その恋はもう終わったの。
花散ここ
その恋はもう終わったの。
わたし──ミルシェ・ツァルダには好きな人がいる。
幼い頃からずっと好きだった彼は、ラディム・マフダル。父が友人同士という縁もあり、小さな時から一緒に遊んでいた幼馴染だ。
お互い子爵家の子どもで、年も同じ。
婚約をしているわけではないし、そういう話があがったわけでもない。
でもお互いの両親がそのつもりでいるというのは伝わってくる。ラディムのお母さんは「ミルシェちゃんがお嫁に来るのが楽しみだわ」なんて言っていたし。
わたしの両親も、その気になっていたと思う。それは、もちろんわたしも。
ラディムは優しくて、いつもわたしを守ってくれる。大事にされていると伝わってくる。
そんな彼の事が大好きで、これからもずっと一緒に居たいのだ。
でも……正直、この関係が進めばいいのにとも思う。
幼馴染で、きっと……両想い。だけど婚約者でも恋人でもない、宙ぶらりんの状態。
恋人だったら、もっと甘い雰囲気になれるのかも。婚約者だったら未来の話ができるのかも。
だからわたしは、ラディムに告白をするつもりだ。
一歩踏み出してみるのも、きっと大事だと思うから。
***
天気のいい日だった。
秋色が日毎に濃くなって、学園の木々も赤や黄色に色づき始めている。まだ夕方に差し掛かった時間なのに陽が傾き始めていて、わたしの影が静かな廊下に長く伸びた。
夏の終わりの涼しさというよりも、秋が深まる冷たい風がわたしの金色の髪を揺らしていく。ふわふわと落ち着かない髪に苦戦するのはいつものことだけど、今日はとびきり可愛い髪型にしてもらっている。
侍女たちが頑張ってくれたおかげで、夕方になっても崩れていない。
浮かれる心と比例するように足取りも軽くなる。
わたしが向かっているのは、ラディムの教室。今週末のお休みを一緒に過ごそうと誘いに来たのだ。
流行りのカフェに行くのもいいし、街歩きを楽しんでもいい。ラディムが新しいペンが欲しいと言っていたから、文具店に行くのもいいだろう。
そのお誘いをして、出来れば今日は一緒に帰って……そして、タイミングが合えば告白をしたいと思っている。
その為に今日は特別な髪型にしてもらったのだ。いつもより少しだけ濃いリップを塗って、友だちにも可愛いとお墨付きをもらった。
ドキドキと鼓動が騒がしくて、少しでも落ち着こうと深呼吸を繰り返した。
教室の近くで自分の姿を確認する。制服も乱れていない、大丈夫。
大きく息を吸って、一歩教室に近づいた時だった。
声が聞こえる。
ラディムと、男子学生の声。なにか話し込んでいるなら、もう少し待った方がいいかもしれない。
そう考えたわたしの耳に飛び込んできたのは「ラディムには可愛い幼馴染がいるからいいよな。俺も早く婚約を調えたいよ」なんて、男子学生の声だった。
その言葉に、かあっと顔が赤くなるのが分かった。
ラディムもそう思ってくれているのだろうか。彼は、なんと答えるのだろう。
「ミルシェは妹みたいなものだよ」
さらりと紡がれた声に、動揺の色はない。
彼が偽りを口にしているわけではなく、本当にそう思っていると伝わる声色だった。
「ずっと一緒に居たらそんなもんか」
「ああ。居るのが当たり前だからな。そんな風に見たこともないよ」
妹。
そう……だったんだ。
好きなのは、両想いだと思っていたのはわたしだけだったんだ。
先程赤くなったばかりの顔から、血の気が引いていく。指先が冷たい。
震える吐息を飲み込んでいると、ラディムが教室を出て廊下に出てきた。すぐにわたしに気が付いて、いつものように穏やかな笑みを向けてくる。
「ミルシェ、どうした?」
優しい声。
そんな風に名前を呼ばれたら、勘違いしちゃうじゃない。
先程とは逆の意味で、心臓がおかしい。
こんな話を聞いたあとで、休日のお誘いなんてできるわけがなかった。
上手く笑えているか不安だけど、ラディムは何も気にしていないみたいだから、大丈夫なのだろう。
それか……わたしの変化には、気付かないのか。そんな考えがよぎって、胸の奥がちくりと痛んだ。
「……ねぇラディム、さっき教室で話していたことが聞こえちゃったわ。ラディムって、わたしを……妹みたいって思っていたのね」
