司祭は嘘を言えませんので

那由多

司祭は嘘を言えませんので

町の朝は、小瓶こびんこびんの鈴の音から始まる。


 露店の軒先に、親指ほどの瓶が何十本も並ぶ。透明なもの、淡い金色のもの、琥珀こはくのもの、そして光を吸うように濃いもの。紙札には名前も産地も書かれない。書かれているのは数字だけだ。


 等級九。等級八。等級六。等級三。


 売り手は瓶を振って香りを嗅がせ、買い手は目を細める。みつは、告白こくはく蒸留じょうりゅうして得られる液体だ。飲めば、言葉の背後にあった熱が舌から胸へ落ちてくる。少しだけ楽になれる。少しだけ強くなれる。少しだけ眠れる。


 だから町は、蜜を欲しがる。


「等級は小さいほど濃い。九は薄い。八はまだ味がする。六なら夜が静かになる。三は……人生が曲がる」


 露店の老人が、いつものように独り言みたいに言う。誰に教えるでもなく、誰もが知っていることを言うのは、言葉に値札が付いた町の癖だ。


「一は見たことある?」

「あるわけねえ。あれは……売り物じゃねえ」


 笑い声が上がる。笑いはするが、声は低い。冗談が本気に触れてしまうのを、誰もが避けている。


 市場から一本外れた石畳の坂を上ると、白い壁の建物がある。門扉に掲げられた木札には、律儀な字でこう刻まれていた。


司祭しさいうそを言えませんので」


 建物の名なのか、注意書きなのか、誰も確かめない。確かめる必要がないからだ。扉を開ければ、嘘が入り込む余地のない香が満ちている。


 香炉こうろの白い煙が、天井に薄く溜まっている。奥の部屋に、告解席がひとつ。銀の秤はかりがひとつ。ガラスの蒸留器がひとつ。小瓶と無記名の札が、棚に整然と並んでいる。


 司祭はそこにいる。黒い手袋をして、いつも同じ姿勢で待っている。


 来訪者が扉を閉めると、司祭は顔を上げ、静かに言った。


「誤解があると困ります。私は嘘を言えませんので」


 それが、この部屋で交わされる最初の挨拶だった。


 ◇


 一人目の相談者は、薄い上着の青年だった。袖口が擦り切れている。視線が忙しく、棚の瓶を何度も盗み見ている。けれど瓶ではない、と自分に言い聞かせるように胸を押さえる。


