第5話
「ルノくん、お水持ってきました」
「……ありがとう」
陽が落ちて藍色と橙色が混ざった空が部屋に影を落とす中で、私は目の前の彼を横目でチラリと見ました。
ルノくんは、ぐすんと鼻を鳴らしながら目を真っ赤にして静かにコップを傾けています。
その姿はいつもの大人で賢くて優しい、私の憧れの彼とは全然違いました。
少しして彼は自分のことをぽつぽつと話し始めてくれました。
ルノくんは、毎日6時に起きて朝ごはんにトーストとブラックコーヒーを飲み、仕事の準備をしながら歯磨きをして、髪を整えてスーツに着替えハンドグローブをつけて、毎日同じ道で、同じ時間の電車に乗って仕事に来ていると言いました。
毎日毎日、何日何ヶ月何年もの間、少しの狂いもなく。
「__そうやって、大丈夫な日を繰り返してるんだ」
「大丈夫な日?」
「そう。この動きを辿るたびに本当の自分を何重にも包んで、見えなくしていける」
小さく息を吐いて、吸って、力の入った身体から吐かれる言葉は固い音をしていました。
「そうして作られた僕なら、何だって耐えられるし、どんなことだってできる」
ルノくんは自分に言い聞かせるみたいに、ギュッと自分を抱きしめながらそう言いました。
本当のルノくんは私が思っていたよりもずっとずっと臆病な『人間』だったのです。
「ずっと、人を救わなきゃいけないって思ってたんだ。大切な人が孤独で苦しんでいた時に、俺は何もできなかったから」
「だから精神安定業務を?」
「うん、同時期に入った
「……MIMETICがいるから」
「そうだね」
精神安定業務は『非生産型対人業務』とされています。だからMIMETICが従事するようになりました。
人間の生活は変わっていきました、人間同士の関わりも変わっていきました。顕著なのは会話でした。
誰しもが相手を思いやって言葉を吐くことを意識しなくなったのです。なぜならそれによって傷つく人間の精神はMIMETICによってケアされるから。
言葉の重みは軽くなり、意味は薄くなり、想いは届かなくなりました。
「それでも、自分だけでも努力し続ければ、いつか誰かを救える自分になれる日が来るって信じてたんだけど。……そんないつかなんて来ないって、ようやく諦められた」
でもそれはルノくんのせいではありません。世界の構造が変わったからです、世界が変わったせいです。
どうにか言葉を出そうと思考回路が回っているのを感じます。なのに、口から言葉が出ることはなく、はくりと息だけが漏れていきます。
「人を人と思わない人間に傷ついて生きるのはもう疲れちゃったんだ」
「……じゃあ、じゃあ私がルノくんを守ってあげます」
「ダメだよ、そんなことしてたらいつか俺のせいでトワさんが壊れてしまうから」
「何ですかそれ、私はそんなに弱くないです」
「ダメなんだよ」
感情は脳の電気信号です。現代でソレは完璧に模倣されました。私は感情を持っています、持っているはずなのです。
それでも私にはわかりません。私には、そうやって非合理的な感情を優先する思考回路は文字通り持っていないからです。
「わかんないです、わからないのは悪いことですか?」
「悪いことなんかじゃないよ、仕方ないことだ」
「ならどうして言うことを聞いてくれないんですか、私は間違ったことは言わないです」
「……俺が俺を許せないんだ」
ルノくんの手は震えていました。
私の手とは違う人間の手は、冷え切っていても私のような無機質な冷たさとは違うんだなぁと、どこか遠くで思いました。
「俺が、俺のわがままで。人を壊したくないんだよ」
窓の外、遠くで渡り鳥が飛んでいます。
彼らはその先で幸せが待っているから飛んでいるのか、幸せが待っていると信じて飛んでいるのかどちらなのでしょうか。
私はただ、彼らがそうやって飛ぶように設計されていることを知っているだけなのでした。
永遠、続く空 雨夏 @uka_amanatsu
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