「そうだろ。お前は可愛い俺の妹だよ」
そう言って、ラディムはわたしの頭を撫でる。幼子にするみたいに、少し力強く。
わたしの髪型が特別なものだって、気付きもしなかった。
「わたし……わたしは、ラディムを兄や弟みたいに思ったことなんてないわ。わたし、ラディムのこと……」
わたしが何を伝えようとしているのか、ラディムも分かったのだろう。
眉を下げて、困ったように笑った。
「俺たちはそういうものじゃないだろ?」
「でもわたし達、ずっと一緒に居て……」
「それは幼馴染だからだって。今更そんなこと言われたって、俺は無理だよ」
「……そう」
そう言って、わたしは踵を返した。
これ以上、ラディムの前に立っていられなかったから。
泣きたい気持ちを必死でこらえる。
浮かぶ涙が零れないように、瞬きさえも我慢して早足で進んだ。誰にも会わないように祈りながら、真っ直ぐに前を見て。
こんなわたし、誰にも見られたくなかった。
***
翌日の昼休み、わたしは親友のサーシャ・カドレツ伯爵令嬢と共に裏庭のベンチにいた。
学食で用意されているランチボックスを膝に置いたサーシャの隣で、昨日の話をする。
話しているうちに感情が昂って、嗚咽交じりになってしまったけれど、サーシャは根気よく最後まで聞いてくれた。
わたしは昨日の夜から子どものように泣いて過ごし、今朝はもう自分でもびっくりするくらいに目が腫れていた。
慌てた侍女たちが冷やしたり温めたりと色々やってくれたおかげで、なんとか人前に出られるくらいにはなっているけれど、お化粧は諦めざるを得なかった。
ふわふわの髪をどうにかしようという気力もなく、高い位置でひとつに結んでいるだけ。わたしの瞳と同じ青色のリボンが飾られているのは、侍女の気遣いだろう。
「い、妹にしか見えていなかったって……っ。好き、っ……好きなのは、わたしだけで、勝手に勘違い、して……。告白もさせてもらえなくて、わたし、悲しいやら恥ずかしいやらで……もう、つらくて」
一度溢れた涙を止めることは出来なかった。
午前の授業はなんとか耐えた。先生の話に集中して、ラディムの事を考えないように意識した。
でも、サーシャに話をしたらもうだめだった。
嗚咽が止まらない。頬を濡らす涙を手の甲で拭うと、サーシャに手を掴まれた。柔らかなハンカチが目元に当てられる。優しい仕草にまた涙が溢れた。
わたしの膝の上にも、ランチボックスがあるけれどその包みを開けられない。食欲がわかないのだ。
昼食を食べることは諦めて、いまはとにかく泣かせてもらおう。
「あなた達は恋人のように見えていたけれど。ミルシェがマフダルさんを想っているのは傍から見ていても分かりやすかったし、マフダルさんだってあなたを大切にしていたもの」
「でも、違ったの……っううぅ……もうやだぁ……」
わたしは借りたハンカチで目元を覆いながら、ただ感情を吐露し続けた。
悲しい。苦しい。恥ずかしい。辛い。
秋風に揺れる木々がざわめく。賑わいは遠く、裏庭はひどく静かだった。
「辛い気持ちになるのも当然のことだわ。私の前では我慢しなくていいから、気持ちを吐き出して」
サーシャの言葉に鼻を啜りながら顔を上げる。
水色の瞳は気遣わしげにわたしを見つめていた。ハンカチで目元を再度押さえてから、わたしはゆっくりと息を吸った。
「わたし……これから、どんな顔をしてラディムに会えばいいのか……」
「会わなくたっていいじゃない。あなたの気持ちが落ち着いてからでいいと思うわ」
「うぅ……っ、サーシャ、ありがとう……」
泣きじゃくるしかできないわたしに、サーシャは付き合ってくれている。その優しさが胸に刺さって、もっと涙が溢れてくる。
失恋がこんなに苦しいだなんて。
世の中には恋が成就することも破れることもあるけれど、失恋をした人たちはみんなこの胸の痛みに耐えているのか。
好きにならなければよかった。でも、好きでいっぱいになっていた、あの時間は幸せだった。色んな気持ちが嵐のように胸の奥をかき回していく。
「ほら、少しでも食べましょう。きっと昨夜からろくに食べていないんでしょ」
「……どうして分かるの」
「それは私があなたの親友だからよ」