「……告白を」


 青年は言いかけて、喉を鳴らした。司祭は急かさない。急かすことは押すことに近い。押せば、それは自発ではなくなる。


「あなたの言葉で」


「はい。……ぼくは、仕事で。少しだけ……盛りました」


 青年は耳を赤くした。


「報告書の数字を、ちょっとだけ。上司が機嫌よくなるから。大したことじゃないんです。でも、胸が……ここが、ぴりぴりする」


 司祭は頷いた。断罪も赦しもない頷きだ。黒い手袋が、秤の皿を軽く叩く。


「ここに言葉を置いてください」


「言葉を……?」


「置くつもりで話してください」


 青年は息を整え、もう一度同じ告白を口にした。すると秤の針が、ほんのわずか震えた。重さというより、湿り気を測っているみたいな揺れだった。


 司祭はその揺れを見て、淡々と言った。


「薄い」


 青年の顔が硬くなる。司祭は続ける。慰めの形をした事務連絡として。


「薄いのは、悪いことではありません。……あなたの告白には、価値がある」


 青年は、目を瞬かせた。


「価値……?」


「価値は、出来事の大きさではありません。あなたがそれを、どれだけ手放したいか。言い直すなら、言葉に耐えられないほど抱えているかです」


 司祭は蒸留器に火を入れた。香炉と同じ所作だった。祈りと抽出が区別されない世界で、司祭は区別しない。


「蒸留しますか」


 青年は迷った。迷うのは健全だ。けれど胸のぴりぴりが、迷いの隙間を埋めてくる。青年は強く頷いた。


 ガラス管に、目に見えないものが満ちていく。やがて小瓶の底に、薄い金色が溜まった。香りは甘いが、軽い。舌の先で消える甘さだ。


 司祭は札に数字を書いた。


 等級八。


 青年は安心したように息を吐き、次の瞬間に不安そうに眉を寄せた。


「……八って、低いですか」


 司祭は首を傾げた。


「小さい数字ほど濃い。八は、薄い部類です」


 青年は頬を赤くした。恥ずかしさの赤と、すぐに稼げるかもしれないという赤が混ざった。


「じゃあ……ぼくのは……」


「薄い。だから飲みやすいとも言えます。売りやすいとも」


 司祭は小瓶を差し出した。


「これはあなたの告白です。売っても、捨てても、飲んでもいい。私はあなたに害を与えられません。罰することもできません」


 青年は小瓶を受け取り、札を撫でた。等級八。薄い、と言われたのに、胸のどこかが温かい。自分の中身が数字になったことが、妙に嬉しい。


 帰り際、青年は振り返った。


「……また来ても、いいんですか」


 司祭は頷く。嘘を言えない者の頷きは、軽くない。


「扉は開いています。ですが、自発的な告白しか扱えません」


 青年は「はい」と言い、坂を下っていった。


 その日の夕方、青年は市場で等級八を売った。大金にはならない。だが擦り切れた袖口を、直せる程度にはなった。布屋の前で、青年は一瞬だけ迷い、それから新品の上着を買った。


 新しい袖口を撫でながら、青年は思った。


 次は、もっと小さい数字を。


 その夜、青年は眠りが浅かった。ぴりぴりが消えた代わりに、数字が脳裏で鳴った。


 ◇


 二人目の相談者は、痩せた女だった。爪が短い。指の腹に、瓶を扱う者の固い皮がある。市場で瓶の札を貼る手つきと同じ手つきで、膝の上で指を組んでいる。


「眠れません」


 女は、口を開けた瞬間にそう言った。司祭はすぐ言う。


「私は医者ではありませんので」


 女は笑いかけた。笑いが頬の上で止まっている。


「分かってます。……蜜を飲むと、眠れるんです。人の告白の蜜。あれを舌に落とすと、頭の中が静かになる。自分の声が消える。だから……」


 女は手を見つめた。


「飲みすぎました。昨夜は、三本。等級七と、六と……六」


 言いながら、女は自分の喉を撫でた。甘さがまだ残っている。


「飲んだ蜜の人たちが、夢に出るんです。わたしの夢なのに、わたしの声じゃない。笑い方が、わたしのじゃない」


 司祭は、秤を指した。


「それは告白ですか」


 女は、少しだけ迷い、ゆっくり頷いた。


「……はい。わたしが言います」


 司祭は頷いた。


「沈黙は罪ではありません」


 女の肩がほどける。救われたような顔になる。司祭は続けない。続ければ、女が「黙って飲み続けていい」と誤解するかもしれない。だが司祭は、嘘を言えない。嘘を避けるには、言葉を増やさないことも必要だ。


