打ち切り予定の異世界で、モブの俺だけが「配信画面」を見ている
サンバ森下
1話
空に、文字が浮かんでいた。
『DELETE』
母が消えた。村が消えた。世界の一部が、光の粒子になって消えた。
俺だけが、残された。
あの日から六年。俺は世界を救うために、誰よりも必死に戦っている。
ただし、剣ではなく。嘘と罠で。
1
安宿特有の薄汚れたカーテンの隙間から、埃を含んだ朝日が鋭い線となって室内に差し込んでいた。
アルトは、その光の筋が古びた床板を照らすのを、まるで異物を見るような無機質な瞳で見つめていた。視界の端に浮かぶ半透明のシステム時刻が、午前七時〇三分を告げている。
不快な電子音が脳内で鳴り響く前に、彼は深く息を吐き出し、表情筋を意識的に操作した。口角を数ミリ上げ、眉尻を下げ、慈愛と困惑が絶妙に入り混じった「献身的な従者」の仮面を、顔面に貼り付ける。
「あ、あれ? アルトぉ! 助けてくれ、また絡まった! これ、血が止まる!」
部屋の中央で、情けない悲鳴が上がった。
世界を救う希望の星、勇者ライルが、まるで知恵の輪のように複雑に絡まった革ベルトと格闘している。魔物を前にすれば神速の剣技を繰り出すその指先も、日常の留め具一つ満足に扱えない。
アルトは音もなく歩み寄ると、ライルの手から革帯を取り上げた。使い込まれた革の油の匂いと、ライルの高い体温が指先に伝わる。
「勇者様。昨日は右腕から通すと教えましたよね。それと、バックルの向きが逆です」
「悪い! お前がいないと俺、剣の帯刀すらできなくて……」
ライルが照れくさそうに頭をかく。その動作に合わせて、黄金色の髪が寝癖で跳ねた。
アルトは手際よくベルトを解き、呼吸をするように自然な動作で勇者の腰に巻き付ける。カチャリ、という金具の音が、静かな部屋に小気味よく響いた。
これは介護ではない。メンテナンスだ。
アルトにとって目の前の青年は、世界というシステムを維持するための「主演俳優」であり、絶対に機嫌を損ねさせてはならない「コンテンツ」そのものだった。
「ほら、できました。今日も『完璧な勇者』に見えますよ」
アルトはポケットから使い古した木櫛を取り出し、母親が子供にするように、ライルの跳ねた髪を撫でつけた。櫛を通すたび、サラサラとした金髪が整っていく。
鏡を覗き込んだライルが、太陽のような屈託のない笑顔をアルトに向けた。
「ありがとう! やっぱりアルトは俺の最高の相棒だ」
その純粋すぎる蒼い瞳には、一点の曇りもない。疑うことを知らない、暴力的なまでの善性。
ライルは感慨深げに続ける。
「召喚されたあの日、城の階段から落ちそうになった俺を助けてくれた時から……お前はずっと俺の保護者だな。あそこで転んでたら、俺の冒険は始まる前に終わってたよ」
アルトの手が、一瞬だけ止まりかけた。
すぐに再起動し、最後の仕上げに襟を整える。
「あの時は、勇者様が足元の段差を見ていなかっただけですよ」
嘘だ。
アルトの胸の奥で、氷のように冷たい声が響く。
あの階段に油を塗り、照明を落とし、お前が足を滑らせるように仕組んだのは俺だ。そうでもしなければ、お前は「完璧な勇者」として一人で旅立ち、俺のような無力なモブなど見向きもしなかっただろう。お前に「恩」を売りつけ、「こいつがいないとダメだ」と刷り込むために、俺は最初の出会いから演出したのだ。
「……勇者様、準備は?」
部屋の入り口から、鈴のような声がした。
魔法使いのエリナが立っていた。彼女の手には、おそらく自分もライルの髪を梳かそうとしていたのだろう、高級そうな鼈甲の櫛が握られている。
だが、すでに整えられたライルの髪と、アルトの手にある安物の木櫛を見て、彼女の視線が揺れた。行き場を失ったその手は、気まずそうに背中へと隠される。