サーシャはわたしの膝にあるランチボックスを開けてくれた。小さくカットされたサンドイッチの一切れをわたしの手に持たせてから、自分のランチボックスを開いている。
ハムとレタスとチーズが挟まったサンドイッチは、食べやすいよう小さな三角形にカットされている。
角にそっとかじりつく。ハムもチーズもいつもより塩気を強く感じる。胸が苦しくて、喉に詰まりそうになりながらも、わたしはゆっくり食べ進めた。
一つをようやく食べ終えた頃、不意に足音が聞こえた。
裏庭に来る人なんて滅多にいないのに、ついていない。涙に濡れた顔を見られたくなくて俯くと、その足音の主が息を飲んだのが分かった。
「……ツァルダさん?」
覚えのある声に、思わず顔を上げてしまった。
ベンチから少し距離を取ったところに立っているのは、アレクセイ・バルツァルクさん。侯爵家の令息で、わたしより一学年上の先輩だ。
少し癖のある銀の髪が風に揺れ、紫の瞳は驚きで丸くなっている。
「……バルツァルク先輩」
ぽつりと声が漏れた。
自分でも驚くくらいにか細い声。
その声に弾かれたようにバルツァルク先輩が駆け寄ってくる。
わたしの隣に座っているサーシャが、またハンカチで頬の涙を拭ってくれた。
「どうしたんだ? 一体何が……」
ベンチの側に膝をついたバルツァルク先輩は心配そうにわたしを見ている。
下げられた眉は、わたしよりも辛そうに見えるのが不思議だった。わたしの心に寄り添ってくれている。なんだか、そう思った。
「……バルツァルクさんとミルシェは、音楽祭の実行委員会で一緒だったかしら」
サーシャがわたしの肩をそっと抱きながら、問いかけてくる。
わたしはそれに頷いた。サーシャは何か考え込むように、逆手の指先を自分の唇にあてている。
今年の夏に開催された、学園主催の音楽祭。
その実行委員長がバルツァルク先輩で、わたしは委員の一人としてご一緒させていただいたのだ。
バルツァルク先輩の指揮の元に実行委員は団結して、音楽祭は大盛況で幕を閉じることができたのである。
それからというもの、結束した実行委員たちの絆は強く、委員会が解散となったあとも交流が深まっている。
親しくさせていただいているとはいえ、この状況をなんと説明したらいいのだろう。
言い淀むわたしよりも先に、口を開いたのはサーシャだった。
「ミルシェは失恋してしまったのです」
「ちょ、っと、サーシャ!」
あまりにも直接的な物言いに、わたしの涙も止まってしまった。
それはありがたいのだけど、もう少し手心というものはないのだろうか。
適当な答えでお茶を濁しても、きっとバルツァルク先輩は納得しないというのも分かっているけれど、それでも……!
「……失恋。ツァルダさんはマフダルくんとお付き合いしていたよね?」
「いえ、お付き合いはしていなくて……わたしの、片思いだったんですけれど」
「付き合っていなかった? え? 本当に?」
確かめるような言葉に、小さく頷く。ちゃんと笑えているかは、あやしいところだけど。
この何ともいえない、居たたまれない雰囲気をどうしたらいいのだろう。
隣のサーシャに救いを求めて視線を向けるも、彼女はまだ何かを考えているようだ。
「ツァルダさん」
「は、はい!」
急に呼ばれて、思わず大きな声をあげてしまう。委員会の時の癖が残っているのかもしれない。
そんなわたしの様子を見て、バルツァルク先輩がくすりと笑う。わたしの前に跪いたまま、すっと片手を差しだしてくる。まるでエスコートをするかのように。
「急な話になるんだけれど、僕と結婚を前提にお付き合いをしてほしい。もっと願うなら婚約をしてほしいんだ。」
「……お付き合い……婚約、ですか?」
「うん。傷心中でまだそういったことを考えられないのも分かっている。でも君の傍に立つのは僕でありたいって、そう思うんだ。」
「どうして、そんな……」
突然の告白に、頭がうまく回らない。
バルツァルク先輩に婚約者は……ああそうだ、いなかった。委員会の作業中にそんな話をしたのを覚えている。
確かあの時先輩は「好きな人がいるけれど、叶わなくてね。いつか家の利になるような人と結ばれるんだろうけれど、その時までには気持ちに整理をつけるよ」なんて言っていた。
バルツァルク先輩で叶わない恋なんて、一体!? と、他の委員と顔を見合わせたものだ。
