帝国最凶の悪女と、救国の聖女が現代日本に転生した結果――六畳一間のアパートで、税込146円のアイスを分け合って生きることになりました。

駄駄駄(ダダダ)

第1話:アリアとシエルの聖戦

 審判の鐘が、王宮の尖塔から重く、絶望的な音色を放っていた。


 大理石の床は冷たく、磨き上げられたその表面には、取り囲む衛兵たちの槍の穂先が、無数の針のように反射している。


 中央に立つのは、アリア・フォン・ベルシュタイン。かつては帝国の薔薇と謳われ、その微笑ひとつで騎士たちが命を投げ出した「悪女」である。そしてその傍ら、アリアの指に自身の指を絡めるようにして寄り添うのは、国の宝と崇められた「聖女」シエルだった。


「……アリア! 貴様、どれほどこの俺の顔に泥を塗れば気が済むのだ!」


 玉座の前で激昂しているのは、第一王子、エドワード。


 彼の喉は怒りで引き攣り、その美しいはずの顔は醜く歪んでいる。彼が怒っているのは、婚約者であるアリアが政治的な裏切りをしたからではない。あるいは、聖女であるシエルが神殿を捨てたからでもない。


 ただ、この二人の少女が、自分の存在など最初から視界に入っていないかのように、互いだけを見つめ、慈しみ合っている。その「自分への完全な無関心」が、彼の歪んだプライドを耐え難いほどに抉ったのだ。


「女同士の不潔な情愛……。反吐が出る。聖女よ、今ならまだ許してやる。その悪女の手を放し、俺の足元に跪け。さすれば、お前だけは清浄なる神殿に戻してやろう」


 シエルは、返事の代わりに、アリアの手を握る力を強めた。


 シエルの瞳は、いつも通りどこか虚ろで、ダウナーな光を宿している。神の声を聴くために透明化した彼女の感性は、目の前の権力者が吐き出す「欲望」の臭いに、ひどく辟易としていた。


「……うるさい。アリア、この人、声が大きくて耳が痛い」


 シエルの呟きは、静寂に包まれた広間に、残酷なほどはっきりと響いた。


 アリアは、耐えきれずに吹き出した。彼女の赤い唇が、傲慢な弧を描く。


「ふふ、聞こえた? エドワード殿下。貴方の愛の囁きは、この子の耳には雑音でしかないのよ。私を悪女と呼ぶなら、勝手になさい。でもね、あんたのような脂ぎった男の隣に座るくらいなら、私はこの子と一緒に、世界の果てで野垂れ死ぬ方が何倍もマシなの」


「――死ね! 今すぐこの不浄なる者たちを、次元の狭間に叩き込め!」


 王子の絶叫と共に、足元の魔方陣が血のような赤色に染まる。


 禁忌の追放魔術。二度とこの世界に戻ることは叶わない、生きたままの葬送。


 その光が視界を白く染め上げる直前、一人の青年がアリアの視界を横切った。


 実の弟、アルフォンス。


 姉を断罪する側に回り、冷徹な仮面を被っていたはずの彼が、一瞬だけ、悲鳴のような表情を見せた。


『……姉上! 鞄の底に、最後の贈り物を入れました! そこで、どうか、人間として生きてください……!』


 その声を最後に、アリアの意識は暗転し、重力は消失した。



 ◇◆◇



 意識が戻ったとき、アリアが最初に感じたのは、喉を焼くような不快な煙の臭いだった。


 そして、鼓膜を打つ、規則的で暴力的な機械の音。


「……っ、げほっ、ごほっ……!」


 目を開けると、そこには見たこともない「灰色の世界」が広がっていた。


 空を隠すほどにたなびく、巨大な煙突からの煙。錆びついたクレーンが、まるで巨大な怪物の死骸のように港に並んでいる。足元のアスファルトは雨に濡れ、油の混じった水溜りが虹色に濁っていた。


 ここが、弟が用意した「終焉の地」だった。


 そしてアルフォンスから手渡された鞄には、二人の身分証が一式と部屋の鍵。


 それから数週間。


 かつての悪女アリアは、日本の片隅、寂れた工場地帯の住人となっていた。


 冬の夕暮れ。


 アリアは、交通整理のバイトを終え、重い足取りで歩道橋を渡っていた。


 体は芯まで冷え切り、安物の作業着の隙間から入り込む潮風が、汗で湿った肌を容赦なく抉る。一日中、巨大なトラックに罵声を浴びせられながら旗を振り続けた右腕は、もはや自分の体ではないように重い。


(……一万、千、三百円)