「ああ、エリナ! バッチリだ。アルトのおかげでな」
ライルの無邪気な言葉が、エリナの心を刺すのが見えた。
彼女の視線が、鋭くアルトを射抜く。それは単なる嫉妬ではない。「なぜあなたは、そこまで完璧に勇者様の世話ができるの?」という、言葉にできない違和感への問いかけ。
アルトはそれに気づかないふりをして、恭しく頭を下げる。
「おはようございます、エリナ様。……さあ、行きましょうか。世界が、勇者様の活躍を待っています」
アルトは扉を開ける。
その背中には、冷や汗が滲んでいた。
2
宿屋の重たいオーク材の扉を押し開けた瞬間、セントラル市の活気ある喧騒と、肌を刺すような朝の冷気が同時に押し寄せてきた。
石畳を馬車が行き交い、露店からは焼き立てのパンの香ばしい匂いが漂ってくる。世界は、平和そのものに見えた。
だが、アルトにとっては違う。一歩外に出たその瞬間から、彼は「戦場」に立たされていた。
「よし、今日は氷結ダンジョンだな! 腕が鳴るぜ!」
先頭を歩くライルが、太陽を背負ったような眩しい笑顔で剣の柄を叩く。その隣で、巨漢の戦士ガルドが豪快に笑い、エリナが静かに杖の感触を確かめている。
アルトは、彼らの背中越しに、恐る恐る空を見上げた。
そこにあったのは、青空ではなかった。
視界の空一面を、無機質な半透明のウィンドウが覆い尽くしている。
アルトの網膜に、赤い数字が焼き付いた。
『世界12(第6シーズン・4日目)』
『同接数:6,823人(▼ 減少中)』
これを見る度、胃の腑が鉛を飲み込んだように重く沈む。昨夜確認した時は七千人台だったはずだ。それが、たった一晩でさらに削げ落ちている。
視界の左端を、滝のような文字の羅列――『コメント欄』が高速で流れていく。
『またスライムかよ』
『勇者強すぎ。見てて飽きる』
『1〜3日目と同じパターンじゃん』
『作業ゲー乙』
『もう切るわ。寝る』
鋭利なナイフのような言葉の数々。
魔物の爪よりも、猛毒の沼よりも、この無責任な文字の羅列こそが、この世界を殺す凶器だと知っているのは、この世界でアルト一人だけだ。
同接数が減り始めた。
6,745人。
6,632人。
このペースだと、あと十分で5,000人を割る。
冷や汗が背筋を伝い落ち、シャツをじっとりと濡らしていく。呼吸が浅くなる。指先の感覚が冷たく麻痺していく。
五千人。それが、この世界の「寿命」だ。
その数字を下回った瞬間、世界は終わる。
恐怖が、記憶の蓋を無理やりこじ開ける。
六年前のあの日。あの「削除」の光景が、今見ている景色に重なってフラッシュバックする。
ザザッ、ザザザッ。
不快な電子ノイズが、鼓膜の奥で鳴り響いた。
十歳のアルトは、故郷の村にいた。母と市場を歩いていた。パン屋のおじさんがくれたパンは温かく、風は優しかった。
だが、唐突に空が「割れた」。
『警告:視聴者関心度の低下を確認』
『対象エリア「平和な辺境の村」の削除(DELETE)を実行します』
空に浮かんだ巨大なシステムウィンドウ。村人たちはそれを呆然と見上げていた。
隣にいた母の手が、急に軽くなった。
ふと見上げると、母の指先が、光の粒子となって崩れ始めていた。
「……母さん?」
「あら、どうしたのアルト? そんなに泣きそうな顔をして」
母は気づいていなかった。自分の体が、足元から消失していることに。
パン屋のおじさんが、かくれんぼをしていた子供たちが、レンガ造りの家々が、ノイズ混じりの光となって空へ吸い上げられていく。
悲鳴すらない。鮮血も流れない。ただパソコンのファイルをごみ箱に捨てるように、「不要なデータ」として、静かに、淡々と消去されていく。
「いやだ、母さん、消えないで!」
