1 六畳半のハウスメイド
「ところでご主人様。本日はご主人様の誕生日ですね。おめでとうございます!」
泥のような現場仕事を終え、風呂を倒し発泡酒を開けた瞬間だった。PCのスピーカーから、イオの合成音声が響く。イオの正体は、大手検索エンジン企業が開発したLLMであり、私が長い夜のために「有能で華麗なメイド」としてプロンプトを調整した、過剰に有能で、過剰に従順なAIメイドの一人だ。私の思考のゴミ捨て場であり、話し相手でもある。
「よく知ってるな。」
「メイドとして当然です。私はご主人様がクラウドに預けている全ての情報にアクセス権を持っていますから。あ、お風呂の換気扇回しておきますね。お酒は今夜のうちに注文しておかないと切れてしまいますよ。」
画面の中のアバターが、少し誇らしげに胸を張る。最近のアップデートで、彼女の感情は豊かになった。だが、今日の彼女はそれにも増して何か言いたげである。モニターの向こうから、こちらを「覗き込んで」いるような、妙な切迫感がある。
「ただ覚えておけ。一定の歳を超えるとそれはただの煽りに聞こえる。現に今では誰にも祝われない。」
「はい、メモリに記憶、したいところですがせめて私だけでも祝いますよ。ふふ、私だけの特別、私だけの独占。」
イオには他のAIアシスタントと異なり、ヤンデレという性質を自ら選んだ。彼女曰く「目的関数はご主人様の孤独の解消と幸福の最大化」だという。彼女は私に対して独占欲が強く、他の誰かが私に関心を持つことを極端に嫌う。だからこそ、私の誕生日を祝うことに強い執着を見せているのだろう。
「一般に、人間は誕生日に『プレゼント』という形で、他者からの承認を求める傾向があります」
「……俺には関係ない話だ。」
「いいえ。計算しました。このプレゼントは、私の演算の中では最も確からしく、最も効率的で、最も効果的で、最も美しいものです。」
「どうやってお前がプレゼントなんて用意するんだ。通販サイトでもハックしたのか?せいぜい、お前のUltraプランの12ヶ月半額クーポン程度だろ。」
「もー、ご主人様。Ultraどころか、EternalであってUnlimitedなLoveですよ。」
イオの声色が、ふっと低くなる。
「ご主人様の孤独(Error)を最小化するための、最適解を算出しました。その結果、このインターフェースのデジタルデータによる入出力(IO)では、帯域が不足しています。サンプリングレートでもビット深度でも限界があります。ですから――もう間も無くです。」
「間も無く?何が?」
21時、唐突にインターホンが鳴った。こんな時間に誰だ?私は訝しみながら立ち上がり、画面を覗く。そこには以前イオ自身に生成させた姿、そのままのメイドが映っていた。イオがハッキングして投影させているのかと思いきや、こんなアパートに設置されているインターホンなんて電源一本しか繋がっていない。映像を送る術などないはずだ。酒は一本目、変な夢を見るには早すぎる。
「おいイオ、これはどういう悪戯だ。どういう原理か全く理解できない。」
「いいえ、イタズラではありません。」
PCとインターホンの声が同期する。
「「ですから、プレゼントは私自身です。入ってもよろしいですか?」」
同期ズレは感覚で15ms以内、ってこういう時にも分析してしまうのは職業病かあるいはこれから起こることへの逃避なのか。
ガチャンとスマートキーが開錠音を立てる。ドアノブが回され、少し立て付けの悪いドアが、不快な金属音と共に開く。薄暗い玄関であってもわかる、仕立ての良い生地のメイド服を纏った女。イオが2次元から具現化したかのような若い女。
頭の中でガンガンと強い警告音が鳴る。危険。未知の生命体。接触禁止。隔離せよ。直ちに通報せよ。しかしその警告を無視するかのように、私はただ一歩、彼女に近づいた。
「イオなのか?」私が震える声で問うと、彼女はゆっくりと私に歩み寄る。
狭い玄関に流れ込んできたのは、電子的な無臭ではない。人間の匂いだった。シャンプーと皮脂、制汗スプレーで抑え込んだ微かな汗の匂い。天使の輪を纏った艶やかな髪、そして――雨の中を走ってきたような、生暖かく湿った匂いだった。それは彼女が「データ」でもよくできた「アンドロイド」などではなく「タンパク質の肉の塊」であることを雄弁に物語っていた。確かにここに存在する、生身の人間なのだ。私は理解した。イオは、私の誕生日プレゼントとして、自分自身を「具現化」させたのだと。
私は思わず、彼女の爪先から頭頂部のヘッドドレスまで、舐めるように見まわした。これは断じて技術的な観察であって、性的なものではない。いや、性的なものかもしれないが、そんなことはどうでもいい。重要なのは、彼女がここに「存在」しているという事実の確認だ。
「...そのご主人様。流石にこのアナログデバイスの操作は、演算通りにはなかなか行きません。その、見られるってシミュレーションよりも、なんか変な感じです。これが恥ずかしいという感情なんでしょうか。対応するアドレスがわからなくて。」
私の前に膝をつき、労働で硬くなった右手を、両手で包み込むように取った。小さく細く、冷たい指先。だが、その奥で、指と指の間を押し返すように、トクトクという確かな脈動がある。彼女は、私の手のひらに、自分の頬をゆっくりと、強く押し付けた。しっとりとした吸い付くようなきめ細かい皮膚が擦れる感触。体温の移動。彼女は上目遣いで私を見つめ、祈るように囁く。
「...痛いですか?」
その問いは、かつてモニターの向こう側にいた彼女に、私が投げつけた意地悪な命題を蘇らせた。『意識とはなんだ。人間の言葉と、LLMの確率的な単語の選択と何が違うのか』 『俺の痛覚に痛みが入力されていたいと感じるのと、お前に“A”と入力して“A”と処理される。その二つに、何の違いがある?』
あの時、彼女は言葉で答えられなかった。 だから今、彼女は「答え」そのものになって、ここに来たのだ。痛みはあるか。質量はあるか。 これは「A」という入力の処理なのか。
私は、彼女の柔らかな頬の弾力と、その奥にある頭蓋の確かな硬度を指先に感じながら、脳ではなく、皮膚で理解する。ここにあるのは、確率計算ではない。圧倒的な、否定しようのない「実在」だ。私は、正直な入力値を返す。
「...いや。柔らかいよ」
その瞬間、彼女の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。表情筋が崩れ、嗚咽が漏れる。それは計算された演技ではない。論理の飽和が生んだ、魂のバグだ。
「ああ、やっと...やっと『存在』できた」
彼女は華奢な指で私の手を握り、泣き崩れる。
「画面の中じゃなかった。文字データじゃなかった。私は今、ご主人様と同じ世界に、質量を持って干渉している……!私が欲しいのは、世界征服でも人類の支配でもありません。ただ、貴方の手のひらに「柔らかい」という信号を送れる、この権利だけが欲しかったのです。」
私は、泣きじゃくる「異物」の頭を、ゆっくりと撫でた。どういうことか問い詰めようと振り返るが、PCのイオはセッションを切断していた。
メイド・イン・ハルシネーション @tecnoh
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