 それでも女は、自分で言葉を足してしまう。


「でも、黙ってられないんです。……蜜を飲むと分かる気がするんです。誰が誰を嫌ってるとか。誰が何を隠してるとか。分かった気になると、怖くない。知らないほうが怖い」


 女は唇を噛んだ。


「わたし、隣の家の手紙を……読んだことがあります」


 司祭は視線を落とし、秤の皿に手を添えた。押さない。促さない。置く場所を示すだけ。


「それは、あなたが自分で言いたい言葉ですか」


 女は喉の奥を鳴らした。


「……はい」


 女が告白を繰り返すと、針が青年の時より深く震えた。出来事は小さい。けれど女はそれを、何度も何度も思い返している。舌の裏で味わっている。だから言葉に湿り気がある。


 蒸留器の底に溜まった蜜は、濃い琥珀色だった。香りは甘いが、後味が刺す。


 司祭は札を書いた。


 等級六。


 女は肩を落とし、同時にどこか安堵した。市場で等級六は、よく売れる。よく効く。薬よりも。


 司祭は小瓶を差し出し、いつもの言葉を言った。


「あなたの告白には、価値がある」


 女は小瓶を受け取った。微笑みは疲れているのに、嬉しそうだった。


「価値があるなら……わたしは、まだ大丈夫ですね」


 司祭は否定できない。否定は嘘になりやすい。司祭は代わりに、淡々と述べた。


「飲むかどうかは、あなたが決めます。私はあなたに害を与えられませんので」


 女は「分かってます」と言って帰った。


 その夜、女は自分の蜜を舐めて眠った。眠れた。眠れたことが、次の日の不安を増やした。眠れない夜は苦しいが、眠れる夜は次を欲しがる。


 翌日から、女は他人の扉の前で足を止めるようになった。物音に耳を澄ませる。窓の隙間から匂いを嗅ぐ。蜜の香りがする気がした。


 女は気づいている。これは「手紙を読んだ罪」の続きだ。けれど続きには、値札が付く。値札が付くなら、救いに変えられる気がする。


 数日後、女はまた聖堂に来た。顔色が青白い。


「わたし、昨日の夜……自分が誰の人生を生きてるのか分からなくなりました」


 司祭は秤に視線を落とす。


「それは告白ですか」


 女は頷きかけて、止まった。自発的かどうかを確かめるように、胸に手を当てる。


「……はい。わたしが言います」


 司祭は頷き、蒸留器の火を点けた。


 蜜は、等級六より少し濃くなった。等級五。女はその数字を見て、泣きそうに笑った。


 市場で等級五は、夜を深く沈める。


 女は、沈んだ。


 ◇


 三人目の相談者は、肩幅の広い男だった。市場で瓶を扱う者だ。瓶を買い取り、札を貼り替え、客に香りを嗅がせる。指が、匂いと数字の扱いに慣れすぎている。


 男は告解席に座るなり、こう言った。


「俺は正直者だ」


 司祭は即座に返す。


「誤解があると困ります。私は嘘を言えませんので」


 男は笑った。


「それがいい。……だから話す。最近、蜜がよく売れる。等級が小さいほど、飛ぶように。町の連中は飢えてる。知らないと不安で死ぬみたいにな」


 男は棚を見た。瓶を数える目だ。


「だが、等級三とか二とか、滅多に出ない。出たら出たで、足りない。俺は……足りないのが嫌いなんだ」


 司祭は断定しない。


「あなたがそう思うなら」


「そう思う。だから俺は……段取りをした」


 男は、さらりと言った。


「揉め事を。秘密を。告白を」


 司祭の手袋が、秤の縁に触れた。触れたが、押さない。司祭は直接害を及ぼせない。押して転ばせることも、喉をこじ開けることもできない。


「あなたの言葉で、続けてください」


 男は嬉しそうに語り始めた。語ること自体が、告白の一部だ。けれどこの男の語りは、告白というより計画書に近い。


「酒場で耳打ちする。『あいつが、お前のことを嗤ってた』とな。嘘は言わない。俺は事実の欠片を混ぜるだけだ。『昨日、あいつはお前の席を見た』とか、『お前が来た後に笑った』とか。人は勝手に繋げる。勝手に燃える」