「大丈夫よ。アルト、元気でいてね」
母は微笑んだ。その笑顔のまま、顔半分がブロックノイズに変換され、霧散した。
握りしめていたはずの手のひらが、ふっと空を切る。
温もりが消えた。
後に残ったのは、ただの冷たい空間と、無慈悲なシステムログだけ。
ガツン。
硬い靴音が、アルトを現在へと引き戻した。
目の前には、氷結ダンジョンの巨大な入り口が口を開けている。そこから吹き出す冷気は、あの日の母の手が消えた瞬間の、絶対零度の喪失感に似ていた。
アルトは深く息を吸い込む。肺が凍りつくような冷たさ。だが、それでいい。この冷たさが、思考をクリアにしてくれる。
二度と、あんな思いはしない。
たとえ勇者を騙し、傷つけ、世界を欺くことになろうとも。
俺は、この「退屈な物語」を、血の通った「エンターテインメント」に書き換えてやる。
3
氷結ダンジョンの最深部。
巨大な氷の扉の前で、一行は足を止めた。扉は青白い氷で覆われ、複雑な魔法陣が刻まれている。
「ロックされてるな」
ライルが扉に手を当てた。
「中からしか開けられないタイプみたいだ」
「待ってください」
アルトは即座に声を上げ、扉の脇を指差した。壁との接合部に、わずかな亀裂が走っている。
「この岩の隙間、人一人なら通れそうです」
第5シーズン末のメンテナンス期間。アルトが十二歳の時から、毎日通い詰めて少しずつ削り広げた穴だ。自然な崩落に見えるよう、何年もかけて慎重に加工してきた。
「危なくないか?」
ライルが心配そうに眉を寄せる。
「斥候の仕事です。中の状況を確認してきます」
アルトは笑顔を作った。あの日、鏡の前で何百回も練習し、涙で張り付かせた完璧な笑顔。
「……分かった。でも無理はするなよ」
ライルの許可が出た瞬間、アルトは岩の隙間に体を滑り込ませた。
狭い。岩肌が肩に食い込む。冷たい岩が体温を奪っていく。
無理やり体を押し込み、反対側へと転がり出る。
そこは、広大なドーム状の空間だった。
床も壁も氷で覆われ、中央には巨大な氷柱が林立している。床には小さな傷がある。自然な風化に見えるよう、慎重につけた傷だ。この傷を目印にライルを誘導すれば、ゴーレムを氷柱の真下に追い込める。
そして最奥には、青白く光る人影――『氷結の魔獣(フロストゴーレム)』が鎮座していた。
身長三メートル。全身が氷の鎧。今は休眠状態だ。
アルトの視界に、赤い枠が表示されている。カメラの視界だ。
今、枠の中心にいるのは扉の向こうの勇者。つまり、俺は今、死角にいる。
心臓が跳ねる。
やることは二つ。
一つ目、通気口の弁を閉じる。
二つ目、ゴーレムのコアを傷つける。
時間は五分。それ以上遅れれば、ライルが心配して突入してくる。
アルトは天井付近を見上げる。
この部屋には六つの通気口があった。五つはすでに「擬態粘土」で完全に塞いである。残る最後の一つ。
六年前に仕込んでおいた、開閉可能な「弁(バルブ)」。
アルトは壁をよじ登り、手を伸ばす。弁のレバーに、震える指をかけた。
引く。
ギギッ、という錆びついた金属音が響き、弁が閉じる。
これで、この広大な空間は完全な「密閉容器(圧力鍋)」になった。
次だ。
アルトは岩陰に身を潜め、ゴーレムを観察する。
胸の中央、氷の鎧の奥で青白く光る球体。あれがコアだ。
距離は二十メートル。近づきすぎれば目を覚ます。
呼吸を整える。懐から取り出したのは、子供の玩具のような「パチンコ(スリングショット)」と、親指大の鉄球だ。
これはただの玩具ではない。六年間、毎日欠かさず練習してきた凶器だ。
足音を殺して近づく。十五メートル。十二メートル。十メートル。
ゴーレムの目が、かすかに明滅した。
気づかれた。
今だ。
