プロローグ 魔法使いの乙女の最期の祈り
どこまでも広がる青空。その清澄な空を、大地に横たわったまま見上げ、乙女は静かに涙を流していた。
その涙は頬を伝い、血に濡れた地面へと吸い込まれていく。
腹部の深い傷から流れる血が大地を染め、躰を貫いていた激痛は、命の灯火が消えゆくにつれて遠ざかっていく。
今やその痛みすら、微かな残響に過ぎない。
魔法でかろうじて傷口を抑えながらも、乙女には自らが避けられぬ終焉に向かっていることがわかっていた。
死という逃れられぬ運命が、己の生命の熱をひとつ、またひとつと奪ってゆく。
「……ごめんなさい、父様、母様……。仇を討つことは叶いませんでした」
絞り出すように紡がれた言葉には、耳を傾ける者もおらず、風に乗って儚く消えていく。
「フィリア……泣き虫の妹……とうとう独りにしてしまう……。あなたをまた泣かせてしまうなんて……」
その声には、深い後悔と愛おしさが滲んでいた。
目の前の世界が次第に霞んでいく中、愛らしいフィリアの笑顔が脳裏に浮かび、そして静かに消えていく。
救国の英雄、神々に愛されし乙女──ソラデア・アルクス。
太陽の女神に祝福された史上最強の魔法使いと謳われ、その名は数年の間に数多の伝説と共に語られ、いくつもの二つ名に彩られていた。
優美なる戦の女神。太陽の祝福を受けし乙女。
偉大なるマギアレータ。
その姿は女神そのものと、賞賛と崇敬を一身に受けていた。
だが、血と泥にまみれたその姿には、かつての神々しさは残されていない。
蒼く輝く銀の髪は血と煤に汚れ、衣服は焼け焦げ破れ、優雅だった肢体は無数の傷に覆われていた。
伝説の杖──『栄光の星』もまた、宝玉は砕け、七つあった黄金の守護刻印は一つを残すのみ。杖はひび割れ、かつての輝きは失われていた。
動かぬ身体を無理に杖で支え、上半身を起こすと、崩れ落ちた女神の神殿の壁にもたれかかる。 目の前に広がるのは、燃え盛る王都の街並み。天を焦がす炎の舞が、滅びの光景を浮かび上がらせていた。
ソラデアはぼんやりと空を見上げる。
あまりにも美しく、あまりにも広い青空。その無垢なる景色の下で、己が消え去ることが、ただ虚しく、哀しかった。
「……あの空の向こうに……平穏は…………あるのかしら?」
その囁きは、風と共に消えていく。
小高い丘の上のこの神殿から見下ろす王都は、かつて威厳と歴史を湛えた荘厳なる都市だった。
火トカゲ族の商人の陽気な声、羊獣人の叔母さんの豆パンの香ばしさ、人も魔人も獣人も、皆が共に暮らし、笑い合い、古くて優しい時を刻んでいたあの街は、今、炎と煙に包まれている。
精霊や神獣を崇め、神々の加護に守られた神聖王国連合も、ここで終焉を迎えようとしていた。
「私たちは── この世界から、滅ぼされるのかしら……」
純粋なる人間種(アリシノーズ)のみを至上とし、他の種族を排除し、神々と精霊の影響を拒絶する帝国──クレデンティウム帝国。
皇帝率いる帝国の魔導科学技術と魔導機兵は神秘を蹂躙し、王国を焦土へと変えた。
神聖王国連合の長きにわたる大陸全土に及んだこの大戦争も、首都である王都の陥落により、今、終結を迎えようとしていた。
「もし、確たる陣容で整えられていたのなら……帝国なぞに敗れるはずがなかったのだ」
上半身が炭と化し、無残に横たわる将軍が残した最期の言葉。その断末魔は、王国連合がなぜ滅びたのかを雄弁に物語っていた。
神や精霊、神獣の加護を受けし神聖王国連合。 だが彼らは己が力を過信し、幾度も重ねられた警告に耳を貸さなかった――その愚かさこそが敗因であった。