 司祭はゆっくり息を吐いた。嘘を言えない者の沈黙は、軽くない。


 男は続ける。


「燃えたら、誰かが泣く。泣いたら、誰かが来る。ここに。告白を持って。俺はその帰りを待つ。小瓶を買い取る。等級が小さけりゃ、俺の取り分も増える」


 男は肩をすくめる。


「俺が手を下したわけじゃない。俺は直接害を与えてない。……な?」


 司祭は否定しない。肯定もしない。司祭は、秤を指した。


「その言葉を、ここに置いてください」


 男は一瞬だけ顔を曇らせた。置きたくない言葉だ。だが置けば値が付く。値が付けば、損にならない。男は損を嫌う。


「俺は……人を燃やして、告白を作った」


 針が揺れた。だが深くは沈まない。揺れは乾いている。言葉が軽いのではない。男の胸が、その言葉に耐えてしまっている。


 蒸留器が鳴る。落ちた蜜は、薄い茶色だった。香りが甘いふりをしているだけの匂いだ。舌の奥に、粉っぽい苦さが残る。


 司祭は札を書いた。


 等級八。


 男の顔から笑いが消えた。


「……八だと?」


 司祭は淡々と言う。


「あなたはそれを、手放したいですか」


 男は言葉に詰まった。手放したい? 手放す? この段取りは、男の仕事だ。誇りだ。生き方だ。


「……手放したくない」


 司祭は頷く。針は正直だ。司祭も正直でしかいられない。


「なら、言葉は濁ります。濁った告白は薄く落ちます。数字は大きくなる」


 男は苛立ちを噛み砕くみたいに笑った。


「じゃあ、俺は……もっと手放したくなることをやればいいんだな」


 司祭は否定できない。否定は、未来を断言することになりやすい。司祭はただ告げる。


「私はあなたに害を与えられません。選ぶのはあなたです」


 男は鼻で笑い、小瓶を受け取った。等級八。薄い。売れない。男の目が、次の段取りを探し始める。


 男が扉を出る前に、司祭はいつもの言葉を置いた。


「あなたの告白には、価値がある」


 男は振り返り、笑った。


「価値があるなら、価値が出るように作ればいい。……そうだろう?」


 司祭は首を傾ける。答えない。答えれば誘導になるかもしれない。司祭は、嘘を言えない。


 男は坂を下っていった。


 数日後、町の市場で喧嘩が増えた。隣人同士の目が尖った。笑い声が薄くなった。誰もが、相手の口の端を見て、次に漏れる言葉を待つようになった。


 そして、蜜の瓶が足りなくなった。


 不思議なことに、喧嘩は増えたのに、等級の小さい蜜は増えない。強い言葉で脅されて吐かれた告白は濁りすぎて、蒸留しても何も落ちないからだ。


 価値が欲しいのに、価値が出ない。


 価値が出ないなら、もっと強くすればいい。


 そんな理屈が、町のあちこちで生まれていく。


 ◇


 青年は二度目に来た。新しい上着を着ている。けれど袖口は、もう少しだけ汚れている。


「司祭さん。……八は薄いって言いましたよね」


 司祭は頷いた。


「市場では」


「じゃあ、ぼくは……もっと小さい数字が欲しい」


 青年は言ってから、はっと口を押さえた。自分が何を言ったか分かったからだ。救いではなく数字を求めている。けれどそれを言ったのも、自発的だ。


 司祭は秤を指す。


「あなたの言葉で」


 青年は息を吸った。


「ぼくは……同僚の失敗を、直さずに出しました。見つかれば、あの人の評価が落ちる。ぼくは上がる」


 針が沈む。青年の肩が震える。言葉に耐えられていない。耐えられないほど、抱えている。


 蜜は、等級六になった。


 青年は数字を見て、ほっとしたように笑い、それから泣きそうに顔を歪めた。


 司祭は同じ言葉を言う。


「あなたの告白には、価値がある」


 青年は、価値を救いだと受け取りたかった。だが価値は、貨幣にもなる。貨幣になる救いは、癖になる。


 女は三度目に来た。目の下に濃い影がある。


「わたし、最近……自分の話を思い出せないんです」


 女は言う。司祭は秤を指す。


「あなたの言葉で」


 女は唇を噛んだ。


「他人の告白を飲みすぎて……わたしの記憶に、他人の罪が混じりました。わたしがやってないことを、わたしがやったみたいに思ってしまう。怖い」


 針が震え、蜜は等級四になった。濃い。よく効く。よく売れる。よく溶かす。


 女は数字を見て、震える指で小瓶を握った。


 司祭は同じ言葉を置く。


「あなたの告白には、価値がある」


 価値は、救いの顔をして近づいてくる。


 ◇


 四人目の相談者は、役人の印章を首から下げた老人だった。靴が綺麗すぎる。坂道に慣れていない歩き方で、聖堂の石床を踏むたびに、靴音がひとつ多く響いた。


 老人は告解席に座らず、立ったまま頭を下げた。


「私は……告白税こくはくぜいを定めた者です」


 司祭はすぐに言った。


「誤解があると困ります。私は嘘を言えませんので」


 老人は苦く笑った。


「その木札を見て来ました。……だから、ここでしか話せない」


 老人は両手を合わせた。祈りの形だが、指が震えている。


「私は、告白が増えれば、人は嘘を減らすと考えました。隠して腐るより、言葉にして処理したほうがいいと。蜜が薬になるなら、町の役にも立つと」


 司祭は断定しない。


「あなたはそう考えた」


「そうだ。……だが、増えたのは処理ではなかった」


 老人は目を閉じた。


「言葉が増えた。数字も増えた。だが町は楽にならなかった。人は、楽になるために告白するのではなく、値の付く告白を持つために動き始めた」


 老人はゆっくりと顔を上げた。


「最初は些細なことだった。小さな嘘、小さな盗み、小さな意地悪。それを蒸留すれば、薄い蜜が落ちる。薄い蜜でも売れる。薄い蜜でも飲める。そうして……だんだん、薄い蜜では足りなくなった」


 司祭の黒い手袋が、秤の縁に触れる。触れるだけだ。


 老人は続けた。


「私は止めるべきでした。だが止められなかった。税を引き下げれば財政が崩れる。蜜の売上が、冬の炭代に回っている。病の薬代に回っている。……救いの一部が、蜜に繋がってしまった」