アルトはパチンコのゴムを限界まで引き絞った。指が白くなる。
放つ。
ヒュッ、という風切り音。
鉄球は吸い込まれるように飛び、ゴーレムの胸部コアに直撃した。
ガチンッ。
硬質な音が響き、コアに微細な、しかし決定的なヒビが入る。
その瞬間、ゴーレムが覚醒した。
咆哮。空気が震える。
巨大な腕が持ち上がり、アルト目掛けて振り下ろされた。
死ぬ。
本能が警鐘を鳴らす。アルトは全力で地面を蹴った。
背後で轟音が響く。氷の破片が散弾のように背中に突き刺さる。痛い。熱い。
岩の隙間に向かって全力疾走。ゴーレムの拳が壁を砕く。
間に合え。
体を隙間に滑り込ませる。肩の皮が擦り剥けるのも構わず、泥のように這い出る。
「アルト!? すごい音がしたが、大丈夫か!?」
ライルが駆け寄ってくる。
「だ、大丈夫です……! ゴーレムが動き出しただけです!」
アルトは激しく咳き込みながら、同接カウンターを見た。
『5,987人』
まだ減っている。五千人のデッドラインまで、あと千人を切った。
「敵は……フロストゴーレムです。胸の中央にコアがあります。そこが弱点かと」
息も絶え絶えに告げる。
魔法使いのエリナが、不思議そうにこちらを見た。
「アルトさん、なぜそこまで分かるんですか?」
一瞬、心臓が凍りついた。
「偵察中に、コアが光っているのが見えました。……急ぎましょう、扉を開けます」
アルトは扉のロックを解除する。
重い氷の扉が開くと同時に、暴走状態のゴーレムが咆哮を上げた。
4
戦闘が始まった。
だが、それはアルトが望んだ「泥臭い死闘」にはならなかった。
「……遅い」
ライルが呟く。
ゴーレムの剛腕が振り下ろされる。岩をも砕く一撃がライルの頭蓋を狙う。
しかしライルは、髪の毛一本分の最小動作でそれを回避した。風圧だけが彼の金髪を揺らし、凶器は空しく空を切る。
『自動戦闘(オートモード)』。
勇者ライルに備わったそのスキルは、敵を視認した瞬間、脳の判断を介さず肉体を「最適解」で駆動させる。AIが弾き出した最短ルートをなぞるだけの、完璧で、退屈な処刑。
回避と同時、流れるような動作で放たれた一閃が、魔獣の関節部を正確に貫く。
ズパンッ、と乾いた音が響き、魔獣の腕が千切れ飛ぶ。
完璧すぎる。強すぎる。
これでは、視聴者が感情移入する隙間がない。
コメント欄が加速する。
『はいはいワンパン』
『避ける動作すら最小限すぎて地味』
『もっと叫んだりしろよ。人形か?』
『飽きた。他のチャンネル行くわ』
『作業ゲー乙』
同接数が音を立てて崩れ落ちる。
『5,323人』
あと三百人。
たった三百人が「戻る」ボタンを押せば、この世界は終わる。
アルトの胃がキリキリと悲鳴を上げた。指先の感覚がない。心臓の鼓動がうるさすぎて、周囲の音が聞こえなくなりそうだ。
殺せ。
魔獣を殺すのではない。この「退屈」を殺すのだ。
六年前から準備してきた、あの仕掛けを使う時だ。
「ライルッ!!」
アルトは岩陰から飛び出し、裂帛の気合で叫んだ。
「物理攻撃ではジリ貧です! 再生される前にコアを焼き尽くすしかありません!」
真っ赤な嘘だ。再生など始まっていない。今のままでもライルは三十秒後に無傷で勝利する。
だが、その「嘘」は、オートモードというAIにとっての「新規情報(コマンド)」となる。
「弱点は炎です! 最大火力で、一気に焼き払ってください!!」
ライルが反応した。オートモードの思考回路が切り替わるのが見えるようだ。
「わかった! 炎よ、敵を焼き尽くせ――『フレイムバースト』!」
ライルの掌から、直径二メートルの巨大な火球が放たれた。
氷の魔獣に炎魔法。ゲーム的な相性は抜群だ。
だが、ここはゲームではない。物理法則が支配する現実だ。
カッ、ッッ!!!!