「バルツァルク先輩には、好きな人がいるのでは?」
「よく覚えているね。だからいま君に、申し込んでいるんだけど」
「えぇ、っと……その言い方だと、まるで……」
「君のことが好きなんだ」
先程よりも真っ直ぐな言葉に、顔が一気に赤くなるのが分かった。
予想外すぎて、どう答えるのが正解なのか分からない。
「もちろん、君の心がまだ彼にあるのは分かっているよ。だから今すぐに僕を好きになってほしいなんて言わない。彼を好きな気持ちごと全部、君のことを受け入れたいと思っているんだ。気を紛らわすために、僕のことを使うと思って……どうだろうか」
「どう、と言われましても……」
そんな利用するみたいなこと、出来るわけがない。
バルツァルク先輩は真面目で責任感が強くて、いつだって公平で尊敬できる人だもの。
「いいんじゃないかしら」
同意したのはサーシャだった。
考えが纏まったのか、薄い唇は楽し気に弧を描いている。
「あの距離を許しておいて妹だなんていうマフダルさんより、はっきりと気持ちを伝えてくれるバルツァルクさんの方が好感が持てるもの。バルツァルクさんならミルシェも蔑ろにしない。大事にしてくれる。……そうですよね?」
サーシャの問いに、バルツァルク先輩は大きく頷いた。
「僕は君を傷つけないと誓うよ。君のことが大好きで、とても大切な人だから。だからどうか、君の隣に立って寄り添う権利をくれないだろうか」
真っ直ぐな言葉が、心を震わせる。
バルツァルク先輩の声も、眼差しも、何もかもがわたしを想っていると伝えてくれている。
「わたし……バルツァルク先輩のことを尊敬しています。まだ、その気持ちしか……」
「尊敬してくれているなんて嬉しいな。それだけで今は充分。僕と過ごす時間の中で、いつか君の心が少しでも僕に傾いてくれたら幸せだと思うんだ」
優しい声に、涙が浮かんだ。
悲しいわけじゃない。嬉しいのとも、ちょっと違う。
ひとつ頷いた拍子に零れた涙を、先輩は指先でそっと拭ってくれた。少し熱を持った指先がなんだか擽ったかった。
***
バルツァルク侯爵家から婚約前提のお付き合いを……との申し出があって驚く両親には、ラディムとのことを全て話してある。
両親はやっぱりわたしとラディムがいつか結婚するだろうと思っていたらしいけれど、ラディムはわたしを妹としか見ていないということを告げると何とも言えない表情をしていた。
バルツァルク先輩がわたしの気持ちに寄り添ってくれたということ。今はまだ同じ温度の気持ちを返せないけれど、わたしもこれからの未来を先輩と共に歩みたいという気持ちがあること。思っていることを全部話した。
二人はわたしが幸せになるのを望んでいると、そう言ってお付き合いを認めてくれた。
ラディムがわたしを妹としてしか……という点は、両親も納得がいかないらしい。少し怒った顔をした母を父が宥める様子を見て、やっぱり両想いだと思っていたのはわたしだけではないのだと安心してしまったくらいだ。
バルツァルク先輩──アレクセイ様の気持ちを受け入れたあの日から、わたし達の関係は大きく変わった。
先輩後輩から、恋人へ。そう遠くないうちに、婚約も調う予定だ。
お付き合いをして、アレクセイ様と一緒に過ごす時間が増えた。
朝は馬車で迎えに来てくれて一緒に登校する。廊下で行き会えば優しく微笑んでくれて、何かと気にかけてくれるのが伝わってくる。
お昼などはサーシャや他の友人たちと過ごしたいだろうと、一緒に過ごす約束はしていない。そんな気遣いにサーシャからの評判も上々なのだから少し笑ってしまった。
授業が終わったあとは、お互いに用事がなければアレクセイ様が馬車で屋敷まで送ってくれる。
馬車の中では日常の些細なことをお喋りしていることが多い。お互いの好きなものとか、思い出話とか。いつしかそんな時間が楽しみになっていた。
そういう日々を過ごしていると、ふとラディムのことを思い出さなくなっている自分に気付いた。
学院の中でばったり会わないのはサーシャたちが気を回してくれているのだと知っている。でもよく考えてみたら、いつも会いに行くのはわたしだった。
わたしが会いに行かなくなっても、ラディムから会いにくることもない。だから、顔を合わせない。きっとラディムはわたしと会っていないことにも気づいていないんじゃないだろうか。