 今日一日、屈辱に耐え、見知らぬ他人に頭を下げ続けて手に入れた、日払いの給与。


 帝国にいた頃なら、靴一足すら買えない端金だ。けれど今の彼女にとって、この一万円札の重みは、かつて動かした国家予算よりも重い。


 アリアは駅前のスーパーに立ち寄った。


 店内は、仕事帰りの疲れ切った人々で溢れている。誰もが死んだような魚の目で、割引シールの貼られた惣菜を奪い合っている。その光景は、ある意味で、かつての戦場よりも残酷だった。


 アリアの目的は、冷凍コーナーの隅にある。


 130円のバニラアイス。


 昨日、シエルが「……あれ、美味しそう」と、ぼんやり指差していたものだ。


(二つ、買わなきゃ。シエルの分と、私の分)


 カゴに入れようとして、アリアはポケットの中の小銭を数えた。


 家賃の支払い、光熱費、そして明日までの食費。弟が用意した戸籍とアパートはあっても、生活を維持するのは、想像を絶する「聖戦」だった。


 二つで260円。


 だが、今のアリアの手元には、生活費を差し引くと、210円しか余裕がなかった。


「……あと、50円。たったの、50円……」


 アリアは唇を噛んだ。


 かつて、金貨の山を枕に眠っていた女が、たった50円の不足に絶望している。


 アイスのカップを持つ手が、寒さと情けなさで小刻みに震えた。


 結局、彼女はカップを一つだけ、棚に残した。



 ◇◆◇



 スーパーを出ると、街灯がチカチカと不吉な瞬きを繰り返していた。


 アリアは、一つだけ買ったアイスを、大切な宝物のように胸に抱えて歩く。


 その時だった。


 道端に置かれた、古びた自動販売機の下。


 街灯の光を反射して、銀色に輝く円盤が、アリアの目に飛び込んできた。


 アリアは、獲物を見つけた猛獣のような速さで、その場に屈み込んだ。


 指先を自販機の下に突っ込み、埃と油にまみれながら、それを引き出す。


「……100円玉」


 それは、彼女が切望していた、まさにその金額だった。


 これがあれば。


 今すぐスーパーに引き返せば、もう一つのアイスが手に入る。


 そうすれば、シエルと一緒に、笑顔で夜を過ごせる。


 誰が見ているわけでもない。これは「悪女」としての正当な略奪であり、幸運の女神が自分に授けた微笑みだ。


(拾いなさい、アリア。あんたは悪女でしょう? 奪い、欺き、生き抜くのがあんたの生き様じゃない)


