残業キャンセル界隈の私は、F12キーで魔法をかける

宮城マコ

第1話 仮面と定時

 Windowsのタスクバー、右下のデジタル時計が『17:59』から『18:00』に切り替わったその瞬間、私の指先はショートカットキーを叩いてPCをスリープさせていた。


「お先に失礼します」


 静まり返ったフロアに、私の声だけが白々しく響く。

 返事は、ない。

 あるのは、カタカタと絶え間なく続くキーボードの打鍵音と、澱んだ沈黙だけ。

 視線を上げずとも、同僚たちの背中から「またあいつか」という無言の圧が伝わってくる。けれど私は、その視線を愛想笑いという見えない盾で弾き返し、逃げるようにタイムカードを切った。

 別に、仕事をしていないわけじゃない。今日のタスクは全て消化した。文句を言われる筋合いはないはずだ。

 それでも背中にへばりつく罪悪感を振り払うように、私はオフィスの重たいガラスドアを押し開けた。


 エレベーターの鏡で、自分の姿を確認する。

 流行りのベージュのトレンチコートに、無難なブラウンのアイシャドウ。髪は緩く巻いて、どこにでもいる「量産型女子」を完璧に演じている。

 これでいい。派手すぎず、地味すぎずだ。

「私はただのオペレーターです。クリエイティブな期待はしないでください」

 この外見は、余計な火の粉を避けるための、私なりの戦闘服。


 ***


 駅前の喧騒を抜け、路地裏にある雑居ビルの急な階段を上る。

 カラン、コロン。

 古めかしいドアベルの音と共に、深く焙煎された珈琲豆と、古書の香りがふわりと鼻腔をくすぐる。

 純喫茶『琥珀』。ここは私が、ゆっくりと呼吸できる唯一の場所だ。


「いらっしゃい」

 マスターが低い声で迎え入れてくれる。私はいつもの奥の席、赤いベルベット生地が少し擦り切れた椅子に身を沈めた。

 テーブルの天板には、無数の小さな傷がついている。壁紙は長年、店の空気を吸いセピア色に沈んでいて、照明は少し暗い。

 けれど、この「少し薄汚れた感」こそが、私を安心させる。

 最近流行りの、無機質なカフェは苦手だ。

 壁もテーブルもカップも、すべてが真っ白で、傷ひとつなく、均一に照らされている。あの潔癖な空間にいると、私は自分が「消去されるべきノイズ」になったような気分になる。


 私はメニュー表を開いた。注文はいつものブレンドだと決まっているのに、このメニューを見るのをやめられない。

 手書きのレタリング。少しインクが滲んだ「珈琲」の文字。写真ではなく、温かみのあるイラスト。

 指先でその文字をなぞる。

(……このカーニング、たまらない)

 美しいデザインだ、と思う。整っているわけではない。でも、ここには作った人の体温がある。


 私はほう、と吐息を漏らし、背もたれに深く体重を預けた。

 (ずっと、この空気に浸っていたい……)

 場の空気と心地よさに、とろりと目を細めた、その時――


 ガシャン!――鋭いが店内の静寂を切り裂いた。

 カウンターの奥で、アルバイトらしき青年が手を滑らせたらしい。

 「すみません」という慌てた声と、砕け散ったソーサーを拾い集める乾いた音。

 その不協和音ノイズが、無防備になっていた私の脳裏にあるスイッチを、乱暴に叩いた。


 『個性が強すぎて使いにくいんだよ』


 新卒の冬に浴びせられた言葉が脳裏をよぎった。

 本気で取り組んだデザインを、あっさりとゴミ箱へ放り込まれた過去。

 今の会社で私が「残業キャンセル界隈」のドライな人間を演じているのは、あの時折れた心の骨が、今もまだ、変な方向に曲がったままだからだ。期待に応えようとして傷つくくらいなら、最初から期待されない方がいい。


 ***


「一ノ瀬さん」


 始業と同時に声をかけられ、私は振り返った。

 そこには銀縁眼鏡の奥から冷ややかな視線を向ける男――ディレクターの佐伯賢人が立っていた。

「新しい案件だ。洋菓子店のECサイトリニューアル」

 佐伯は私のデスクに資料を置くこともなく、タブレットの画面を突きつけてくる。

「創業50年の老舗だが、先方の要望は『現代的な刷新』だ。今回はスピード重視でいく」

「……はい」

「構成とデザインは、僕の方でAIを使って生成する。君は出来上がったデザインをコーディングするだけでいい。余計なアレンジは不要だ」


 AI ――。またか、と思った。

 佐伯は社内でも有名な「効率モンスター」だ。彼のディレクションは無駄がなく、確かに売上も作る。けれど、そこにはいつも血が通っていないような冷たさがある。


「承知しました。デザインデータ、お待ちしてます」

 私は愛想よく頷いた。

 内心では「ラッキー、今回も頭を使わずに済む」と安堵している。

 それなのに、胸の奥のどこか深い場所に、小さな痛みを感じてもいた。

 それは、「君の感性は必要ない」と断言されたことへの、捨てきれない未練だったのかもしれない。


「18時までにはラフを共有する。定時で帰りたいんだろう?」

 佐伯は皮肉とも気遣いとも取れない言葉を残し、自分の席へと戻っていった。

 私は乾いた唇を舐め、まだ真っ黒な画面のエディタを立ち上げた。

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