音が、消えた。
あまりの衝撃に、聴覚が飽和したのだ。
数千度の業火が、密閉された部屋中の氷を一瞬で飲み込んだ。液体を経由する暇すらない。大量の氷塊が、瞬時にして気体(水蒸気)へと相転移する。
水が水蒸気になると、その体積は約千七百倍に膨れ上がる。
行き場を失った超高圧の気体が、逃げ場のない密閉空間の中で暴れ狂う。
水蒸気爆発。
視界が真っ白に染まった。
衝撃波が壁を叩き、天井を揺らし、そして爆心地に最も近い存在――術者であるライル自身を襲った。
「が、ぁっ!?」
無敵の勇者が、ゴミ屑のように吹き飛ばされた。
オートモードは「敵からの攻撃」は回避する。だが、「自分自身が引き起こした環境変化」までは計算に入っていない。
ライルの体が放物線を描き、岩盤に叩きつけられる。
受け身すら取れていない。
ドシャッ、と鈍く重い音が響き、ライルが血を吐いた。
静寂。そして、遅れてやってくる熱波。
アルトは岩陰で衝撃をやり過ごしながら、薄目を開けて「画面」を見た。
凍りついていたコメント欄が、爆発した。
『!?』
『えっ!?』
『は? 自爆!?』
『勇者がダメージ受けた!?』
『ライルが!?』
『やっと面白くなってきた』
右上の数字が、やっと上がってくれた。
『5,323 → 5,800 → 6,200 → 6,700人』
だが、まだ終わらない。
部屋は蒸気で視界ゼロ。床の氷も溶けて、足元は水浸しだ。
白煙の向こうで、外装が溶け落ちたゴーレムが立ち上がった。骨格が剥き出しになり、コアのヒビが赤く明滅している。
暴走状態。
「視界が……! 敵が見えない……!」
ライルが叫ぶ。彼のスキル『自動戦闘(オートモード)』は、敵を視界に入れている間しか機能しない。
アルトは即座に判断した。
「エリナ! 風魔法で蒸気を吹き飛ばせ!」
エリナは一瞬、戸惑った。だが、今は考えている場合じゃない。
杖を構える。
「――『ウィンドブラスト』!」
強風が部屋を吹き抜ける。水蒸気が吹き飛ばされ、視界が戻る。
その瞬間、アルトの目に飛び込んできたのは、よろりと立ち上がるライルの姿だった。
黄金の鎧は胸部が大きくひしゃげ、額から流れ落ちた血が左目を塞いでいる。足元はふらつき、呼吸はヒューヒューと笛のように鳴っている。
明らかに重傷だ。本来なら動けるはずがない。
だが、ライルは剣を杖にして、無理やり体を起こした。
その目は、虚ろな『オートモード』の光ではない。苦痛に歪みながらも、仲間を守ろうとする「人間」の強い意志が宿っていた。
オートモードが解除されたのだ。ダメージが大きすぎて、システムがエラーを吐いたのかもしれない。
泥臭く、無様で、けれど痛々しいほどに格好いい勇者の姿。
「エリナ、ナイス! アルトも!」
ライルが立ち上がり、再度自動戦闘を発動しようとする。
ゴーレムが襲いかかる。速いが、動きは読める。コアを守る姿勢を崩さない。
拳が振り下ろされる。
ライルが避ける。いや、拳が氷で膨張している。
予想より拳が大きいため、完全には避けきれない。ライルの肩を掠める。
「ぐっ……!」
ライルが吹き飛ばされる。
そこをゴーレムが追撃する。
「させるか!」
ガルドが突進してきた。盾でゴーレムの腕を受け止める。
衝撃。盾にヒビが入る。
「っ……重……!」
ガルドが吹き飛ばされる。壁に激突する。
「ガルド!」
エリナが叫ぶ。
ゴーレムがライルに向き直る。ライルはまだ立ち上がれない。
拳が振り下ろされる。
エリナが詠唱。