そう思うとちょっとだけ胸が切なくなったけれど……でも、そう、ちょっとだけだ。
それもアレクセイ様のおかげなのだろう。
ある日の午後。
わたしとアレクセイ様は学院の帰りに街のカフェでお茶を楽しむことにした。
朝のうちにわたしの両親には許可を取っている。アレクセイ様のそういった気配りに、両親からの好感度も右肩上がりだ。
そしてそれは……わたしにも同じことが言える。
恋人としての義務ではなくて、わたしが大事だからしてくれているというのが伝わるのだ。そういったことを積み重ねられては、気持ちが動くのも当然だと思う。
そんなことを考えながら、目の前のアレクセイ様をぼうっと見つめていた。
少し癖のある銀髪が、落陽を受けて輝いている。砂糖を落とした紅茶をスプーンで混ぜる指先まで綺麗だと思った。
わたしの視線に気付いてか、アレクセイ様が顔を上げる。目が合うと紫の瞳が驚いたように瞬きを繰り返した。すぐに照れたように笑う様子に、つられてわたしも笑ってしまう。
「どうしたの?」
「素敵な人だなって、改めて思ってました」
「そう思ってくれるのは嬉しいけど、見つめられるのはなんだか照れるな」
そう言ってアレクセイ様はカップを持ち上げた。
わたしもカップを手にしてミルクティーを一口飲んだ。まろやかな口当たりにほっと吐息が漏れる。
優しい味に後押しされるように、わたしはここ最近ずっと気になっていたことを口にした。
「あの……アレクセイ様は、わたしのどこを好きになってくださったんですか?」
わたしは取柄もなく、優秀なわけでもない。
愛嬌はあると思っているけれど絶世の美女には程遠いし、抜群のスタイルがあるわけでもない。子爵家も堅実といえば聞こえはいいが、華もなく目新しいものがあるわけじゃない。
それなのに、アレクセイ様はどうしてわたしを好いてくれたのか。
子爵家と侯爵家では家格だって釣り合わない。侯爵家がわたし達のお付き合いを認めて下さったのは、きっとアレクセイ様が説得してくれたのだと思う。
どうしてそこまでわたしを求めてくれるのか。……知りたいと思ってしまうのだ。
「実行委員会で君と初めて会って……その時には、もう可愛いなって思ってたんだ」
予想外の言葉に、瞬きさえ忘れてアレクセイ様を見つめてしまった。
アレクセイ様は恥ずかしそうにしながらも、わたしへと優しい眼差しを送ってくれている。その瞳があんまりにも甘やかで、胸がぎゅっと苦しくなった。
「一緒に活動をする中で、君のいいところをたくさん知っていった。勉強熱心で、お人好しで世話焼きで……他人の為の努力を厭わない。そんなミルシェのことを好きにならないわけがないだろ?」
優しい声に、目の奥が熱くなる。
その声に、その言葉に、アレクセイ様の想いが込められているみたい。
「わたし……そんないい子じゃないですよ。負けず嫌いだし、お節介だし、狡いところだってたくさんあります」
「うん。でもね……そういう面を見たって、君がすることなら可愛いって思ってしまうんだろうなって。それくらいに僕はもう君が好きなんだよ」
「いつか……幻滅してしまうかもしれない」
「まさか。幻滅っていうのは、理想と違った時にするものでしょ。僕は僕が見たままの君が好きなんだ」
嬉しかった。
わたしのことをちゃんと見てくれて、その上でわたしを好きになってくれた。
その言葉が、本当に嬉しくて……気付けばわたしの瞳からは涙が零れていた。
わたしの涙に驚いたアレクセイ様が、椅子から立ってテーブル越しに手を伸ばしてくる。
その手には柔らかなハンカチが握られていて、そっと涙を拭ってくれた。
「嫌だった? 気持ち悪かったかな……」
そんな言葉を零すアレクセイ様に、今度は笑ってしまった。
自分でも泣いたり笑ったり忙しいと思う。でもそれだけ自然体でいられるのだ。
「ふふ、違います。嬉しくて思わず泣いてしまいました」
「安心した。そう思ってくれて僕も嬉しいけど、でもこれからいくらでも、僕は君に気持ちを伝えていきたいんだ」
わたしの頬をするりと指先で撫でてから、アレクセイ様は椅子に座った。
アレクセイ様はわたしを想ってくれている。じゃあ、わたしは?