王国連合が潰えた今、天空と地上の狭間に漂う半神獣や半神の住むデウスヴェナを除けば、もはや帝国に抗し得る力はこの大陸に存在しない。
ソラデアは未来を思い、乾いた自嘲の笑みを浮かべた。
「……もう、どうでもいい話ね。」
母と妹を守るため、ただそのためにさらなる強大な魔法を習得し、至高の宝玉の杖『栄光の星』を携え、幾千もの帝国兵と魔導機兵を討ち滅ぼした。
数え切れぬほどの血と悲鳴をその両手と両耳に刻みつけながら。
「今まで……私も、何度も同じことをしてきた。今度は、私の番……。でももう、殺さなくていい……もう……誰も……」
生命の終わりを迎えようというのに、乙女は不思議な安らぎすら覚えていた。
ただ一つ、心残りは──独り残してしまう妹、フィリア。
神様——。
乙女はかすかな息を集めて祈る。
あなたを信じ、敬い、あなたの敵と呼ばれる多くをこの手で燃やし、引き裂き、屠りました。 仲間も友も、父も母も敵の炎に呑まれ倒れゆく中、私はただ休まず戦い続けました。
だからどうか、この最後の細やかな願いを——お聞き届けください。
視界は霞み、息は細り、身体は痙攣しながらも、乙女は最後の想いをすべて祈りに込めた。
「フィリア……せめて、あなたにだけは……」
それは、誰もが知る夢物語、大いなる魔法——メガリマギア。
神々が短き人の命を憐れみ、この世に遺した遥かなる神代の秘術にして、どんな願いも必ず叶えると語られる、おとぎ話。
「メガリマギア……偉大なる魔法よ……お願い……妹を……」
残された生命を振り絞り、ソラデアは祈る。
その声、その思いは、幸せを想う切実で純粋な願いであり、祈りであった。
「エピシミヤ……モ……エィ……タガレ・エト・ハティクヴァ……フィリアに……フィリアに幸せな世界を……大いなるメガリマギア……願いを……」
うつろな瞳から、一筋の涙が零れる。
「……逢いたい……フィリア……お願い……少しでも幸せに……ルクス……フィリクス・セント……ラリス……」
自らの生命のすべてをささげた言葉は、魂の奥底から言霊となって紡がれ、鋭く澄み渡る魔力に変じた。
その魔力は『栄光の星』の砕けた欠片に導かれ、複雑に編まれた秘儀の式を織り上げていく。
そして、一つだけ残された黄金の守護刻印が呼応した。
命の炎が消え果てる刹那、乙女の最後の強き願いが宝玉に収束し、砕け散った杖の宝玉が、ふたたびゆっくりと輝きを放ち始めた。
メガリマギアの溢れる奇跡の光が、おびただしい兵士の骸や壊れて横たわる沢山の魔導機兵の残骸を、血と油と炎の戦禍の姿を覆い隠す柔らかな輝きとなり、そのまま光の玉となって、横たわるソラデアの隣で人型となっていった。
そして、その光の中から優しい手が伸び、そっとソラデアの手を取り、優しく握りしめる。
自分を覗き込む少女の優しい眼差しに、ソラデアは失いかけていた命の火をほんの束の間取り戻し、目をこじ開けると、満足そうな笑顔を浮かべ涙を零した。
「フィリア…………大きくなったね。……無事で……良かっ……た。おねがいね。しあ……わ……せに……て……」
喜びを顔に浮かべたソラデア・アルクスは、差し伸べられた手をしっかりと握りしめながら最後の息を吐きだし、その短い生涯を閉じた。
偉大なる魔法使いと称され、様々な伝説を謳われた若き天才魔法使いの姿はそこにはなく、痛々しい乙女の亡骸として、静かに横たわっている。
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