「風よ、守れ――『ウィンドウォール』!」
ライルの前に風の壁が展開される。ゴーレムの拳が壁に当たる。風の壁が砕ける。
が、十分だ。その一瞬の間にライルは横に転がった。
ゴーレムの拳が地面を叩く。衝撃。部屋が揺れる。
ギシギシという音。
天井の氷柱が、揺れる。
来る。
アルトは叫んだ。
「ライル、左前方へ!」
ライルが左前方へ移動する。事前に計算した位置へ。
ゴーレムが後退する。ライルから距離を取ろうとしている。防御本能だ。
そして、その後退先は――氷柱の真下だ。
ライルの立ち位置を指示することで、ゴーレムの後退方向を氷柱の真下に誘導した。
メキメキメキッ!
氷柱がゴーレムに迫る。
そしてライルも巻き込む。
「ライル、離れろ!」
俺が叫んだ。
ライルが後ろに跳ぶ。
だが、遅い。
氷柱がゴーレムに激突する。砕け散る。氷柱の破片がライルに降り注ぐ。
「避けられない……!」
ガルドが叫ぶ。
「ライルッッ!」
ガルドが立ち上がり、全力で走る。しかし、届かない。
「ッッッ!!」
ライルが自動制御で柱をいなそうとする。だが、オートモードは完全には機能していない。ダメージが大きすぎて、システムがエラーを吐いているのだ。
巨大な氷塊がライルの背中を直撃した。
「がはっ!」
ライルが地面に叩きつけられる。血を吐く。
コメント欄が爆発する。
『やばすぎ』
『これやばい』
『全滅するんじゃ』
『パーティ戦いいね』
『本気の戦闘初めて見た』
同接数が急上昇している。
『7,400 → 8,200 → 8,800人』
視聴者は苦戦を見たいのだ。
よし。うまくいっている。
だが、このままではライルが死ぬ。それでは意味がない。
氷柱をモロに食らったゴーレムが倒れる。コアが剥き出しになる。
ライルがゴーレムに斬りかかる。剣がコアに当たる。だが、弾かれる。
「何……!?」
ライルが目を凝らす。コアが、新しい氷で覆われている。
「コアを守ってる! 氷が邪魔で壊せない……!」
エリナが叫ぶ。
「氷を溶かさないと、コアに届きません!」
「くそっ、でも炎魔法を撃てば……!」
ライルが迷う。また爆発するかもしれない。仲間を危険に晒すかもしれない。
ガルドも言う。
「爆発はもう勘弁だぜ……」
ここだ。ダメ押しの一手が要る。
アルトは叫んだ。
「ライル様、剣に炎をまとわせるんです!」
ライルの動きが、ピタリと止まった。
血に濡れた顔で、呆然とアルトを見る。
「……剣に、炎?」
彼の中に、その発想はない。
オートモードは「既存スキルの最適解」を選ぶシステムだ。魔力消費効率の悪い「剣技と魔法の同時発動(マルチタスク)」など、ライルの脳内データベースには存在しない「非効率」な戦法なのだ。
だからこそ、ライルは戸惑っていた。システムが推奨しない行動を、どうすればいいのか分からない。
「意識して制御してください!」
アルトは畳み掛けるように叫んだ。
「オートモードの判断を捨てて、自分で魔力を流し込むんです! あなたならできる!」
これは、六年前の研究の成果だ。第5シーズンの勇者が使っていた技術。システム外の「マニュアル操作」なら可能なはずだ。
ライルが歯を食いしばった。
「……くそっ、動け!」
彼が自身の体に命令を下す。システムへの抵抗。
剣に炎が宿る。赤く燃える刃。
不格好な、しかし熱量を孕んだ炎。
ライルが跳んだ。オートモードのような流麗さはない。泥にまみれ、痛みに顔を歪めながらの特攻。
