ブルーエンペラー

しょうゆ

第1話 明けの明星

 目を覚ました。漠然とした意識の中、彼女の視界に映るのは知らない天井、鼻に通るそれは覚えのない古びた木の匂い。そこが彼女の知らない場所であるのは明らかであった。

 

―頭が痛い。何してたんだっけ。

 

 彼女が自分のいる場所に疑問を持つよりも先に、悍ましい記憶がフラッシュバックする。

 

―あぁ…そうだった私、あの時…

 

 アレは怪物だった。闇のように黒い巨体に狂気に満ちた赤眼、地が割れそうなほどの凄まじい轟音、全身を打ち砕く衝撃―それが彼女の最後の記憶—。あれほどの戦慄を彼女は経験したことがない。黒い怪物を前にただ彼女は硬直し、刀を抜くことさえできずそのまま―死んだと思われたがこうしてベッドの上で布団をかぶり、息をしている。

 意識がハッキリしていくにつれ、回帰した恐怖を打ち消すほどの安堵感に包まれた。

 体を起こそうとすると全身に激痛が走る。歯を食いしばりながらも上半身を起こすと、窓からさす光に彼女は目が眩んだ。斜陽を遮ろうと左手をかざすと金色の腕輪が輝いた。

 

―ここはどこだろうか。

 

 窓の外を見れば壮観な緑が広がる。ここがどこかの森林の中であろうことは容易に想像できる。部屋の中を見回す。木造のその空間は薄暗く、彼女を照らす光源は陽光のみ。ベッドの横にはチェストがあるが、この部屋にはそれ以外の家具がない。随分とこざっぱりしている。チェストの上にある鉢植えに彼女の目が留まった。一輪の花。白い花弁が俯いていた。彼女はしばらくそれを見つめていた。

 途端に視線はドアに移った。誰かが近づいてくる気配、それと同時に、何か不穏な気を彼女は感じた。ギシギシと床を踏む音が聞こえてくる。その音は確実にドアへの前に近づき、止まった。ドアノブが孤を描き、扉が奥へと開いていく。

 戦慄が彼女を襲った。

 

 ***

 

「俺の名前は デト 。ここは…俺の家だ。」

 この淡々とした低い声の主というのが彼女を保護した男である。大人びた雰囲気をまとったその青年は暗い青色を基調とした長い髪を結った姿で、肌は白く、一見女のようなのだが、高身長で筋肉質な体に冷徹な眼差しと無機質な表情も相まって彼の与える印象は鬼気森然としたものになっている。

「あ…えと…私の名前は リア です。助けてくれて、ありがとうございました。」

 

―まずい…他人と話すのなんてしばらくぶりだからうまくしゃべれない。それにこの人、ものすごく怖い。部屋に入ってきたときの威圧感、尋常じゃなかった。

 

 彼女は肌を蝕む張り詰めた空気感を思い出し、身震いした。

 

—あの怪物と向き合ったときと同じような…いやそれ以上? 今はそれほどだが、あの感覚は何だったんだろう。

 

 リアはベッドの端に腰を掛け、デトの様子をうかがっている。

 デトは壁に寄りかかって腕を組んでいる。彼の青い瞳がリアを捕らえていた。

「あんた、気を失って倒れていたが…何があったんだ?」

「それは…」

 リアはこれまでのことを話し始めた。

 *

 彼女は森を彷徨っていた。人間の街に向かおうとしていたが一向に出られる気配もせず、その森の中を歩き続けていた。

 身体に限界が迫り、ついには持っていた食料も底をつき始めた七日目の夜。疲れをとるために眠ろうと火を焚いていた時だ。森の様子が変わった。不穏な風が吹く。それまで静かだった木々が枝葉を鳴らし、カラスは飛び立ち警告の合図を響かせた。リアは腰に差している二つの刀を握りしめ、周囲を警戒する。

 森のざわめきが収まると、足音が前方から一歩ずつ、一歩ずつ近づいてくる。

 そしてソレは現れた。月明かりが照らす先にいるのは黒い鱗をまとった怪物。巨大な体に巨大な尾、鋭い牙に爪、明らかにリアが敵う相手ではなかった。互いに相手を見つめ、緊張が高まる。

『オオオオオオッ‼』

 怪物の叫ぶ声が周囲に轟く。

 リアは正気を失った。

 高まった恐怖心が思考を阻み、身体の自由を奪った。絶望に染まった顔。ただ赤眼に見つめられたまま震えることもない。

 怪物の後ろで漆黒の尾がうねる。怪物が前に踏み出した瞬間、黒い巨体が迫る。そして―

 *

「私が覚えているのはここまでです。」

 デトは変わらず腕を組み、リアを見つめている。

「その黒い怪物ってのはおそらくこの森に住み着いている地龍だな。」

 

―地龍。飛べないドラゴン。ドラゴン…あの威圧感は、それ相応のものだったわけか。

 

「よく生き残れたもんだ。」

 デトの目線がリアから虚空に移る。

「だが…。」

「どうしたんですか?」

 デトはリアの呼びかけに反応せずにしばらく何かを考えている様子だった。青い虹彩が赤い夕日に照らされる。一度目をつむり、ぎろりとリアを睨みつけた。リアは気おくれした。疑いをかけるような、観察をするような眼。デトの顔からは何を考えているのかは読み取れない。

「いや、何でもない。」

 視線が外れる。

 何だったんだとリアは首をかしげるが言葉には出さなかった。

「人間の街に向かっていたと言ったな。どこの街だ。」

「どこのというか。」

 言葉に詰まる。リアにはそれらしい回答をすることができなかった。なぜなら…

「実は、街の場所はわからないんです。」

 デトはいぶかしげな表情をする。初めてデトの表情が崩れた。

「その。私は幼いころから森の中で暮らしていて、一度も街に出たことがないんです。地図はあるんですけど、見方もいまいちわからなくて…。」

「…なるほど。」

 淡白な相槌をすると、デトは再び鋭い顔つきになった。

「一人か。」

「え?」

「一人で森の中で生活をしていたのか?」

「いや…。」

 リアは口をつぐむ。

「身内はいないのか。」

「…。」

 彼女の口はいまだ動かない。

 沈黙が空間を支配する。デトはリアを真っ直ぐ見ていたが、リアは俯くままであった。

 喋ろうとしないリアを見てデトは諦めた様子で扉の方へ向かった。

「…傷が癒えるまでここに居るといい。」

 そう言ってデトはドアノブに手をかけ、一度リアに横目で鋭い眼差しを向けた。蝶番の甲高い音とともにデトは奥に消えていった。

 足音が遠ざかっていく。デトの気配を感じることができなくなると、リアは肩を下ろした。緊張の糸がほぐれ、足をベッドの外に放ったまま倒れこんだ。

 

―このままここにいてもいいのだろうか。

 これから私はどうするべきか。

 あの男は何か危険な雰囲気がする。ここに来る前に出会った地龍とは違うものを纏っている。ヤツのような、単に威圧的で暴力的な恐ろしさではない。異様に歪んでいる、言葉では言い表せない何かが彼を包み込んでいる。言うなればそれは…

 

 ―呪い―

 

 まもなく日は落ちる。

 

―兎にも角にも、彼は危険だ。なるべく早くここを去りたい。だけど、武器もなにもない。背中から腰にかけてかなりの痛みがある。ここが森のどこに位置するかは全くわからない。

 この状態で外に行っても死ぬのは確実。あの男がどれだけ危険だろうと、しばらくここにいるのが最善の選択だ。

 私が今すべきことは彼の気分を害さないように気をつけること…少なくともここを出るまでは。

 

「身内…か。」

 外から入る光はほぼなく、部屋の明かりもついていない。薄暗い部屋のベッドの上でリアは天井を見ていた。次第にリアの瞳はまぶたに覆われ、意識が遠のいていく。

「ジーク…さん。」

 

 ***

―確か、五歳の時だ。私は捨てられた。暗い森の中に両親は私を一人街の外に置いて行った。理由は知っていた。だから、もう二度とあの家族には戻れないことを当時幼い私にすらわかってしまった。今でも覚えている、涙を流しながら母と父を叫びながら絶望を感じたことを。

 その時に一人の男が現れた。彼は ジーク と名乗り、私を拾ってくれた。ジークさんの家はとある森の中にあり、そこで私はジークさんに育てられた。

 そこでの生活は、贅沢ではないにしろ充実したものだった。街中で暮らしていた時では知ることのできなかったことをジークさんは教えてくれた。精神的にも、肉体的にも弱かった私は剣を指導してもらい、身を守る手段を身に着けることもできた。最初は警戒していた私はいつしか彼を信頼していた。

 私にとってあの人は親も同然だ。あまり笑わない人だが、とても優しい人。彼のいる生活がずっと続くと思っていた。

 だが、あの日、一年前、

 ―生きろ―

 そう書置きをしてあの人は私の前からいなくなってしまった。

 声にならない悲鳴が喉でつかえた。

 また、捨てられた。

 何故、何も言わず出て行ってしまったのか。

 あの日から私は笑うことができなくなった。部屋の隅でうずくまる日々。何もしない、何もしたくない。自分に自信を持つことができない。私は廃人と化してしまった。

 でも、そんな生活をしていてふつふつとある思いが沸き上がった。

 もう一度ジークさんに会いたい。会って話をしたい。どうして私の前からいなくなってしまったのかを聞きたい。

 そうしてジークさんが消えてから一年後、私は彼を探すことを決めて約十三年間暮らしたあの家を飛び出したのだ。

 

 ***

 

 再び彼女は目を覚ました。暗い部屋でむくりと上半身が起き上がる。先ほどとは違い、リアの顔は凛としていた。

 

―やっぱりここで立ち止まっているわけにはいかない。しばらくここにいるのが最善なのはわかっている。それでも私はあの人に早く…早く会いたい。

 

 もう一度リアはあたりを見回す。見る限り、彼女のものと思われる荷物はない。

 

―私の刀はどこだ。 あの男に聞いとけばよかった…いや、聞いても教えてくれないか。見ず知らずの人間に武器を渡すわけがない。

 

 体に走る痛みを無視して立ち上がり、ドアへと向かう。

 

―いや、まず無事なのか?  あの地龍に二つとも折られた可能性もある。最悪、武器になりそうなものでも盗んで…。

 

 リアは眉をひそめた。

 

―そういえばなんで私、生きてるんだろう。記憶は曖昧だけど、逃げられた覚えはない。デトとかいう人も私が倒れているところを見つけたというように言っていた。死んだと思ってとどめを刺し損ねた? 

 

 数秒考えたが答えにはたどり着かない。リアは思考を止めた。

―この際どうでもいいか、生きているのだから。ただ、問題は外にはまだあのドラゴンがいるということだ。アイツに遭遇しなければ良い。並みの動物やモンスターなら武器さえあれば倒せる。

 

 リアはドアを少しだけ開けて隙間から廊下を覗いた。暗闇が広がり先を見通せないが、デトの気配はしない。音を立てずに外へと出る。先ほどいた部屋を背にすると、闇の中でうっすらとドアが見え、向かい側にもう一つ部屋があることに気づいた。左手でドアノブをつかみ、壁に張り付いた。わずかにドアを開け、片目で中の様子をうかがう。雑多な景色が視界に入る。どうやら物置のようだ。狭い空間に向かい合って棚が並んでいる。

 

―ここにあるかもな。

 

 奥の窓から月明かりが差し込んでいる。

 足を踏み入れて静かに戸を閉めた。左右に並ぶ食料やガラクタたちを注意深く見て奥へと進むが、リアの刀は見つからない。

 

―リュックサックも見つからない。あの男が持っているか回収されていないか。あの人には悪いがこの辺の食料も持っていこう。あとは武器を…。

 

 リアは窓の下に細長い何かが立てかけられていることに気づいた。

 剣だ。鍔と鞘には青い装飾が施され、リアの腰までの長さがある。リアはそれを手に取り、鞘から刀身をわずかに出した。銀色の両刃にリアの姿が映る。

 ひんやりとした金属を手のひらで感じつつ、リアはじっくりと観察した。

 柄や鞘に埃はかぶっておらず、刃こぼれもない。随分丁寧に手入れがされているようだ。

 

―使える。これを持ち

 

 リアの体が入口の方へ向いた。

 足音がかすかに聞こえる。デトが近づいている。

 リアの鼓動が加速する。

 リアは剣を握りしめながらあたりを見回すと、右手の方に扉があることに気が付いた。

 

―外に繋がってる…。

 

 軋んだ音はだんだんと大きくなる。

 リアはデトのいるであろう方向をちらと確認し、再び森林への扉を見つめた。

 ドアノブがキュッと鳴き、回転する。

 ドアは闇へ消えてゆき、青髪の青年が現れた。

 デトが物置へと踏み入る。

 彼は誰もいない空間を眺めた。

 開け放たれた奥の扉から、冷たい空気が流れ込む。

 

 ***

「ハァッハァッ…。」

 息を切らしながら、リアは木々の間を駆け抜ける。時折後方を確認しながら、月明かりを頼りに前へ、前へと進む。

 次第に足取りは重くなり、ついには膝に手をついて止まってしまった。

 

―食料を盗み損ねたけど武器を手に入れられた。途中モンスターでも狩って食料は調達しよう。

 

 リアの手にはデトの物置から拝借した青い剣が握られている。

 深呼吸をし、荒い息を整える。

 

―とりあえずこの森を抜けださないと。あの男も追ってくるかもしれないし、早く安心できる環境に身を置きたい。だけど、7日間も歩き続けてたどり着けなかった人間の街がすぐ見つかるとは思えないな。運よく街道でも見つかればいいんだが…。

 

 リアは剣をベルトに差し、歩き出した。夢中で走っていた時には感じなかった体の痛みがリアを襲うが構うことなく歩を進める。

 木々は風で揺れているがそのざわめきは実に静かなもので土を踏む音がかき消す。

 先の見通せない暗い森を彼女は一人、ただひたすらに歩き続けた。

 するとリアは肌全体にピリつく感覚を覚えた。

 

―今何かを潜り抜けたような…。

 

 一瞬の肌に感じた違和感に一度歩みを止めたリア。しかしその小さな違和感をかき消すような違和感、否、気配を背に感じ取った。

 顔は強張り、汗が頬を伝い、全身が硬直した。

 息が詰まるような重い空気。

 リアは気配に覚えがあった。覚えがあった故に恐怖が襲う。恐怖を抑えつけ、後ろを振り向く。

 赤い目が彼女を見下ろしていた。

 突然に黒光りした大きな腕が振り下ろされる。リアはその場から跳び、迫りくる黒い物体を間一髪で避けた。黒い腕の勢いは止まらず、音を立てて地面にぶつかる。

 着地したリアはその豪腕の持ち主を睨みつけた。

 

―いったいどこから…。

 

 彼女の目に映っていたのは黒光りした巨体と赤い眼を持つ〝あの〟地龍であった。小さな翼を広げ、大地を踏みしめるその姿は堂々たるものである。

 

―いくら何でも運が悪すぎる。

 

 リアは迷うことなく剣を抜いた。

 

―殺す必要はない。片足だけでも使えないようにすれば逃げるチャンスができるはず。二度目はそう簡単にはやられはしない。

 

 前回とは違いリアは冷静を保っているが、剣を握る手は震えている。

「グルル…。」

 唸る地龍、一歩踏み出したのを皮切りにリアへと攻撃を仕掛け始めた。迫りくる鋭い爪を避けるが、リアが剣を振る暇もなく逆の腕が襲い掛かってくる。剣で軌道を反らそうとするが、頬にかすり血しぶきが舞う。攻撃の手は止まない。その巨体からはおよそ想像できない速さでリアを圧倒する。

 空を切る音と甲高い金属音、そして地を踏む音が混じりあい、戦闘は加速する。

 じりじりと後方へと押され、体制を整えようと距離をとったリアは、無数の氷晶が空中に現れるのを見た。

 

―コイツ、魔法を使えるのか…⁉

 

 徐々に大きくなる氷はとがり、成長の止まったものは彼女に先端を向ける。リアのいる位置が全氷塊の焦点となったとき青白く透き通った利器は、放たれた。

 無数の氷塊が、意志を持つかのようにリアめがけて殺到した。

 次々に迫りくる氷塊を全速力で切り払う。一太刀ずつが風を切り裂く鋭い一閃。残像をつくるほどのスピードで剣が舞う。

 しかし、夜目では限界があった。数弾の氷が太刀筋の網目を潜り抜け、リアの身体に命中した。その度に血が流れ、痛みを伴うが彼女は腕を振るうことをやめることができない。

 浮いていた弾が尽きてきたころ、リアは満身創痍ながらも口を塞いだ地龍の胸部と頬が膨れ上がっているのを横目で確認した。

 

―なにか…来る‼

 

 地龍が開口した瞬間、眩い光がリアの視界を包んだ。それはそのドラゴンの〝息〟であった。だがそれは息と呼んでは形容できない、破壊的なエネルギーの光線だった。

 輝く空気砲は轟音を響かせた。衝撃が空気中に伝わり周囲を揺らす。

 冷えた夜には似つかわしくない熱さを纏い、草木を焼き払うその息吹の先のリアは…いなかった。

 彼女は地龍の左方から距離を縮めていた。

 間一髪でその軌道から抜け出したリアは強く握りしめた剣を構え、地龍の足を狙う。未だ残る熱をじりじりと感じながらリアは地龍の足元へと到達した。

 

―〝龍の息吹〟は強力…故に、前後に隙ができる‼

 

 左足から右足へと体重を流し、大地を強く踏みしめる。軽くしなやかに、それでいて豪快に剣を振るった。

 電撃のように重い抵抗が刃先から筋肉へ伝わる。

 リアの目は見開き、青ざめた。

 物置で見たときには研ぎ澄まされていたはずの刀身は、折れた。

 刹那、強い衝撃とともに彼女の視界は歪んだ。気が付くと世界は横倒しになりぼやけていた。

 鞭のようにしなやかな黒い尾に突き飛ばされたリアは、勢いよく木にぶつかり、根元に力なく転がってしまった。

 

―ああ、クソ…。

 

 力はもう入らない。起き上がることさえ、できない。

 朦朧とした意識の中、土を踏む振動にリアは揺られていた。

 奴が近づいてくる。

 

―こんなものか、私の生は。

 

 月明が黒く大きな手のひらで覆われた。

 影が、降ろされる。

 

 ***

 何かが変だと、リアは感じた。

 想像していたよりも小さい打撃音。その後に漂う妙な静けさ。何よりその違和感を覚えること自体が不可思議なのである。

 本来ならば消えるはずの意識、失われるはずの視界、奪われるはずの体温、いずれもリアの肉体に残っている。

 確かに地龍はリアにトドメの攻撃を放った。それを伝える波がリアの耳にも届いていた。だが——

 死が、訪れない。

 リアの視界は影に覆われたままだったが、視界の端、地龍の巨体に食い込むように、青く細い光の筋が走っていた。

 

―あれは…。

 

 リアに見えるのは後ろ姿だけだったが、瑠璃色に似たその特徴的な髪色と長く結われた髪型で思い当たる人物は一人だった。

「デト…さ…。」

 かぼそい声が彼に届いたのか、片手で地龍の腕を抑えながらデトはちらっと倒れているリアを見た。その眼差しは相変わらず冷めたものだった。

 その隙に地龍の空いている手がデトに迫る。

 しかし、デトの拳の方がわずかに速かった。

 地龍の腹に一撃。重低音が鳴る。

 悶え、よろめく黒い怪物。

 すかさずデトは足を前へ出す。

 力強い踏み込みとともにデトの胴体が勢いよく地龍に接近し、体重を乗せた拳が腹部に直撃——雷鳴のような音が鳴り渡り、周りの木々がカタカタと小刻みに揺れ動く。

 その後信じがたい光景がリアの目に映る。

 巨体が、吹き飛ばされたのだ。

 瀕死で倒れていたリアは目を丸くした。

「なっ…!?」

 圧倒的な力でリアをねじ伏せていた怪物が、幾分も小さな身体の生物にいとも簡単に殴り飛ばされてしまった。人間の所業とは思えないその行為は遠のいていた意識が戻ってきてしまうほど衝撃的であった。

 地龍が地面に打ち付けられ、土ぼこりが舞う。

 デトは相も変わらず冷静な面持ちで歩き出した。すると、しゃがんで何かを拾ったようだった。それは刃が半分失われた剣であった。

 先ほどまでリアの握っていた剣をまじまじと見つめ、何か思うところがあるのだろうか、瞳を閉じ、深いため息をついた。そして、剣を地に突き刺して立ち上がり、ある方向へと顔を向けた。

「頑丈な野郎だな。」

 彼の見る先では、漆黒の巨体が目を赤く光らせていた。

 地龍は明らかに攻撃性が増している様子だった。大地を踏み締め、尾を唸らせている。息は荒く、リアと戦っていたときには感じられた余裕はないようだ。

「来いよ。」

 地龍が一歩踏み出す。

「お前とはいつかやらなきゃならないと思ってたんだ。」

 雄叫びと共に闇がデトへと向かった。

 

 ***

 

 黒い腕がデトの顔面を目掛け、加速していく。デトはその軌道に沿って体を逸らし、華麗に避けた。その勢いのまま、コマのように鋭く回転し、地龍の側頭部へ蹴りを叩き込む。

 強力な一撃に地龍はバランスを崩すが、屈強な脚で大地を掴み、巨体を支えた。

 ――その直後、龍の胸部が膨らむ。その仕草をリアは既に目の当たりにしていた。凝縮された光が口角から漏れ出る。放たれるのは、すべてを焼き払う〝龍の息吹〟。

 しかし、素早く懐に滑り込んだデトが掌で下顎を跳ね上げた。

 強制的に閉じられた口内。行き場を失った破壊的なエネルギーが、逃げ場を求めて暴発した。

「ガハッ…!!」

 流石に堪えたのか、地龍はよろめき、後退した。

 しかしまだ、その黒い生物の牙は折れない。再びデトを睨みつけ向かっていく。彼は止まない猛攻を片っ端から受け流し、反撃を入れていった。

 デトと地龍の荒々しい戦いをリアは呆然と見ていた。いや、見惚れていた。地龍の豪快な一打の隙をつく技量、自分より大きな相手を打ち負かす力、恐ろしい龍を前にして冷静さを保つ精神。そのどれもがリアを魅了した。心が踊り出すような感覚をリアは認識する暇もなく、ただじっと目に焼き付けていた。

 頭部から流れる血、あらゆる部位に受けた攻撃の跡。焼けた喉からする異様な喘鳴。地龍は満身創痍だった。対して、デトは頬と腹部にかすり傷のみ。勝負の行く末は明らかだった。だが、それでも、赤い眼光は鈍らない。

 すると、デトはなんと地龍に背を向けどこかへと向かった。

「えっ…。」

 思わずリアが声をあげる。慌てて口元を手で押さえ、地龍を見た。リアには見向きもせず、奴はただ、デトを後ろ姿を捉えていた。

 地龍はボロボロの身体を震わせ、一歩、また一歩とデトの背中を追う。その掌には、不自然な冷気が集束していた。現れた氷塊は鋭利な刃の形を成していく。地龍はその"剣"を握りしめた。

 デトが、地に突き刺さった"あの"剣の前で足を止める。

 彼の背後には大きな影。

 地龍の腕が、氷刃が、デトを狙い、走る。

 刹那――デトが翻った。

 折れたツルギを瞬時に引き抜く。

 反転の勢いと、地龍の体重が一点に重なる。

 デトの手にあるのは、半分失われたはずの鈍い鉄塊。それが地龍の首筋へ衝突する。

 半刀身の剣が白く輝き始める。

 光が、失われた刀身を補うように刃の形を成していった。深く首の芯へと入り込むと、一気に…

 

 明星みょうじょう暁鬼ぎょうき

 

「ェ……ギ……」

 熱く、そして鋭い一閃が地龍の首を断ち切った。

 漆黒の巨頭が宙を舞い、鮮血が夜の森を赤く染める。

 轟音を立てて大地に沈む地龍の胴体。

 静寂が訪れた。

 デトは折れた剣を握ったまま、動かなくなった巨体を見下ろしていた。

 リアはその姿に魅せられていた。

 まもなく日が昇る。

 暗い空に浮かぶたった一つの輝きがリアを照らした。

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