甘く、薫る、ココナッツ

未来屋 環

暑い国には人を癒す力がある。

 ――その甘さが、ふわりとかおるものだから。



 『甘く、薫る、ココナッツ』/未来屋みくりや たまき



「――え、日本人?」


 思わずそうらしたあとで、慌てて口を押さえる。

 目の前の彼女はきょとんとした表情で俺を見ていた。

 無理もない、初対面の男にいきなりそんなことを言われてもリアクションに困るだろう。


 それも――日本人が全然いない街の片隅で。


「すみません、急に話しかけてしまって」


 素直に謝ると彼女はその整った顔を穏やかにゆるめて「いえ」と答える。

 案内された席に座りながらも俺の視線は彼女から離れない。

 そのネイビーの半袖から覗く肌は透き通るように白く、常夏とこなつの国の太陽をやわらかくかえしていた。


「オーダー?」


 死角からいきなり低い声で話しかけられ、俺は慌てて手元のメニューを見る。

 意味どころかどう読むのかすら想像もつかない文字の下、申し訳程度に書き込まれたアルファベットをながめながら目当ての品を無事発見した。

 メインとあわせてからからに渇いた喉を潤すためのコーラを指差すと、愛想あいそのかけらもない店員のおばさんが「カー」とうなずき離れていく。

 最低限の義務を済ませ前方の様子をうかがうと、彼女は涼しい顔で窓の外をながめていた。



 ――ここはタイ北部の街、チェンマイ。

 首都バンコクに次ぐ第二の都市であり、文化の中心地でありながら自然豊かで観光地としても人気らしい。

 一方で日本からの直行便は限られており、ここまで辿たどくにはアジアの主要空港からの乗換が必要だ。


 そんな街を訪れることになるなんて、半年前はまったく想像もしていなかった。

 寝耳に水の海外駐在は、同期が「もうすぐ彼女と結婚するんで」と断ったがゆえに俺まで回ってきた。

 こういうのは将来の幹部候補とかが選ばれるものだとばかり思っていたが、うちの会社も人材難なのかも知れない。

 

 そして赴任早々の俺を待ち受けていたのは4連休だった。

 タイは日本に比べて休みが少ないと事前に聞いていたので嬉しい驚きだ。

 さてどうやって過ごそうかと考えていたところ、日本人の上司、横須賀さんからゴルフに誘われた。


「他社の日本人駐在者たちも来るけど、神保じんぼうくんもどう?」


 昼飯を食べながらそう投げかけられ、俺は辛さに顔をしかめつつ思考を回転させる。


 ――というか、辛い。

 見覚えのない野菜と肉が炒められているが、唐辛子が効いているからか口の中が燃えるようだ。

 謎の調味料をばさばさかけて食べる同僚たちの様子に俺もいつか慣れるのかと不安をいだきつつ、乾いたタイ米で口の中を中和した。


「……神保くん?」


 ――そうだ、ゴルフ。

 どうせ今後の週末も駆り出されるのであれば、たまの連休くらい一人で過ごしたいと思うのはわがままだろうか。


「すみません、せっかくタイまで来たのでこの連休は一人旅しようと思ってまして」


 心持ち辛く染まった空気と共に、するりと口から出まかせが滑り出た。

 すると、横須賀さんが目をぱちぱちさせながら「おっ、いいね」と乗ってくる。

 更に隣にいた調達部の人に「どこ行くの?」と畳みかけられ肝を冷やしたところで、「プーケット……は一人だとないか、チェンマイとか?」という総務部の先輩の台詞せりふに助けられた。


「はい、そのチェンマイです」

「いいねぇ、僕も2年前に行ったよ」

「寺院巡りとか楽しいですよね。ワット・プラタート・ドーイステープすごいし」

「ナイトマーケットで食べたソムタムうまかったなぁ。あとイサーンソーセージ」

「そういえば今年はコムローイ誰か行くのかな」

「設計部の遠野が早々に休み宣言してますよ」


 3人が話している内容についてはまったく理解できないが、とりあえず良い所らしい。


「そうだ、神保くんカレー好き? チェンマイ行くなら本場のアレ食べておいでよ。すごくおいしいから!」

「……アレ、ですか?」


 諸々もろもろのアドバイスをもらったのち、俺は満を持してこの地に降り立ったのだった。



 そして横須賀さんのおすすめメニューを求め、街の中心部から歩くこと約20分――地図アプリの力を借りながらなんとかこの店まで辿り着いたというわけだ。

 小さな店の中を見渡せば客のほとんどがタイ人で、その隙間を縫うようにぽつりぽつりと観光客らしき外国人が座っている。

 そう、今俺の目の前にいる彼女のように。


 彼女の前には白く透き通った液体に満たされたグラスが置かれていた。

 その隣には緑色の皮の果物が描かれた缶がある。

 COCO――もしかして、ココナッツジュースだろうか。

 黒いストローを口にくわえる姿が色っぽい彼女のことを、俺は心の中でココさんと呼ぶことに決めた。


 そんなココさんを見つめる視線を断ち切るかのように、俺の前にコーラの瓶が置かれる。

 驚いて振り向くと店員のおばさんが無表情で立っていた。

 息つくもなく氷が入ったグラスも押し付けられたので、俺はおとなしくコーラを飲むことにする。


 ――うん、うまい。

 一つ不安なのはグラスに入った氷の安全性だが、ココさんも飲んでるし大丈夫だろう多分。


 そしていよいよその時はやってきた。


「カオソーイ」


 コーラよりは説明が必要だと思ったのか、おばさんがメニュー名を告げながら丼をココさんと俺の前に置く。

 途端とたんに異国の香りがふわりと広がった。


 カレーラーメンみたいなものだと聞いていた通り、そのスープはカレーそのものに見える。

 黄色く輝く麺の上に揚げた麺状のものが更に載せられ、そのてっぺんに小さな葉っぱがちょこんとたたずんでいた。

 そして存在感のある鶏肉が骨ごとスープにかっている。


 ……うまそうだ。

 直感的に思った。


「「いただきます」」


 想定外のハモリに思わず顔を見合わせる。

 ココさんの瞳は黒く透き通っていた。

 そしてその表情をやわらかにほころばせる。

 心拍数が上がるのを感じながら、俺も口許くちもとを緩めた。


 さて、気を取り直して申し訳程度のビニールに包まれた袋から木製の箸を取り出しつつ、まずはスープを一口。

 タイのカレーはどれだけ辛いのかと身構えていたが、意外にもまろやかな味だ。

 スパイシーさは多少感じられるものの、後味がほのかに甘い。

 そういえばココナッツミルクが入っていると横須賀さんが言ってたっけ。


 続けて平べったい麺をすする。

 見た目を裏切らないつるつるの卵麺だ。

 スープがよく絡み、すぐに次の一口が欲しくなる。

 揚げ麺もスープにひたしつつ食べ進めた。

 食感が変わってなんだか楽しい。


「はー、うま」


 そうつぶやくと、前方から「ふふっ」と声が聞こえた。

 慌てて視線を上げると、ココさんが楽しそうに微笑んでいる。


「すみません……あなたがすごくおいしそうに食べるから」


 初対面の女性に『あなた』と呼ばれ、俺の体温がぐんと上がった。

 ……いや、体温が上がった理由はそれだけじゃない。

 気付けば口の中がぴりぴりとしている。

 ココナッツミルク風味に騙されていたが……なんだこいつも十分辛いじゃないか。


「コーラ、飲んだ方がいいですよ」


 彼女のアドバイスに従いコーラをぐびりと飲むと、口の中が泡の刺激で上書きされた。

 果たして回復したかは怪しいところだが、気分はさっぱりしたので良しとしよう。

 そのかんにもココさんは大きな鶏肉を口に運んでいる。

 かぶりついているにもかかわらず上品に見えてしまうのは何故だろう。

 俺も彼女を見習い肉に噛み付くと、よく煮込まれているのかほろほろとほどけてうまい。


 ふと机の上に視線を向けると、いつの間におばさんが運んできたのか小皿が置かれていた。

 刻んだ紫玉ねぎに高菜漬けのようなもの、そして小ぶりで緑色の柑橘類かんきつるいが一切れ――薬味だろうか。

 そのすだちのような柑橘類をけ、他の薬味を丼の中に入れてみる。

 麺と一緒に啜り込むと、しゃくしゃくとした食感がアクセントになってまたうまさが増した。


 ふと前方を見ると、ココさんはすだち(仮)をスープに絞っている。

 どんな味になるのだろうと見つめていると、彼女が口を開く。


「これ、マナオ入れるとまた味がすっきりするんです」

「……マナオ?」

「ライムみたいなものです」

「なるほど、俺はてっきりすだちかと」

「あぁ、似てますよね」


 ココさんがそれこそ輝くような笑顔を見せるので、俺も自然と笑顔になった。

 マナオを絞ってみると食べ慣れてきたカオソーイがまたその表情を変える。

 確かにこれはハマりそうだ。


「カオソーイっておいしいですね。バンコクでも食べられるかな」

「バンコクにお住まいなんですか?」

「はい……あなたは?」


 使い慣れない『あなた』なんて言葉を勢いで口に乗せたが、ココさんはどこ吹く風で涼やかに微笑んだままだ。


「私もです。仕事で」

「実は僕、今月来たばかりなんです」

「あら、ほやほやですね」


 そんな風に食べながら会話を楽しんでいると「OK?」と背後から低い声が響く。

 慌てて振り返ると店員のおばさんが立っていた。

 のんびりしてないで早く食えということか――まぁ、この店の狭さでは仕方ない。


「コップンナカー」


 一足先に食べ終えたココさんが、おばさんにお金を渡して立ち上がる。


「それでは、またどこかで」

「あ、はい」


 颯爽さっそうと立ち去っていく彼女の後ろ姿を見つめつつスープを口に運ぶと、ココナッツの甘い後味が残った。


 ――あぁ、また逢えたりしないだろうか、なんて。



 ***



 翌日、半日観光のオプショナルツアーを申し込んでいた俺は、集合場所で思いがけないひとを見付けた。


「――え、ココさん?」


 思わずそうらしたあとで、慌てて口を押さえる。

 目の前の彼女はきょとんとした表情で俺を見ていた。

 無理もない、昨日逢ったばかりの男にいきなり謎の名前で呼ばれてもリアクションに困るだろう。


 それも――日本人が全然いない街の片隅で。


「すみません、急に話しかけてしまって」

「いえ……随分早い再会でしたね」


 そして彼女はいたずらっぽく微笑む。


「――ね、コーラさん」

「え」


 降り注ぐ陽光と共に、甘い笑顔がふわりと薫った。



(了)

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甘く、薫る、ココナッツ 未来屋 環 @tmk-mikuriya

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