ゴーレムの懐に潜り込み、炎を纏った一撃を突き出す。
「はあああああああ!!」
突き出した剣がコアへと沈む。
ジュウウウ……ッ、と氷が溶ける音と共に、剣身がコアごと魔獣を貫いた。
そのまま崩れ落ちる。
コメント欄が、熱狂で埋め尽くされる。
『剣に炎まとわせるの賢い』
『アルト有能すぎ』
『神回確定』
『これだよ! こういうのが見たかったんだよ!』
同接カウンターは『9,300人』を指していた。
アルトは、熱風で乾いた喉で、ヒュッと息を吸い込んだ。
勝った。
世界を、繋ぎ止めた。
……友人の血と引き換えに。
5
氷結ダンジョンからの帰路は、安堵の熱気に包まれていた。
ボロボロになったライルを肩で支えながら、アルトは歩く。鼻孔には焦げた布の臭いと、鉄錆のような血の臭いがこびりついて離れない。
「すまない、アルト。お前の助言がなければ全滅していた」
ライルが、煤けた顔で屈託のない笑みを向けてくる。腫れ上がった瞼の奥にある瞳は、純度100パーセントの信頼と感謝だけだ。
アルトの胃袋が、ぎゅっと縮み上がった。
殴られるよりも、罵られるよりも、その純粋な感謝こそが、アルトの内臓を抉る鋭利な刃だった。
「……いえ。咄嗟にあれだけの火力を出せた、勇者様の実力ですよ」
アルトは口元を引きつらせて、完璧な「従者の笑み」を返した。
嘘だ。全部、俺が仕組んだことだ。お前を自爆させ、傷つけ、見世物にしたのは俺だ。
「……アルトさん」
不意に、背後から声をかけられた。
エリナだった。
彼女の視線は、アルトの顔ではなく、その手元に釘付けになっていた。
「手、怪我していますね」
アルトは反射的に手を隠そうとしたが、遅かった。岩の隙間を通る際に擦りむいた傷と、何より――パチンコのゴムを何千回、何万回と引き絞って固くなった、人差し指と親指の分厚いタコ。
そして袖口には、通気口の細工をした際に付着した、黒い煤汚れがこびりついている。
「大丈夫です。岩に擦っただけですから」
「そうですか。……ところで」
エリナの声のトーンが、下がった気がした。
「なぜ、剣に炎をまとわせる方法を知っていたんですか? それに、自動制御スキルの細かい仕様まで……斥候が知っているような知識ではありませんわ」
心臓が跳ねる。
彼女の瞳には、明確な「疑念」が宿っていた。嫉妬ではない。もっと冷たく、論理的な問い詰め。
「どこかで学んだの? それとも……」
アルトは笑顔を崩さなかった。だが、背中は冷や汗で濡れていた。
「召喚された勇者の情報は、ギルドで公開されています。斥候として、勇者様のスキルを調べるのは当然かと。それに爆発は……以前、本で読んだことがあったので」
「……本?」
エリナの視線が、再びアルトの指先へと落ちる。
その目は雄弁に語っていた。
使い込まれた指のタコ。煤けた袖口。それは、机上の空論ではなく、泥臭い「現場」で手を汚してきた何よりの証拠。
エリナは数秒間、沈黙したままアルトを見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……そうですか。ありがとうございました」
彼女は引き下がった。だが、その瞳の奥の疑念は消えていない。
種は撒かれてしまった。彼女はもう、アルトを「ただの従者」としては見ていない。
6
夜。宿屋の個室に戻ると、アルトは音を立てないようにドアの鍵を閉め、窓のカーテンを隙間なく閉めた。ここからは、誰にも見せてはいけない「楽屋裏」の時間だ。