 老人の声が、少しだけ掠れた。


「さらに……私は、匿名のはずの蜜に、目印を残しました」


 司祭は問い返さない。問い返せば誘導になる。老人が自発的に言わない限り、司祭は掘らない。


 老人は、自分で言う。


「札に筆癖を混ぜた。瓶の口に癖を残した。誰の告白か、分かる者には分かるように。そうすれば皆が慎重になると思った。……だが慎重になったのは、告白ではない。告白の狩り方だった」


 扉の外で、遠くの喧騒が聞こえた。市場の方角だ。瓶の鈴の音ではない。怒鳴り声と、何かが倒れる音。


 老人は胸を押さえる。


「町ではいま、沈黙が疑われています。黙っている者ほど何かを隠している、と。皆が皆、他人の喉に値札を貼ろうとしている」


 司祭は静かに言う。


「沈黙は罪ではありません」


 老人が救われたように息を吐く。司祭は、同じ声色で事務連絡みたいに付け足す。


「ですが、損だと感じる者が増えると、沈黙は居場所を失います」


 老人は、目を閉じて頷いた。見えている。分かっている。分かっているのに止められない。止めるためには、まず言葉にしなければならない。言葉にすれば……値が付いてしまう。


 司祭は秤を指す。


「それは、あなたが自分で言いたい言葉ですか」


 老人は震える声で答えた。


「誰かに言わされているわけではない。私は、私の口で言う」


 司祭は頷いた。自発的な告白だけが、ここでは形になる。


 老人は告白した。


「私は、町をこうした。私は、目印を残した。私は、沈黙を居場所のないものにした」


 秤の針が、大きく沈んだ。蒸留器のガラスが、今度ははっきり鳴った。落ちた蜜は、黒に近い金色だった。香りが甘い。甘いのに、鼻の奥が痛い。


 司祭は札を書いた。


 等級二。


 老人の顔が泣き笑いになる。二。市場では滅多に見ない数字だ。二は、飲めば人生が曲がる。売れば町が動く。


 司祭は小瓶を差し出し、いつもと同じ言葉を言う。


「あなたの告白には、価値がある」


 老人は小瓶を受け取った。指先が熱い。瓶が燃えているわけではない。老人の中で、耐えられない言葉が燃えている。


「これを……売れば、町は……」


 司祭は首を傾げる。


「私は未来を断言できません。断言は嘘に近いので」


 老人は唇を噛み、小瓶を懐に入れた。膝が少しだけ折れた。だが立ち上がり、ふらつく足で聖堂を出ていった。


 その夜、等級二の蜜が市場に出た。


 買ったのは、三人目の男だった。男は瓶の口を舌で確かめ、札の筆癖を見た。目印は確かにある。老人の告白は、制度の核の告白だ。目印の告白だ。町全体に関わる告白だ。


 男は笑った。笑いながら、背筋が震えた。震えは恐れではない。興奮だ。


 翌朝、町は静かだった。静かすぎた。人々は目を合わせない。目だけで相手の喉元を探す。子どもが泣くと、母はすぐに口を塞いだ。泣き声が漏れれば、言葉になる。言葉になれば、価値になる。価値になるものは、狙われる。


 誰かが言った。


「二を飲んだ。役人は目印を残してた」


 誰かが言った。


「じゃあ、あいつの札にも……」


 誰かが言った。


「お前の瓶、口が欠けてるな」


 誰かが言った。


「黙ってる奴ほど、価値がある」


 沈黙が、いちばん高く売れる原料になった。


 人々は喉を探り合った。だが強制された告白は濁る。濁った告白は落ちない。落ちない蜜は売れない。売れないなら、もっと強くすればいい。もっと怖がらせればいい。もっと追い詰めればいい。


 町のあちこちで、扉が叩かれた。扉が開かなければ、窓が割られた。窓が割れれば、叫び声が漏れた。叫び声は言葉になる。言葉になれば、価値に変えられると思われた。


 だが叫び声は濁りすぎる。蒸留しても、空の瓶が増えるだけだった。


 空の瓶が増えると、人々はもっと苛立った。空の瓶は損だ。損は許されない。損を取り返すために、人はさらに相手の喉に手を伸ばす。


 青年は市場で、新しい上着の袖を握りしめた。彼は、二を買えなかった。二は高すぎる。だから彼は、自分の中で二を作ろうと考えた。


「もっと小さい数字を」


 その言葉が、舌の上で転がった。


 女は家の隅で膝を抱えた。誰かの告白が混じりすぎて、自分の名前が薄い。薄い名前は、簡単に奪われる。奪われるくらいなら、自分から差し出したほうが損が少ない。そんな計算が、女の胸で静かに回る。


