夜が長くなる頃に

なんば

第1話


昼下がり、二人で雨上がりの街を歩いていた。

雨を纏ったその世界は、色が一段濃くなったように見えた。


「エミ!今日はどこに行きたい?」


彼女は立ち止まり、空を見上げている。

少しの沈黙が訪れた後、少しの曇りもない声で言う。


「公園に行きたいなー!」


僕はその無邪気な姿を追うのに夢中で、言葉を返すのを忘れていた。

エミが小突くので、慌てて言葉を探した。


「公園なら昨日も行ったじゃん、他の場所に行こうよ」


「分かってないなぁー、雨の日と晴れの日の公園は別物なの!」


「そうなの?よく分からないけど、そんなに言うなら、公園でいいよ」


するとカエルのようにぴょんぴょん跳ねながら「やったー!」と喜んでいた。


水を踏むぴちゃぴちゃという音、くすくすという笑い声。

公園までの途中、二人だけの存在が街に響いていた。


歩けば歩くほど、緑が増えていき、空気の味が変わってゆく。

澄んでいて、お日様の匂いが染み込んだその空気は、僕たちの不安を溶かしていった。


公園の前まで来ると、水溜まりが地面を覆っている。

エミは駆け足でそれに近づくと、覗き込みながら言った。


「見て!これ鏡みたいだねー」


僕も覗き込んでみると、空が映っている。

だが、自然と視線は左に寄っていく。

しばらく鏡に映る満面の笑みを、見つめていた。


見惚れていると、水滴が落ちてきたので、僕の顔が歪んでいた。

それを横で笑っている姿は、今にも消えてしまいそうな気がして、目を逸らせずにいる。


するとエミが背中を向けて急に走り出すので、ポカンと立ち尽くしていると、


「追いついてみなー!」と聞こえたので、僕はぬかるむ地面を蹴った。


すぐに追いつくと、振り返らなかったので、「もう疲れたよ、ちょっと休もう」というと、

近くのベンチで休むことになった。


腰を下ろすと、呆れた口調で「ちょっとは手加減してよー」と苦笑している。


「先に煽ってきたのはそっちじゃんか」


「ごめんごめん、そんなに必死になると思わなかったから!」


僕たちは日が暮れるまで、くだらないやり取りを繰り返していた。

帰り道、綺麗な夕日を見てもエミは何も言わない。

それどころか、殆ど俯いたまま歩いている。

僕は必死に言葉を絞り出し、「引っ越しても、またこうして歩けるといいね」と言い聞かせた。

果たしてこの言葉が、励ましになっていたのかは分からない。


エミは目線を上げ、僕に向かって呟く。


「……明日、引っ越してからは文通しようね」


僕は「うん、そうしよう」とだけ言って、ついには家に着いていた。

手を振り別れると、水を沢山飲み込んだ草のせいで転んでしまった。

泥だらけになった服を見て、払おうとしたが、結局何もしなかった。


手紙を送ったのは、3日後のことだった。

春の日差しは温かく、日暮れの静けさが指先に残っている。

僕はその指でペンを動かしていた。



「引っ越してから三日経ったから、そろそろ書いてみようと思って。

ちゃんと届くか分からないけど。


こっちは変わらずやれてるよ。

昨日は桜を見てきたよ。

去年一緒に行ったの、覚えてるかな?

今年もあの場所で見てきた。


エミの方は新しい家とか、景色とかはどう?

