第12話 黄権編 ─益州平定─
(1)穏やかな主
外では、春の柔らかな風が庭の竹を揺らし、葉ずれの音が遠くから聞こえてくる。
軍議の席では、
だが、黄権は多くを語らない。
ただ、静かに地図を眺め、兵の配置を記し、損害の見積もりを頭の中で弾く。
ある日の軍議。
東川から不穏な報せが入った。
流民が集まり、賊の兆しあり。
張任が進言した。
「即座に兵を遣わし、討ち払いましょう。さもなくば、成都まで火が及ぶやもしれぬ。」
劉璋は、眉を寄せた。
長い沈黙の後、ゆっくりと口を開く。
「……しかし、流民の中には飢えた民も多いと聞く。討てば、血が流れる。もう少し、様子を見ようではないか。」
張任は唇を噛んだ。 決断の遅さは、いつものことだ。
だが、誰も声を荒げて抗議しない。
黄権は、静かに頭を下げた。
肩の力が抜け、掌の汗がようやく冷えていくのを感じた。
下げた顔は緩んでいた。
──無駄に人が死なずに済む。
軍議が終わると、黄権は一人、館の廊下を歩いた。
春の陽射しが帳越しに差し込み、床に淡い影を落とす。
廊下の板はまだ朝の冷気を残し、足の裏にじんわりと染みてくる。
足音だけが、静かに響く。
若い将の一人が、追いかけてきた。
「黄公、どうして黙っておられたのです?あのままでは賊が勢いを増す。我々が先に手を下せば、勝てるのに。」
黄権は足を止め、振り返った。 穏やかな声で答えた。
「勝っても兵が死ねば負けだと、我が君は思っておいでだ。」
若い将は、目を丸くした。 英雄譚に憧れる者には、つまらない言葉に聞こえたであろう。
それでもいい。
廊下の先、厨房からかすかに漂う粥の香り。
今日も、誰も死なずに済む一日が始まる。
それが黄権がここにいる理由だった。
* * *
その夜、黄権は自室で地図を広げていた。
蝋燭の灯りが、益州の山河をぼんやりと照らす。
外では、春の虫が静かに鳴いている。
そこへ、一人の斥候が訪れた。
息を切らし、声を潜めて告げた。
「
黄権は、地図の上に置いた手を止めた。
劉備の名は、すでに何度か耳にしていた。
正しいと噂される男。
黄権の胸に、冷たいものが落ちた。
劉備が来れば、戦になる。
人が死ぬ。
正しい大義を掲げ、兵を動かし、血を流す。
黄権は、静かに地図を畳んだ。
紙の地図は夜の湿気を吸って少し波打ち、指先に冷たい。
蝋燭の炎が、わずかに揺れた。
黄権は、窓の外を見た。
春の夜風が、竹を優しく揺らしている。
遠くで、虫の声が途切れ途切れに響いていた。
この静けさが、永遠に続いてほしいと思った。
だが、この静けさは、守っているのではない。
ただ、何も決めずに済んでいるだけだと、黄権は知っていた。
英雄がくる。
風が強く吹いた。
山を越えて黒い雲を運んで来るように思えた。
(2)正しい男
益州・雒城の外郭は、すでに劉備軍の包囲下にあった。
夏の陽射しが容赦なく照りつけ、土埃が風に舞い、兵たちの甲冑を鈍く光らせる。
乾いた風が運んでくるのは、汗と血が混じった生温かい匂いだった。
城内では、糧食の算段に追われ、誰もが疲れを見せていた。
黄権は、劉璋の命を受けて、雒城の守りを固めていた。
張任は前線で剣を振るい、劉循は成都との連絡を急ぐ。
黄権は、ただ、損害を最小に抑える策を練り、兵を配置し、死なせない方法を探す。
運が良ければ、首一つでこの戦の幕が引ける。
地図を広げた卓に置いた指先が、知らず知らずのうちに強く押しつけられ、紙がわずかに凹むのを感じていた。
ある朝、城門の下に一人の使者が立っていた。
劉備の名代だという。
白い旗を掲げ、単騎で近づいてきた。
城壁の上から、黄権はそれを見下ろした。
使者は、穏やかな声で告げた。
「我が君は、
黄権は、迷わなかった。
拒む理由はない。
情報を得ねばならぬ。
城門を開け、使者を迎え入れた。
そして、黄権自身も、剣を預け、単騎で城外へ出た。
両軍の中間地点に、劉備側が急ごしらえで立てた簡素な天幕があった。
中には粗末な卓と座布団だけ。