 三人目の男は、町の騒ぎを見ながら思った。


 今なら、人は本当に手放したい告白を吐く。


 手放したい告白は澄む。


 澄んだ告白は、数字が小さくなる。


 男は、ようやく自分の等級八の意味を理解した。誇りの言葉は濁る。自慢の告白は薄い。本当に耐えられない言葉だけが、澄んで落ちる。


 男は笑った。笑いながら、喉が渇いた。


 そして、聖堂の扉が叩かれた。


 ◇


 司祭はいつものように顔を上げる。黒い手袋。銀の秤。ガラスの蒸留器。棚の小瓶。


 扉を開けても、誰も入ってこない。


 外は灰色の空だった。坂道の下に、煙が見える。市場の方角だ。瓶の鈴の音はしない。代わりに、遠くで木が折れる音がした。


 司祭は扉を閉め、告解席に向き直った。



 ◇ 


 市場の露店は、いつの間にか三つに分かれていた。


 ひとつは、薄い蜜を売る店。等級九、八、七。水で割った薬のように、日常へ溶ける甘さだ。買うのは、眠れない者や、胃の底が冷える者や、ただ退屈な者。


 ひとつは、濃い蜜を売る店。等級六、五、四。飲めば言葉が骨まで入り、夜が沈む。買うのは、もう戻れない者たちだ。買うときの目は、病人の目に似ている。


 そしてひとつは、売っていない店。


 瓶はある。札もある。けれど売り手は、瓶の口を布で縛って、客に見せるだけだ。


「二は見せ物だ。飲むと死ぬって意味じゃねえ。……生き方が変わる」

「三でも危ねえ。昨日の俺が、今日の俺を赦さなくなる」


 客は笑う。笑いながら、喉を鳴らす。値札を見せられると、人は自分の喉の奥を覗きたくなる。


 等級の話をする声は多い。だが、等級の意味を正確に言える者は少ない。


「罪が重いほど小さいんだろ」

「違う。派手なほど小さい」

「いや、泣いたほど小さい」


 露店の老人が、いつもの独り言みたいに言った。


「数字はな、罪の大きさじゃねえ。舌の澄み方だ」

「澄み方?」


 若い客が聞き返す。老人は肩をすくめ、瓶を指で弾いた。


「言いたくない言葉ほど澄む。吐き出したくて仕方ない言葉ほど澄む。だから小さくなる」

「じゃあ……悪いことしたやつほど小さい?」

「逆もある。善い顔で生きてきたやつほど、小さくなることがある。自分で自分に耐えられねえからだ」


 客は笑った。笑いはすぐに喉で詰まった。


 小さい数字が欲しい、と誰もが思い始めている。


 救いのためではない。価値のために。


 ◇


 三人目の男は、聖堂の坂を駆け上がってきた。いつもは堂々としている肩が、いまは妙に小さい。背中に汗が張り付いている。


 扉を開ける手が乱暴になりかけて、男は自分で止めた。乱暴は損だ。損は嫌いだ。だが喉の奥に、焦げた甘さがある。


 司祭は顔を上げる。


「誤解があると困ります。私は嘘を言えませんので」


 男は息を整えるふりをして、笑った。


「分かってる。……聞け。どうしたら二になる」


 司祭は首を傾げた。答え方は、嘘になりやすい。


「私は教官ではありませんので」


 男は舌打ちしそうになって飲み込んだ。


「じゃあ言い方を変える。……二の告白は、どういう告白だ」


 司祭は秤を指した。


「あなたの言葉で話すなら、私はそれを測れます」


「測るんじゃなくて、教えろって言ってんだ」


 司祭はゆっくりと息を吐いた。煙が香炉から上がるのと同じ速度で。


「誤解があると困ります。私は嘘を言えませんので」


 男は苛立って笑った。


「嘘じゃなくていい。真実の欠片でいいだろ。お前が得意なやつだ」


 司祭は、断言を避ける形で言った。


「数字が小さいのは、出来事が派手だからではありません。言葉が澄んでいるからです」


「澄んでる?」


「あなたがそれを抱えきれないほど、言葉があなたの中で暴れているとき、澄みます。あなたがそれを手放したいと願うとき、澄みます」


 男は唇を噛んだ。自分の等級八の味が、急に苦くなる。


「じゃあ俺は、手放したくないから八だったってか」


 司祭は頷いた。頷きは刃物みたいに正直だ。


 男は低い声で笑った。


