆らう気か?まじ生意気だな。俺と張り合えると思ってんの?」



川島は乱暴に静の髪を掴み、無理やり顔を上げさせる。

頭皮が引きちぎれそうに痛み、視界が歪んだ。



「……っ」


「ブスすぎてマジでウケるわ」



静は、この学校に入学してから、ほぼ毎日のようにこの仕打ちを受けていた。

太っていて、地味で、暗い。そんな理由もあっただろう。

だが決定的だったのは、親が世間で少し名の知れた会社の社長であるという噂だった。


こいつからなら金を奪える。


そんな浅はかな考えを抱いた連中に、目をつけられたのだ。

自分は何もしていない。ただ存在しているだけなのに。

世の中の理不尽さが、胸の奥に重くのしかかる。



「おい、豚。早く行けよ。

どうせお前の母親から、小遣いで万札とかもらってんだろ?」


「……いや、でも……」


「うるせえつってんだよ!! 豚!!」



川島の怒鳴り声が教室に響き渡る。

一斉に集まる視線。逃げ場はどこにもなかった。


静は震える手で財布を取り、無言で教室を出た。



「マジであの豚ちょろすぎ。

親金持ちだから、いくらでも引き出せるわ」



背後から聞こえてくる嘲笑を振り切るように、静は廊下を歩く。

握りしめた財布に、爪が食い込む。


すれ違う生徒たちは、静を避けるように道を開けた。

近くを通った女子生徒たちが、ひそひそと声を潜める。



「豚が通るよ。臭そう」


「やめなって、聞こえるよ?

でも本当に汚そうだよね」


「ねえ、フケとか浮いてそう」


「何それ最悪。

この前、一ヶ月風呂入ってないって噂もあったよね?」



静は顔を上げることができず、俯いたまま購買へ向かった。

売店のおばさんに注文を告げると、「あなた、よく食べるわね」と何気なく言われる。


それでさえ、嘲笑に聞こえてしまう自分が嫌だった。

悪意ではない。そう何度も言い聞かせ、無理に口元を緩める。


自分の昼ご飯を買うお金なんて残らない。


それでも、少しでも遅れればあの連中が激しく怒ることは分かっていた。

分かっていても、どうしても行きたい場所があった。


屋上の扉を開け、静は周囲を見渡す。



「……いない」



肩を落とし、立ち去ろうとしたそのとき。



「静」



振り返る。

豚でも、汚物でもなく、名前で呼んでくれる、唯一の存在。


天輝玲あまきれい


ダークブラウンの緩やかにウェーブのかかった髪。

少し垂れたアーモンド型の切れ長の目には、ビー玉のように光を反射する漆黒の瞳。

高く整った鼻筋に、やや薄めの唇。無駄ない線の通った輪郭。整いすぎているほどに整った顔だ。身長も高く、身長の低い静を簡単に見下ろす。

高校生でありながら、どこか大人びた雰囲気を纏っていた。



「ごめんね。担任に呼ばれてさ遅くなっちゃった。進路についていい加減に決めてってさ。」



玲は静の前に立ち、そっと頭を撫でる。

荒んでいた心が、ゆっくりと溶けていく。

その反動で、胸の奥がきゅっと締めつけられ、涙が込み上げそうになる。



「……今は、やめて……」



静はやんわりとその手を払うが、玲は気にせず撫で続けた。



「あー、何で?そんなこと言うの。

そんなこと言う子はこうしちゃうよ?」 



玲は静の両手首を掴み、軽く持ち上げる。



「ほら、静。上、見てみ」



要はしゃがみ込み、空を指差した。

雲ひとつない、どこまでも澄んだ青空。



「……き、れいだね」


「でしょ?

どう? 少しは気分、スッキリした?」



どこか玲のようだとも感じる。

眩しい笑みを向けられて、静は思わず微笑み返した。


この時間だけが、

静の唯一の場所だった。

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