ノーザンライト・シンパシー ―ハノイの熱に刻む痕跡―
鎌倉小路
プロローグ
ベトナムの首都、ハノイの熱気は、音を少し太らせる。
バイクの波が通りを縫い、クラクションが合図のように重なる。
濃いコーヒーの匂いは、先にやって来る。
ベトナム社会主義共和国。
インドシナ半島の東部に位置する、東南アジアの一国。
人口は約一億人。平均年齢は三十一歳と、若い国である。
北部の首都、ハノイ。
中部のリゾート地、ダナン。
南部の商業都市、ホーチミン。
これらのベトナム三大都市圏は、日本でも有名であり、人気がある。
ベトナムの首都、ハノイの西に位置するズイタン通りには多くのIT企業が存在しており、誰が言い始めたのか、ハノイのシリコンバレーと言われている。
そのズイタン通りの日系オフショア開発会社に、駐在員として勤務する谷崎俊は、ビルの下を通り過ぎる車とバイクのクラクションを感じながら、帰宅ラッシュの時間を悟る。
それにしても、うるさい……
音に罪はないと分かっている。
けれども、耳は記憶のドアに指を掛ける。
日本の午後、薄い曇り。無責任な音が恋人ユキを奪った、と谷崎は信じている。
憎しみは薄い膜のように胸の奥に貼り付いて、ときどき思考の邪魔をする。
視線をモニターに戻す。
日本の本社が提供する、翻訳AIサービスに食べさせる「学習データ」の管理。これが谷崎の仕事の一つだ。ここ最近、この学習データに奇妙な違和感を覚えている。
それが気のせいなのか何なのか、もう少し確認しないと――
「タニザキさん、お先にしちゅれいします」
ゲーム開発案件のブリッジシステムエンジニア、ベトナム人のナムが声をかけてきた。
「あれ? ナムくんの案件って、進捗ヤバいんじゃない?」と谷崎は言うが、
「大丈夫ですよ、タニザキさん」ナムは目元をキリっとさせ、男前な表情でオフィスを後にする。
刹那的なベトナム人は、近い将来に発生する問題を、問題として認識しない。
彼らにとって問題とは、問題になって初めて問題になるのだ。
「……何かトラブルがあると、駐在員のオレが本社から怒られるんだけどね」
独り言のように呟く。ベトナム支店で稼働する各開発案件のマネジメントも、谷崎の重要な仕事だ。
日本とベトナムには、商習慣や文化・考え方の違いが当然のようにある。
どっちが偉いとかではなく、日本もベトナムも、双方が双方に対してもっと理解する努力をするべきだ。
ハノイに駐在して二年。
努力を重ねているが、それでもベトナム人に対する偏見は、心の根っこの部分で消えない。どうして、もっと未来を見据えた行動ができないんだ。
それだからユキは……と。
街の熱は人の温度でできている。偏見は、いつか剥がれる。音の重なりと、人の手で。谷崎はまだ知らない。この街で、その膜を一緒に剥がしてくれる人に、まもなく出会うことを。
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