視界の右上に浮かぶ数字は、今は消灯され、静かなグレーになっている。今日の配信は終わったのだ。
アルトは、嵌めていた革手袋をゆっくりと外した。
月明かりに照らされたその両手は、一六歳の少年のものとは思えないほど、醜く荒れ果てていた。
指先には、凍傷で壊死しかけたどす黒い痕。
手の甲には、無数の切り傷と、薬品で焼けただれたケロイド状の皮膚。
掌には、岩を削り、土を掘り返し続けたことで固くなった、幾層もの分厚いマメ。
これが、俺の六年間だ。
勇者ライルが召喚されるまでの、あの長い長い「メンテナンス期間(冬の時代)」。
世界が停止し、人々が希望を失ってうずくまっている間、アルトだけが動いていた。
たった一人で、暗いダンジョンに潜り続けた。あの通気口を塞ぐために、氷点下の洞窟で、震える手で冷たい粘土を穴を埋め続けた。魔物に見つからないよう自分の排泄物を体に塗りたくり、息を殺して岩陰に隠れた夜もあった。
誰も見ていない。誰も褒めてくれない。
ただ、「次の勇者が来た時、ここを最高の舞台にする」ためだけに費やした、準備期間。
ズキリ、と古傷が疼く。今日の爆発で開いた傷口から、血が滲んでいる。
アルトは痛み止めも飲まず、ただその痛みを噛み締めた。
この痛みだけが、俺が「世界を守った」という唯一の証拠だ。
アルトは窓辺へ歩み寄った。
カーテンを少しだけ開け、夜空を見上げる。そこには、六年前と同じ、静かで冷たい月が浮かんでいた。
「……母さん」
声に出すと、涙が溢れそうになった。
あの日の母は、もういない。データとして削除され、この世界のどこにも存在しない。
けれど、俺は生き残った。そして今日、世界を「削除」から守り抜いた。
だが、これは始まりに過ぎない。
同接数は一万八千人。安全圏には程遠い。明日になれば、また一五パーセントの視聴者が「飽きた」と言って去っていくだろう。
もっと過激に。もっと残酷に。もっとドラマチックに。
勇者を、魔王を、そして世界そのものを「演出」し続けなければならない。
コメント欄の隅に流れた言葉が、脳裏に焼き付いている。
『次もこのレベルじゃないと見ないかも』
『期待値上がったな』
視聴者の期待値が上がった。つまり、次も同じレベルの「苦戦」を見せなければならない。
次はもっと危険な工作が必要になる。ライルを、もっと追い詰めなければならない。
ガルドの盾は完全に壊れた。新しい盾を買うまで、ガルドの防御力は落ちる。次の工作に影響が出るかもしれない。
そして、エリナだ。
おそらく、疑われている。
「なぜオートモードの仕組みを知っていたのか」「なぜ剣に炎をまとわせる方法を知っていたのか」
彼女の疑念は、確実に深まっている。
次は、もっと慎重に工作しなければならない。
アルトは涙を拭い、再び手袋を嵌めた。
醜い傷跡を隠し、震える手を隠し、「完璧な従者」の仮面を被り直す。
「……まだ、終われない」
月に向かって、あるいは、空の向こうで見下ろしている「運営」に向かって、アルトは静かに宣戦布告した。
配信画面は見えなくとも、明日という名の「放送開始」へのカウントダウンは、すでに始まっているのだから。
その時、扉がノックされた。
「アルトさん、いますか?」
エリナの声だ。
俺は息を呑む。
打ち切り予定の異世界で、モブの俺だけが「配信画面」を見ている サンバ森下 @sanba_morishita
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