 胃袋が、ギュルルと醜く鳴った。


 最後に口にしたのは、今朝、シエルが「……これ、美味しいらしいよ」と半分こにしてくれた、値引きされたスティックパン一本だけ。


 100円あれば、アイスどころか、自分用の見切り品のパンも買える。


 だが。


 その硬貨を握りしめたとき、アリアの脳裏に、あの傲慢な王子の顔が浮かんだ。


『女同士の不潔な情愛……。反吐が出る』


 あの時、自分たちは誇りを持って世界を捨てたはずだ。


 もしここで、落ちていた100円を盗むような真似をすれば。


 自分は、あの王子が言った通りの「卑しい女」に成り下がってしまうのではないか。


「……馬鹿げてる。本当に、馬鹿げてるわ」


 アリアは、自嘲気味に笑った。


 そして彼女は、スーパーとは逆の方向――赤灯の灯る、小さな交番へと歩き出した。


 交番の中には、疲れ果てた中年の警察官が一人。


 アリアは、泥のついた100円玉を、机の上にこれ以上なく不遜な態度で叩きつけた。


「……これ、落とし物よ。早く処理なさい。私は忙しいの」


 警察官は、驚いたようにアリアを見た。ボロボロの作業着を着た、赤い髪の絶世の美少女が、100円玉を届けに来たのだ。


「あ、ああ……。名前は? 権利は放棄するかい?」


「アリアよ。……いえ、佐倉有亜。権利なんていらないわ。そんな端金で、私の時間を買えると思わないことね」


 吐き捨てるように言って、彼女は交番を飛び出した。


 夜の潮風が、火照った頬を撫でる。


 腹は空いたままだ。けれど、彼女の背筋は、かつて帝国の晩餐会で大広間を歩いた時よりも、鋭く、高く、伸びていた。



 ◇◆◇



 アパート「潮風荘」は、海のすぐそばに建っている。


 波の音が、不快な耳鳴りのように壁を抜けて響く。


 アリアは、錆びついた階段を上り、203号室のドアを開けた。


「……ただいま」


 部屋は暗かった。


 唯一の光源は、窓から差し込む工場の夜景の光だけ。


 畳の上には、シエルがコンビニの制服を着たまま、膝を抱えて座っていた。  シエルは、アリアの足音を聞くと、ゆっくりと顔を上げた。


「……おかえり、アリア。……遅い。何かあったの?」


「……別に。少し、寄る所があっただけよ」


 アリアは、冷たくなったレジ袋を、無造作に机の上に置いた。


 中から現れたのは、一つだけのバニラアイス。


「ほら、これ食べなさい。あんた、昨日これがいいって言ってたじゃない」


「……アリアの分は?」


 シエルの問いに、アリアはわざと大きく溜息をついた。


「私は、もう食べてきたわよ。現場の班長が、仕事が早いからって、もっと高級な……そう、金箔の乗ったパフェをご馳走してくれたの。だから、お腹いっぱい。それはあんたが一人で食べなさい」


 嘘だ。


 そんなパフェはこの街のどこにもない。


 シエルは、しばし無言でアイスを見つめていた。


 彼女には、わかっている。


 アリアの作業着の袖が、自販機の下を弄ったせいで黒く汚れていることも。


 アリアの胃袋が、今にも泣き出しそうな音を立てていることも。


「……そっか。アリア、ずるい。私だけ、安いやつ」


 シエルは、ぼんやりとした口調で言いながら、アイスの蓋を開けた。


 プラスチックのスプーンで、真っ白な氷を掬い取る。


 一口、二口。


 シエルの喉が、小さく動く。


 そして彼女は、半分ほど残したところで、スプーンを止めた。


「……アリア。私、これ、もういらない」


「はあ? あんた、贅沢言わないでよ。130円もしたのよ、それ」


「……私、こっちの世界に来てから、体質が変わったみたい。……ミルクでお腹壊すタチでね。もう、限界。……アリア、食べて?」


 シエルは、ダウナーな瞳を逸らし、カップをアリアの方へと押しやった。


 アリアは、目を見開いた。


「あんた……何を寝ぼけてるの。元の世界じゃ、神殿の朝食で、新鮮なミルクをガブガブ飲んでたじゃないの! 聖女の祈りを捧げる前に、三杯はおかわりしてた、あの食欲はどうしたのよ!」


「……それは、神様の加護。今は、ただの人間。……ミルク、怖い。だから、お願い。食べてくれないと、私、お腹痛くて夜勤に行けない」


 嘘だ。


 シエルの体質が変わってないなんて、アリアにもわかっている。


 これは、不器用な聖女がつく、この上なく優しい「嘘」だ。


 アリアの視界が、微かに滲んだ。


 彼女は、シエルの使いかけのスプーンを奪い取るようにして握った。


「……全く、世話の焼ける聖女様ね! あんたがそこまで言うなら、この私が処分してあげるわよ!」


 アリアは、残されたアイスを口に運んだ。


 冷たい。


 そして、驚くほど、甘かった。


 安っぽい香料の匂いが、鼻の奥を抜ける。


 溶けた液体が、空っぽの胃に染み渡り、内側から体を温めていく。


 シエルは、アリアがアイスを食べる様子を、じっと見つめていた。


「……アリア。美味しい?」


「……不味いわよ。こんなの、帝国じゃ豚の餌にもならないわ」


 アリアは、顔を背けた。


 頬を伝いそうになる何かを、作業着の袖で乱暴に拭う。


 そして、小さな、震える声で付け加えた。


「…………ありがと」


 シエルは、小さく口角を上げた。


 それは、どの神像よりも美しく、慈愛に満ちた微笑みだった。


「……うん」


 シエルは立ち上がり、安物の鞄を肩にかけた。


 これから、彼女の「聖戦」――深夜のコンビニ夜勤が始まる。


 シエルを見送り、アリアは一人、暗い部屋で窓の外を見つめた。


 工場の煙が、月を隠している。


 けれど、アリアの胸の中には、確かな熱が宿っていた。


「見てなさい、アル。……私は、私たちは、絶対に屈しない」


 かつての悪女は、誰もいない部屋で、静かに、けれど力強く宣言した。


 六畳一間の王宮。


 130円のアイス。


 そして、嘘で結ばれた、絶対の絆。


 アリアとシエルの、泥臭くも気高い物語は、まだ始まったばかりだ。


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2026年1月1日 18:03

帝国最凶の悪女と、救国の聖女が現代日本に転生した結果――六畳一間のアパートで、税込146円のアイスを分け合って生きることになりました。 駄駄駄(ダダダ) @dadada_dayo

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