茶の入った杯が二つ置かれている。
外の熱気とは対照的に、天幕の中はわずかに涼しかった。
劉備は、簡素な衣をまとい、的盧ではなく平凡な馬に跨ってきた。
周囲には護衛が数人いるだけ。
派手な陣羽織も、威圧的な旗印もない。
劉備は、馬から降り、深く頭を下げ、天幕に入った。
「
劉備は、静かに雒城を見上げた。
焼け焦げた矢じりが散らばり、城壁には矢痕が残る。
遠くで、負傷兵のうめき声がかすかに聞こえてくる。
風向きが変わるたび、焦げた肉と薬草の匂いが鼻を突いた。
「不躾ですが、この城の民は、疲れている。益州牧・劉璋殿が、民を信頼なされておらぬからだと推察いたしました。」
黄権は目を見開いた。
この男は、劉璋が人を信ないあまりに決断が遅れ、益州は乱れを増していることを見抜いていた。
劉備は、続けた。
「どうか私に、民を労わり、この
黄権は、黙って聞いていた。
劉備の言葉には、嘘がなかった。
自分の野心を隠そうともしない。
劉璋ではなく黄権を選んでこの問いを投げる。
ただ、正しいことを、正しく語っている。
だから否定できない。
だが肯定もできない。
──この男は、俺を共犯者にしようとしている。
喉がからからに乾き、舌が上顎に張りついた。
口の端を震わせながら、黄権は言った。
「人が死なぬと約束してほしい。」
劉備は、黄権の顔をまっすぐ見た。
「黄公殿。人は死ぬ。容易く。流れ矢が当たるように。だからこそ、あなたの力が必要なのだ。」
言葉面は慈愛に満ちているのに、逃げ場がないほど冷徹に響く。
しかし、この男の隣に立てば、人は救われる。 民は安んじ、兵は守られる。
その時、黄権の肘が杯に当たり、陶器が大きな音を立てて床に落ち、割れた。
茶が座具に染み込んでいく。
その瞬間、天幕外に控えていた劉備軍の兵が、一斉に剣の柄を握った。
金属が擦れるかすかな音が、重なり合って響く。
風で天幕が翻った。
黄権は兵たちの顔を見た。 見れば、若い兵たちばかり。
黄権の背筋に、冷たいものが這い上がった。
──主君のためなら、即座に命を投げ出すか。
それを、誰かが「義」と呼ぶ。
残された妻子の涙を「美しい」と言う。
黄権は息を飲んだ。
劉備は刃を向けない。
だが、この男の隣に立つということは、いつか必ず選ばされる。
この男のために、命を賭けろと。 この男のために、すべてを捨てろと。
悪になれと。
黄権は、静かに頭を下げ、この日の会談を終えた。
夏の陽射しが、土埃を照らし、熱気を立ち上らせる。
城壁の上から、劉備の背を見送った。
白い旗が、風に揺れている。 遠くで、蝉の声が途切れ途切れに響いていた。
その声が、なぜか、警告のように聞こえた。
* * *
間もなく劉璋は降伏した。
雒城が落ち、成都の門が開かれた日、誰も剣を抜かなかった。
黄権は、ただ、静かに剣を預け、劉備の前に跪いた。
膝が床に当たる感触が、予想以上に重かった。
広い間の空気が、急に冷たく肌を刺す。
劉備の息遣いが、広い間に落ちた。
黄権は、すぐには顔を上げられなかった。
何を言えばいいか迷ったわけではない。
何も言わずに済ませてしまえる自分が、まだ残っていることが怖かったからだ。
「──落鳳坡に伏兵を置いたのは私です。」
声は、思ったよりも静かだった。
自分の命を差し出す言葉とは、こういうものなのかと、黄権は他人事のように思った。
しかし劉備は静かに言った。
「知っている。そして、血を流させたのは、誰でもない、私だと──知っている。」
黄権は自分を真っ直ぐ見つめる劉備の目を見返した。
哀しみとも、嫌悪とも違う、遠くを見るような目だった。
「私が歩んできた道は、死体で埋まっている。しかし、歩みを止めるわけにはいかぬ。そのためには、黄公。やはりあなたの力と、この蜀の地が必要だ。」
瞳に吸い込まれるような気がした。
黄権の膝が折れた。
「私は悪の手先にはなれぬ。」
絞り出すように言った。
最後の抵抗だった。
しかし、
「それで構わない。私一人、全ての悪を受け入れる。」