慣れるのには時間かかるだろうけど、無理しないようにね。」



書き終わると、ポストへ入れに行き、本屋へ寄った。

何冊かを手に取ると、家でゆっくりと読み進めてゆく。

だが、どこかソワソワして、カレンダーを見る回数が増えていた。

日付を確かめるたびに、まだ届かないはずの封筒のことを考えてしまう。


朝が来ると、郵便受けを覗くのが日課になっていた。

ある日、チラシの中に、一つの白い封筒が目につく。

僕はそれを慎重に取り出すと、勉強机の上に広げた。



「封筒、ちゃんと届いてよかった。

字を見たら、少し安心したよ。


こっちはもう落ち着いたよ、って言いたいところだけど、

まだどこに行っても知らない場所ばかりで、

駅までの道も毎回少しだけ迷ってる。


窓を開けると、こっちも桜が咲いてた。


一日が終わるのは早いのに、

夜になると時間の進み方だけが変になる。

ペンを持つと、書きたいことが増えていくのに、

書けば書くほど、手が止まらなくなる。


ちゃんと食べてるし、ちゃんと眠れてるよ。

心配しないで。


また書くね。」



返事を見た僕は、胸底に温かい風が吹き抜けたのを感じた。

その風に誘われてペンを握ると、白紙に書き始めた。



「新しい場所で道を覚えるのは大変だよね。

最近、何度か行ったことのある隣街まで遊びに行ったんだけど、迷っちゃった。


僕は逆に、一日の終わりが遅く感じるよ。

どうにか本を読んで暇を潰してる。

この生活に慣れるまで、まだ時間がかかりそう。


夜は考え事をしないように、

なるべく早く寝るようにしてる。


ちゃんと眠れてるなら少し安心したよ。」



エミ宛に送ると、よく二人で行った公園に寄った。

一週間ぶりに来ると、その景色はいつもと変わらずに、緑々しさを見せつけていた。

ベンチに座ると、読みかけの本のページを捲ってゆく。



一週間後、郵便受けに白い封筒が入っていた。

部屋に戻って机上に置いて、本を読み終わってから中身を読むことにした。

陽が落ちてきた頃、本を閉じると、封筒を開いた。



「返事ありがとう。

ちゃんと届いててよかった。


こっちは少しずつ慣れてきたよ。

駅までの道も、やっと間違えなくなった。

最初は同じところをぐるぐるしてて、 自分でも笑っちゃった。


最近は天気がころころ変わるね。

窓を開けると、知らない音がいっぱい入ってくる。

前より静かだけど、これはこれで悪くないかも。


本を読んでるって聞いて、いいなって思った。

私はまだ落ち着かなくて、 何か始めても途中で別のことをしてしまう。


また時間があるときに、そっちの近況も教えてね。」



読んでいると、新しい生活に慣れてきたようで胸を撫で下ろした。

僕は嬉々として紙をなぞり始める。



「同じところをぐるぐるしてた話、読んでてふふってなっちゃった。


エミは晴れの日が好きだって言ってたもんね。

天気がコロコロ変わるの、僕は結構好きだよ。

毎日違う景色を見られるのは、いい刺激になる。


まだ落ち着かないのも無理ないよ。

一日一ページだけでも読んでみてね。


もう桜が散り始めたね。

時間が経つのが早くて、怖くなってくるよ。


僕は最近風邪気味で、家でゴロゴロしてるよ。」


すぐに送りに行こうかと思ったが、封筒を引き出しにしまった。

それから二週間、僕は本を開かなくなっていた。

桜も散り、中途半端な季節はやる気を削いでいき、何をするのも億劫だったからだ。



「返事、少し遅くなってごめんね。

なんだか一日があっという間で、気づいたら夜になってることが多くて。


最近はやっと周りを見る余裕が出てきたよ。

駅の近くに小さなパン屋さんがあって、朝通るたびにいい匂いがする。

まだ勇気出なくて入ってないけど。


天気が変わりやすいのは相変わらずで、

晴れたと思ったら急に曇ったりしてる。

でも、洗濯物が乾く日はちょっと得した気分になるね。


本の話、読んでて楽しそうだなって思った。

私は相変わらず落ち着きなくて、

気づいたら部屋の片付けを始めて、途中でやめて、また別のことしてる。


体調、大丈夫?

無理しないでね。


また時間できたら書くよ。」



僕は慣れた手つきで淡々とペンを動かした



「返事は時間があるときで大丈夫だよ。


僕の方は昼の時間が短くなった気がする。

夜だけが長くて、中々眠れない日も増えてきた。


パン屋さん、いいなぁ

僕も今度近くにあるパン屋さんに行く事にするよ。

勇気が出たら、味の感想を教えてね。


最近、本を読む機会が無くなってきたんだよね。

きっと、この中途半端な季節のせいだと思うんだけど。

気づいたら、ベッドの上で考え事ばかりしちゃうし、早く夏になってほしい。


体調は良くなったよ。

そっちも無理しないでね。

あと、良かったら今度そっちに行きたいな。」



ポストへ入れに行く途中、パン屋が見えたので、一つ買って帰ることにした。

出来立てのパンの匂いを嗅ぐだけで、その味が想像出来る。

きっとおいしいに違いない。

僕はそれをお母さんに渡すと、ベッドに寝ころんだ。


それから二週間、僕はただ街を歩く生活を続けていた。

どこへ行っても、記憶が追いかけてくる感覚があり、それから目を背けようと必死に下を向いている。

散歩から帰ると、郵便受けを覗いた。

そこには一つの白い封筒があり、ゆっくりと持ち上げ、その場で開いた。



「手紙ありがとう。


夜が長いっていうの、なんとなく分かる気がする。

こっちも、気づいたら外が暗くなってることが多いよ。


パン屋さん、この前また前を通った。

今度こそ入ろうと思ったのに、結局そのまま通り過ぎちゃった。

でも、あの匂いを嗅ぐだけで少し気分が変わるから、不思議。


最近は、夏が来るのがちょっと楽しみ。

暑いのは苦手だけど、季節がはっきりしてる方が分かりやすいよね。


体調が良くなったなら安心した。

無理しないでね。


また書くね。」


僕はそれを読むと、しばらく何もできずにいた。

ただ、流れる白い雲を眺めている。




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