因果の糸、断ち切り申す
クリヤ
序
大川の別れと百八つの魂
「……ハァハァ……。アタシは、もうダメです……。
主様だけでも逃げて……」
荒い息と切なげに自分を気遣う声が聞こえてくる。
繋いだ手は、ほどけそうになりながらも、かろうじて指だけで繋がっている。
いつもは温かく自分を慰める指が、今は氷のように冷たい。
「何を言ってやがるんでぃ!
俺ァ、紫乃が居なくちゃ! おめぇと居たくて逃げたってのに!」
「ハァハァ、……ふふふ」
「何か、おかしいってのかよ?」
「ハァハァ。いえ、嬉しくて。最期にそんなこと言ってもらえるなんて」
「最期だと? おめぇ、何を考えてやがる」
「……主様。逃げないのなら、共に、あの世に参っちゃくれませんか?」
「……本気か?」
「えぇ。今生じゃあ、結ばれぬ運命というのなら、せめて後生で。
そう願っちゃあ、いけませんか?」
「いや? むしろ俺ァ、ずっとそう願ってきたんだ。
だけどよ、おめぇは……」
「アタシは、ずっと羨ましかったんですよ。
主様と共に、あの世に行けるってぇ、おなごたちのことがね」
「そう……だったのかい?」
「ふふふ。あきれるでしょう? 今さら、そんなこと言うなんて」
「いや、いやいや! 俺ァ、嬉しいよ。おめぇとなら、今度こそ」
紫乃を追いかけてきた店の者が、大川にかかる橋の上で見つけたのは二足の草履。
ひとつは紺色の鼻緒の、もうひとつは紫色の花柄模様の鼻緒のもの。
二足の草履は、寄り添うように並べられていた。
「こりゃあ、紫乃の草履に違ぇねぇ」
「紫乃のやつ、飛び込んじまったのかよ?」
「こっから飛び込んだんじゃあ、命は無ぇだろうぜ」
「そうだろうなぁ、せめてあの世でってことだろうよ」
「だから、あの旦那にはハマっちゃいけねぇって言ったのによぅ」
「仕方ねぇ。惚れた腫れたは当座のうち、ってぇ言ってもな。
当人たちの耳には届かねぇのが、常ってもんよ」
「やれやれ、こちとら、主人にくどくど言われちまうってのに」
「そう言ってやるな。仏さんになっちまったもんを悪く言うもんじゃねぇ」
店の者たちは、ため息を吐いて、二足の草履を拾い上げる。
それを手に、大川から芳町へと元来た道を引き返す。
大川の上は、どこまでも続く分厚い雲に覆われていた。
その曇天を見て、行き交う人々も足早になっていく。
やがて、ポツリポツリと雨が降り出す。
額に当たった、その雫を手のひらで拭って、店の者のひとりが呟く。
「……紫乃の涙雨かも知れねぇな」
ふたりの恋物語は、互いの命と共に大川の流れに消えた。
……そのはずだった。
*****
「……おい、おいったら! いい加減、目を覚ましやがれぃ!」
(まったく、うるさいね。起こすなって言ってあるってのに)
いつもなら、使用人の姉やが優しく起こしてくれる。
卯之吉が起こすなと言えば、起こさずにいてくれる。
それなのに、今朝は、どうやらいつもと具合が違うようだ。
(いつもの姉やは、どうしちまったんだろう? こいつは、誰の声だい?)
ぶるぶると揺さぶられる振動とおっかない声に、渋々とまぶたを開く。
土の匂いとひんやりとした石のような感触。
(ここは、どこだい? やけに冷たいじゃないか)
い草の香りとふわふわの布団の感触が卯之吉を迎える。
それが、いつもの朝のはずだった。
「いつまで寝ぼけてやがる! さっさと立ち上がれってんだ」
耳に響く大声に、卯之吉は苛立つ。
(こちとら、昨夜は、芳町まで出掛けてんだ。疲れてるんだよぅ!)
そう言いたいのを堪えて、よっこらせと立ち上がる。
「やんややんやとうるさいね。一体、どなた様だい?」
そう言いながら、卯之吉は着物の裾をパンパンと払い伸ばす。
そして、己を起こした相手の顔を改めて見やった。
「はぁ? あんた、一体、誰だい? 着物をどうしちまったのさ?」
つい、礼を失する言葉が卯之吉の口から飛び出す。
卯之吉の前に立っていたのは、虎皮一枚を腰に巻いただけの男がひとり。
顔も腹も腕も、もちろん脚だって、真っ赤な色をした大男。
大男が卯之吉を見下ろすように、立っていた。
「おまえ、ワシが怖くはないのか?」
「怖い……? 酔っ払いの裸ん坊がかい?」
「誰が酔っ払いの裸ん坊だ。よ〜く見てみやがれ」
「よ〜く見ろって言われてもねぇ……」
寝ぼけ眼を、ぐぐぃっと無理やり広げるようにして卯之吉は男を見やる。
よくよく見ると、大男には猪の牙のようなものが口の端に付いている。
この国では珍しいモジャモジャと渦巻く髪の毛の隙間には、牛の角らしきもの。
「え〜っと、あんたさん、もしかしなくても鬼ってやつかい?」
「それに思い当たったんなら、少しは怯えるなりしたらどうだ?」
「怯えてるのを怯えるなってんならともかく、怯えろって言われてもねぇ」
「ったく、肝のふてぇ野郎だなぁ」
「ははは。それだけが取り柄でねぇ」
「ともかく目が開いたってんなら、ついて来い」
「どこに行くってのさ?」
「おまえを裁くかたのところさ」
「俺ァ、裁かれちまうのかい? 何か悪いことでもしたかねぇ?」
「ここに来てるってこたぁ、そういうことだろうよ」
「ここ? そういえば、ここって、どこなんだい?」
「周りを見渡してみな」
「周りったってよ? ここは、いつものお江戸の町に見えらぁ」
「そうか。おまえには、そう見えるか」
「おまえには、ってのはどういうことだい?」
「いちいちうるさい野郎だな。ほら、着いたぞ」
卯之吉が連れて来られたのは、町奉行所らしき場所だった。
今まで入ったこともない場所に引っ張って来られた卯之吉は、後じさる。
「おいおい……。やっぱり御番所かい。入んなきゃ駄目かい?」
「さっきまでの威勢はどうした?」
「だってよぉ。鬼なんてのは、現実味が無ぇから怖くもねぇがよ?
御番所は、いけねぇや。御番所の厄介にだけは、なっちゃいけねぇ」
「どうしてだ?」
「それが、俺の亡き母親の遺言でさぁ」
「おまえのお袋さんは、まだ生きてるじゃあないか」
「へへっ! そうだった、そうだった。それじゃあ、亡き父親の……」
「思いつきで喋るんじゃない。いいから、来い!」
猫のように首根っこを掴まれて、卯之吉は奉行所らしき建物へと入らされる。
噂に聞く『お白洲』とやらに座らされるのかと、卯之吉は覚悟を決める。
「ほら、着いたぞ。身なりを整えんか」
鬼に引きずられるように連れて来られる間、ぎゅっと瞑っていたまぶた。
恐る恐る引き開けて見れば、そこはただの座敷だった。
い草の香りに床の間の掛け軸。
よく磨かれた柱からは、ほのかに木の香りが漂う。
見覚えのある光景に、思わず声が出る。
「ここァ、おとっつぁんの……。そこに居るのは、おとっつぁんかい?」
その場所は、卯之吉の父親の座敷とそっくりそのまま同じだった。
「ほぅ。おまえには、私が父親に見えるようだな」
「見えるってどういうことだい? おとっつぁんじゃあ、ないか」
「私は、おまえの父親ではない。冥府の役人だ」
「冥府の……? それじゃあ、俺ァ、やっぱり死んじまったのか」
「何を今更。おまえは、確かに自分から命を落としただろう?」
「あ……、あぁ。俺ァ、俺ァ……。そうだ、そうだった。
それじゃあ、俺ァ、あの世ってのに行くのかい?」
「そうはいかぬ。おまえには、あの世の門は開けられぬ」
「どうしてだい? そうだ、俺ァ、あの世であいつを探さなくちゃ」
半刻後、冥府の役所から追い出された卯之吉は、途方に暮れていた。
すっかりと身なりを整えられ、肩の上には一匹の妖かしが留まっている。
「百八つの魂だなんてよぅ……」
トボトボと歩き出した卯之吉の言葉は、ただ風にさらわれていく。
肩の上の妖かしの瞳が、キラリと光ったのを卯之吉は知らない。
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