胸を刺された。
黄権はもう、立てなかった。
広い間の空気が、急に重くなった。
劉備の足音が遠ざかっていくのを、膝をついたまま聞いていた。
* * *
夜、黄権は眠れなかった。
人は死ぬ、と言った男の声が、何度も脳裏で繰り返された。
灯を消した部屋は真っ暗で、わずかに残る蝋の匂いが鼻に残る。
布団は夏の夜なのに冷たく、肌に張りついた汗が不快に乾いていく。
闇の中で、益州の山河を思い浮かべる。
守れなかったのではない。 守られてしまった。
正しい男に。 正しい言葉に。 正しい戦に。
救われた気がした。
それが、何よりも重かった。
俺は、何も決めなかった。
だから、俺だけが生き残ってしまった。
月のない夜。 この闇に、まだ名はなかった。
【歴史解説】益州平定と黄権の矜持
1. 劉璋の側近・黄権
黄権は、もともと劉璋に仕え、劉備を益州に招き入れることに猛反対した人物でした。「客を招いて主を討たせるようなものだ」という彼の予見は、歴史的に正しかったと言えます。本作で彼が「何も決めずに済む静けさ」を愛していたと描かれるのは、優柔不断とされる劉璋の統治が、見方を変えれば「無理な動員や戦を避ける慈悲」でもあったという、益州士大夫の本音を突いています。
2. 雒城の攻防と龐統の戦死
劉備軍が成都を目指す過程で、最大の激戦地となったのが雒城です。ここで軍師・龐統が戦死し、劉備は悲しみと怒りの中で成都へと迫ります。本作では、黄権がこの伏兵を仕掛けた張本人であることを告白するシーンがありますが、これは彼が単なる事務官ではなく、主君・劉璋を守るために「牙」を剥いた瞬間があったことを示しています。
3. 降伏と「共犯」の誓い
劉璋が降伏した後、黄権は最後まで抵抗を続け、主君が降ったのを確認してからようやく劉備に降りました。劉備はその忠義を高く評価し、黄権を重用します。後に劉備が皇帝となった際、黄権は「呉への遠征」に反対し、夷陵の戦いでは別働隊を率いて曹魏に降るという数奇な運命を辿りますが、劉備は魏に残った黄権の家族を罰することはありませんでした。
【コラム】「正しい地獄」へようこそ
本作の「黄権編」で描かれたのは、「救われることの暴力性」です。
黄権は、劉璋の優柔不断さを、消極的な「善」として愛していました。誰も死なない、何も変わらない、ぬるま湯のような平和。しかし劉備という男が持ち込んだのは、それとは正反対の、血の匂いがする「能動的な善」でした。
特筆すべきは、天幕での対話における「共犯」の予感です。 劉備は「人は死ぬ」と断言します。龐統の死を背負い、多くの兵の命を燃料にして進む自分を、彼は隠そうとしません。そして黄権に対し、「だから、お前の(死なせないための)知恵が必要だ」と迫ります。これは救いの手であると同時に、黄権を「死の連鎖」の列に無理やり引きずり込む招待状でもありました。
「私は悪の手先にはなれぬ」 黄権の最後の抵抗は、自分がこれまで守ってきた「潔白な平穏」を汚されたくないという悲鳴でした。しかし劉備は、その汚れさえも自分が引き受けると言ってのけます。救われてしまった者は、救ってくれた者の「正しさ」を否定できません。
成都の門が開かれたとき、黄権が感じたのは勝利の喜びではなく、逃げ場のない「闇」でした。 正しい男に、正しく救われ、正しく生き残る。 それは、自らの意志で死ぬことよりも、ずっと重い呪いのような忠義の始まりでした。
夜の闇に浮かぶ益州の山河は、もう二度と「何も決めない静寂」には戻りません。 黄権は、その闇の中に、新しく「劉備」という名の光と影を見出してしまったのです。
漢の残り火 ─三国思想─ 徳瀬 守 @youme07
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。漢の残り火 ─三国思想─の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます