化物
つまらない。
退屈のあまりそんな呟きが出そうだったが、クローバーはしかし、それをおくびにも出さなかった。
時速はおよそ90キロ。今日もベッケンディアの空は曇っている。
学園の広大な敷地内に設けられた箒レース場の空中には、木製の魔脈感応リングがいくつも浮かんでいる。
レーサーたちに〈フープ〉と呼ばれているそれをクローバーが潜り抜ける度に、木製のリングが青白く発光する。レーサーたちの体を巡る魔脈に反応して光ることによって、彼女たちが適切にチェックポイントを通過していることを証明しているのだ。
学園の敷地をぐるりと巡る一周5キロメートルのコース上に不規則に配置されたフープをすべて通過しながら、コースを三周――すなわち15キロメートルを飛行することが、伝統ある〈クイーンズスプリント〉のルールである。
特殊なルールは数あれど、人が箒に跨って空を飛べるようになってから数千年もの間、もっとも注目を集め、もっとも格調高く、勝者にもっとも大きな栄誉を与えてきたのはこの距離である。
★
フォルトゥナ=キール・アネアースは天才である。
それは彼女がエミグラント王国の五大公爵家に数えられるアネアース家の次期当主であり、生まれながらにして恵まれた血統と魔脈を授かっているからでも、彼女が常軌を逸した努力をも厭わない鋼鉄の精神の持ち主であるからでもない。彼女はサラブレットであり、かつ度を越した努力家なのであった。
そんな才女が箒レースに少し入れ込めば、創設千年を数えるこの〈バスクヴィル魔女学園〉における箒レースの記録タイムを次々に塗り替えていくのも無理からぬ話である。
フォルトゥナは、その名前で呼ばれることをあまり好まなかった。
実に貴族らしい、幸運を司る古代の女神の名を冠したそれはあまりに大仰で、そして貴族たち共通の悩みとして、同名の者たちが多いのであった。
彼女に親しい者たちは、
★
不規則に空中を浮遊するリングを一切減速することなく飛び抜けていく。視界のどこにも、ライバルたちの姿はない。振り返ればいるだろうが、クローバーは体勢を低くして箒にしがみつく基本姿勢を崩さなかった。
体中を血管のようにめぐる魔脈を木製の箒に感応させて飛翔するからには、身体と箒の接触面積は多ければ多いほどよい。これもまた、箒騎乗における不変の摂理である。
つまらない。
再度、クローバーはそう思った。
きっと、この飛翔でまた自分の記録を塗り替えるだろう。
分かる。体内時計は極めて正確だ。号砲が鳴り響いてから今まで時間は精確に計っている。半秒のズレもないはずだ。
不興を買うに決まっている。驚嘆されることも、称賛されることもない。
期待を超えることが当たり前になった時、人々は期待すること自体に飽きてしまう。
なにより、自分自身がまったく興奮していない。どれだけタイムを縮めようが、見える光景は変わらない。自分以外の何物も映らない視界が延々と続いて、飛んでいることが他人事のように思える。
レース中に振り返ることなどないが、自分の後ろを飛んでいる箒の数が日を追うごとにますます減っていることに、クローバーは気が付いていた。
でも、それがなんだというのだろう?
「そろそろ9分を切るんじゃないかしら」
タイムを計測していた教員にそう言われて、クローバーは防風ゴーグルを外しながら謙遜の笑みを浮かべた。
「まさか」
三か月の内には9分は切るだろう。内心ではそう確信している。
「課題が見つからない日はありません」
幼い頃から沁みついている模範的な振舞いの前に、教員も労いの言葉以外はなにも返さなかった。
風を受けて乱れた後ろ髪をばさりと手で翻すと、鏡のような銀髪が夕日色に染まる。
クローバーの顔からは、すでに笑顔は消えていた。
「クローバー……おつかれ」
サーキットの入口付近、遠巻きに含みのある表情でクローバーを眺めていた女生徒のうち、少し冷めた印象の少女がゆっくりとクローバーに近付いた。彼女はレーサーではない。選手たちのマネージングや騎乗用箒の整備をするサポーターだ。
「箒の整備、あたしがやろうか?」
「いいえ、結構よ」
少女の申し出をプツリとした笑顔で返すと、クローバーは手にした箒を少女とは逆方向の手に持ちかえる。少女の方も、その返答をあらかじめ知っていたかのように「そう……」とだけ答えた。
「……〈ナイツタッグ〉の練習はしないの? ロクサーヌとミシェリはこれかららしいけど」
そう問われて、クローバーは振り返り、空中のサーキットを見上げた。
二人組や三人組の魔女たちがくるくるとサーキットを飛び回っている。
「私はいいわ。このまま寮に戻る」
どこか遠い視線を向けたまま、クローバーはそう言った。
三人一組のレース、〈ナイツタッグ〉におけるクローバーチームのタイムは相当に優良であるものの、クローバー一人の〈クイーンズスプリント〉の成績と比べると、やはり幾分か見劣りするものだ。そしてその原因について、チームメンバーである二人はよく理解している。
「彼女たちの邪魔をするわけにはいかないから」
そう言い残すと、クローバーは寮棟へ向かう廊下へと進んでいった。
彼女の背中を見送る少女の視線は、冷たくも寂しい。
★
魔力伝導率と低い空気抵抗を重視するぴっちりしたライドスーツから着替えたクローバーは、レース場近くの更衣室から貴族科の寮へと向かっていた。
丈の短い黒いブレザーに同じく黒のスカート、足元は革のブーツ。そして頭にはつばの広い三角帽子。魔女の正装を模した長い歴史を誇る〈
皺ひとつない装束は、クローバーの銀糸のような髪を引き立てるために仕立てられたかのように黒く映えていた。
激しいレースの後とは思えない軽やかな足取りで石造りの廊下を進んでいたクローバーは、ふとその歩みを止める。
連絡通路の分岐先、貴族科とは逆方向の奥から反響する異音と悲鳴に気が付いたのだ。
歩みを速めて悲鳴がした方へ進んだクローバーは、その惨状をみるや手にした箒をそっと廊下の壁に立てかけた。
石畳の廊下の真ん中に何冊もの分厚い本が転がっており、一人の女生徒が身を屈めて必死に本をかき集めている。
短く切りそろえたブラウンの髪に、大きな丸眼鏡。ワンピース型の長い黒ローブの腰をベルトポーチで締めた姿は、典型的な〈
床にぶちまけられた本も、魔力工学の技術書から古典哲学用語の辞典まで、身分問わず学問分野の秀才が集う碩学科らしいラインナップである。
「うぅ……」
「手伝うわ」
有無を言わさずそこら中に散らばった本を拾い集めたクローバーに気付き、女生徒は飛び上がるように立ち上がった。
「え……う、うわっ!」
構わず本を拾い続けるクローバーの姿をはっきりと認識して、女生徒は緊張した面持ちのまま一歩下がって深々と礼をする。
「ア、アネアース公爵令嬢……ご機嫌麗しゅう……」
「ごきげんよう……フォルトゥナでいいわ」
クローバーは儀礼的にそう答えた。
他人に、ましてや碩学科の生徒に恐縮されることなど慣れきっている。初対面の間柄でいきなり愛称で呼ぶことを要求すればかえって相手が縮こまることも重々承知だ。
「それより、どうして一人でこんな大量の本を? とても一人で運びきれる重さではないでしょう」
「その……寮室の友達からも何冊か頼まれていて、大図書館に寄るついでに自分の分と一緒に運ぼうと……」
「勉強熱心なのは感心だけど、次からは二人で運びなさい。こうなっては大切な本が傷つくし……なにより貴女が怪我をしてしまうわ」
クローバーのエメラルド色の瞳に見つめられて、女生徒は眼鏡の奥で琥珀色の瞳を震わせた。
「すみません……気を付けます」
「分かればいいのよ。さあ、行きましょう」
本の山のうち半分を抱えたクローバーが歩き出すと、女生徒は「えっ!?」と小さく声をあげた。
「友達を呼んで運ばせます……! フォルトゥナ様に運ばせるだなんて……」
「そんなの非効率でしょう。寮室まで案内してちょうだい」
「で、でも、箒が……」
「それなら心配いらないわ」
クローバーが言うや否や、壁に立てかけられていた箒がひとりでにふわりと地面から浮かび上がり、歩き続けるクローバーに寄り添うように空中を浮遊し続ける。
植物……特に樹木には人と同じように魔脈が張り巡らされている。
箒による飛行とはつまり、騎乗者自身の魔脈を介して魔力を箒へ流し込み、感応した箒が生み出す揚力によって行われるものである。
当然、直接体で触れることによって効果は最大化されるのだが、高度な魔力操作能力を有する者であれば魔力による箒との『接続』を長時間、そして非接触の状態でも維持することができる。それはよく、パペットとパペッティアが糸で繋がっている様に例えられる。
「貴女、お名前は?」
諦めて本を抱えてクローバーの横に並んで歩き始めた女生徒に対して、クローバーはそう尋ねた。
「ノノです――」
女生徒はそう答えながらちらりとクローバーの箒にちらりと視線を向けて、
「ノノ・ニィロ……碩学科高等部の二年生です」
と自己紹介しなおす。
「では、同級生なのね。学科は違えど今後も交流があればいいわね」
「は、はい」
と、困惑したような様子のノノだったが、改めてクローバーの箒に目を向けてからそっと話を切り出した。
「……今日も、サーキットからのお帰りでしたか?」
「ええ、そうよ。他校との交流戦も近いから練習も佳境なの」
「学園創設以来の天才と、お噂はかねがね……」
「大げさよ。私より速い人なんていくらでもいるわ」
「……」
どこか言葉に詰まる様子のノノに対して、貴族相手に恐縮しきっている以外の理由を感じたクローバーは、
「どうかしたかしら? 汗の匂いが気になる?」
と訊いた。
「い、いえ! まさかそんな……」
額に汗を浮かべながら、ノノは観念したようにおずおずと口を開いた。
「その、いい箒だと思いまして……」
「ありがとう。嬉しいわ」
称賛を受けることも慣れきっている。例の笑顔で対応するクローバーに対して、意外にもノノは二の句を継いだ。
「長く乗られていますよね? 少なくとも、十年ほどは……」
「ええ、ちょうどそのくらいよ。よく分かったわね?」
「好きなんです、箒……失礼ながらあのフォルトゥナ様が乗る箒は一体どこのブランドのものだろうと思いまして」
緊張からか、また石畳につんのめりそうになって慌てて体勢を立て直しながら、ノノは控えめな笑みを浮かべる。
「これは……お母様から貰ったものよ。お母様もこの学園にいた時は騎手だったから、その時に懇意にしていた職人に作ってもらったの」
「まあ……! 名工のオーダーメイド……どうりで……」
感じ入るように箒を見つめるノノがまた躓きそうになるのを見て、クローバーは思わず苦笑した。
「ほら、前を見ないと」
「す、すみません……どんくさくって……」
そうこうしているうちに、二人は碩学科の寮のすぐ近くまで辿り着いた。
クローバーに本を運ばせていることを碩学科の生徒たちに見られては、ノノがどう思われるかは想像に難くない。部屋までの少しの距離はノノに任せることにして、クローバーはその場を辞することにした。
「あの、ありがとうございました……」
「いいのよ。またお会いしましょう。ノノさん」
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