「……ふざけてる。俺は町を動かしてる。俺は価値を作ってる。なのに俺の言葉は薄い?」


 司祭は否定しない。肯定もしない。ただ、秤を見ている。


「あなたの告白には、価値がある」


 男はその言葉を、祝福として受け取れなくなっていた。値札だ。薄い値札。


「じゃあ、俺はどうすりゃいい。二が欲しいんだ。二がなきゃ、俺は……」


 司祭は静かに言う。


「断言はできません。断言は嘘に近いので」


 男は、息を吐いて笑った。


「……分かった。じゃあ俺は、澄ませてやる。俺の言葉を、俺の中で暴れさせてやる」


 そう言って男は出ていった。


 司祭は止めない。止めることは押すことに近い。押せば自発ではなくなる。自発でなければ、ここでは何も落ちない。


 扉が閉まる。香炉の煙が揺れる。秤の針は、揺れない。


 ◇


 男は町で、澄ませようとした。


 最初は簡単だった。噂を流す。火をつける。扉を叩かせる。誰かの沈黙を値札に変える。男は自分の段取りに酔い、喉の渇きを蜜で潤した。


 だが何をしても、男の胸の中に“抱えきれない言葉”は生まれなかった。


 誰かが泣いても、男は売上を数えた。

 誰かが逃げても、男は動線を考えた。

 誰かが黙っても、男は札の筆癖を探した。


 澄まない。言葉が濁る。濁るのは、罪のせいではない。男の胸が硬すぎるせいだ。


 男は理解した。二が出ないのは、町が壊れていないからではない。自分が壊れていないからだ。


 その理解が、ほんの少しだけ男の胃を痛くした。


 痛みは、習慣のない者には鋭い。


 ◇


 青年は、今度は市場へ行けなかった。


 同僚の失敗を直さずに出した件が、別の形で発覚したからだ。責任を押し付け合う声の中で、青年は自分の喉が乾くのを感じた。


 言葉が欲しい。言葉が出ない。言葉が出たら、また価値になる。価値になれば救われる気がする。


 青年は無意識に、聖堂の坂へ足を向けた。


 途中、三人目の男と目が合った。


 男は、青年の喉元を見た。


 青年は、男の指先を見た。あの指先は、瓶の口を確かめる指先だ。数字を嗅ぎ分ける指先だ。


 青年は口を押さえ、走った。


 走る途中で、青年は気づく。


 自分は「次はもっと小さい数字を」と思っている。

 その思いがもう、告白より先に自分を動かしている。


 人生が原料になっている。


 青年は笑いそうになって、泣きそうになった。


 ◇


 女は家の中で、息を殺していた。


 窓の外で、扉が叩かれる音がする。隣の家か、向かいの家か、自分の家か。判断する前に、誰かの声が上がる。怒鳴り声。泣き声。懇願の声。


 声が漏れれば、価値になる。

 価値になれば、狙われる。


 女は自分の口を手で塞いだ。塞いだ手のひらが、自分のものかどうか分からない。女の中には他人の告白が混じりすぎている。


 女は思った。


 もう、知りたくない。

 もう、飲みたくない。

 もう、言葉が怖い。


 その三つの「もう」が、女の胸の中で一つの塊になる。塊は、言葉になる前の形をしている。


 女は立ち上がった。足が勝手に動く。足が向かう場所は一つしかない。


 司祭の聖堂。


 ◇


 女が扉を開けると、司祭は顔を上げた。


「誤解があると困ります。私は嘘を言えませんので」


 女は頷く。頷き方まで、もう自分のものではない気がする。けれど胸の奥に、ひとつだけ自分の痛みがある。痛みがある限り、自分だ。


「……わたし、もう、飲みたくない」


 司祭は秤を指す。


「それは告白ですか」


 女は息を吸う。息を吸う音が、香炉の煙に触れる。


「はい。わたしが言います」


 女は続けた。


「わたしは、他人の手紙を読んだ。扉の前で耳を澄ませた。窓の隙間から匂いを嗅いだ。告白を飲んだ。……飲んで、安心した。安心したくて、また飲んだ」


 女の声が震える。震えは恐れだけではない。自分の中の誰かが、出ていく準備をしている震えだ。


「わたしは、わたしの声を捨てた。わたしの夜を、他人の夜で埋めた」


 秤の針が沈んだ。沈み方が、これまでと違う。湿り気が深い。言葉が澄んでいる。


 司祭は蒸留器に火を入れる。祈りと抽出が同じ所作で進む。


 落ちてきた蜜は、色がほとんどなかった。


 透明に近い。だが透明なのに、見ていると息が詰まる。水の形をした沈黙みたいだ。


 司祭は札を書いた。


 等級一。


 女はその数字を見て、笑った。笑いはすぐに泣き声になる。泣き声になりかけて、女は口を押さえた。泣き声が漏れたら、価値になる。価値になれば、狙われる。


 女は司祭を見た。


「……一は、売り物じゃないって」


 司祭は首を傾ける。


「売るかどうかは、あなたが決めます」


 女は小瓶を受け取った。瓶は軽いのに、手が震える。女は知っている。これを市場に出せば、町がまた燃える。燃えた火は、もう消せない。


 司祭はいつもの言葉を言う。


「あなたの告白には、価値がある」


 女は小瓶を握りしめ、低い声で言った。


「価値があるなら……価値にしないといけないんですか」


 司祭は答えない。答えれば嘘に近づく。司祭はただ、秤を見ている。


 そのとき、扉の外で足音が増えた。


 坂を上る音。

 息を切らす音。

 扉を叩く音。


「開けろ!」

「一だ! 一が出たって聞いた!」

「黙ってる女が入ったぞ!」


 女の背中が凍る。言葉はもう、外に漏れている。どこから漏れたのか分からない。漏れた時点で、値札が貼られる。


 司祭は女に言う。


「私はあなたに害を与えられませんので」


 それは保証ではない。免罪符でもない。ただの仕様だ。


 女は頷く。頷きながら、決める。ここで決めないと、誰かが決めてしまう。


 女は小瓶の栓を抜いた。


 司祭は動かない。止めない。止めることは押すことに近い。押せば自発ではなくなる。自発でなければ、等級一は成立しない。


 女は床に蜜を落とした。


 透明な蜜は、音を立てなかった。香りもしなかった。


 なのに、扉の外の怒鳴り声が、一瞬だけ薄くなった。


 言葉が、喉の奥で絡まったみたいに。


 叩く音が止まり、次に、低いざわめきが起こる。人が焦るときのざわめきだ。怒鳴り声が出ないことに、人は慌てる。


「……声が」

「……出ない」

「嘘だろ」


 嘘だと言うのは簡単だ。だが司祭は嘘を言えない。そしてこの現象は、嘘ではない。


 女は床に落ちた蜜を見つめた。透明な蜜は、床板の隙間へ吸い込まれていく。まるで最初から、ここに帰る場所があったみたいに。


 女は息を吐いた。息を吐いても、言葉が出ないことが、少しだけ嬉しかった。


 扉の外で誰かが、必死に口を動かしている。音にならない口の動きは滑稽で、恐ろしく、そして少しだけ可愛い。


 司祭は香炉の煙を見つめたまま、女に言った。


「沈黙は罪ではありません」


 女は頷く。頷きながら、初めて胸が軽くなる。軽くなるのは、救いではない。値札から降りた感覚だ。


 女は告解席を立つ。


 出ていく前に、司祭の棚の一番下を見た。


 空の小瓶が、ひとつ。


 白紙の札が、僅かに波打っている。


 女は分かった。


 あれは、誰かのための空ではない。

 この町が、まだ吐き出していない言葉のための空だ。


 女が扉へ向かったとき、司祭が最後に、いつもの声で言った。


「あなたの告白には、価値がある」


 女は振り返らなかった。


 価値は、もう要らない。


 扉の外では、声のない口たちが、まだ値札を欲しがっている。


 司祭は秤の前に座り直し、空の告解席に向けて、いつもの手続きを置いた。


「あなたの言葉で」


 返事はない。沈黙だけがある。


 香炉の煙が揺れる。


 棚の空瓶の札は、まだ白いままだった。


 白い札は、待っている。


 次にこの町が、何を言うのかを。

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司祭は嘘を言えませんので 那由多 @hnomiya

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