「わたし……」
アレクセイ様に惹かれているのは事実だ。
これからもずっと隣に居たいと思う。でも……それを口にするのが少し怖い。
「さて、紅茶もいいけどケーキも頼もうか。ミルシェは何がいい?」
わたしが何を言いかけたのか、アレクセイ様は気付いているのだろう。それを口にできなかったことも。
それには触れず、話題を変えてくれる。
心の中で安心してしまったわたしは……やっぱり、狡い子だ。
***
アレクセイ様とお付き合いをして、二か月が経つ。
秋は終わりを迎え、朝には白露が落ちて冬の訪れを告げている。
今日もアレクセイ様と共に下校をする約束をしていて、わたしは教室で彼が来るのを待っていた。陽が落ちたばかりの教室に残っているのはわたし一人。
いつも一緒にサーシャがいてくれるのだけど、今日は家の用事があって先に帰宅している。
自席で本を読んでいたわたしは、そろそろアレクセイ様が来るだろうかと帰り支度を始めた。教室には授業後も数人が残っていることも多いのだけど、試験前ということもあってみんな早く帰宅したみたいだ。
本を鞄にしまい、代わりに取り出した鏡で髪型が崩れていないか確認する。
うん、大丈夫。侍女たちが朝から頑張ってくれるおかげで、わたしの落ち着かない髪も綺麗にまとまっている。
そういえばアレクセイ様はわたしの髪型をいつも褒めてくれる……そんなことをふと思った。
毎朝会う度に「可愛い」と褒めてくれるけれど、髪型が変わったことにも気づいてくれるのだ。凝った髪型にしている時は「崩したらいけないから」と頭に触れることはないし、逆に髪をおろしている時はわたしの髪に指を絡めていることが多い。
そういったところからも、アレクセイ様の気持ちが伝わってきて……胸が、ドキドキする。
顔が熱い。わたしの心がどこにあるかなんて、もう分かっている。
アレクセイ様が笑ってくれるのが好きだ。
好きなもの、苦手なもの、色んなことを教えてくれる時の声が好きだ。
幸せでいてほしくて、その笑みが翳ることのないようにいてほしいと思う。
恋を自覚したら戻れなくなりそうで怖かった。この恋が終わってしまうことが恐ろしかった。
でもそれって……それだけアレクセイ様のことが好きなんだって、わたしに知らしめるには充分だった。
アレクセイ様が来たら、気持ちを伝えよう。
そう決めると胸の奥がぎゅっと切なくなって、アレクセイ様への気持ちがもっともっと溢れてくるようだった。
わたしを気遣ってくれるように、わたしもアレクセイ様を大切にしたい。それが出来る距離にいたい。
緩む頬を両手で押さえていると、教室の扉が開いた音がした。
アレクセイ様だ。そう思って振り返った先には──ラディムがいた。
久しぶりに顔を合わせたラディムは何も変わっていない。
短く整えられた黒髪も、優しく微笑む様子も……でも、緑の瞳だけが少し翳っているような気がする。それも気のせいかもしれないけれど。
「ラディム、どうしたの?」
自分でも驚くくらいに、心が動かなかった。
クラスメイトと同じくらいの気安さで声を掛けることができた。そのことに自分でも驚いたけれど……もう、わたしの心に彼はいないのだと、そう実感するには充分だった。
それはきっとラディムにも伝わったのだろう。
その表情からは微笑みが消え、傷ついたように眉を下げている。
「いや、その……久しぶりだな」
「そうね」
「全然会いに来ないから、どうしたかと思って……」
「ふふ、会いに来なかったのはラディムも一緒でしょう」
「そうなんだけど、いつもはミルシェから会いに来てくれてたから」
なんだ、分かっていたんじゃない。
いつもわたしが会いに行っていた。ラディムから会いに来てくれることなんて、ほとんどなかった。
ラディムはそれを分かっていたのに、会いに来てくれなかったんだ。
彼の中で、わたしがどんな存在だったのか……思い知らされるみたいだった。
胸の奥に苦いものが広がっていく。
それが表情に出ているだろうことを自覚しながら、わたしは少し笑って見せた。
「会いたかったから、会いに行っていたの」
「なんだよ、その言い方だと今は違うみたいな……」
ラディムの言葉に否定が出来なかった。
会わないように配慮してくれていたのは、サーシャをはじめとした友人たちだ。
でも、わたしも……会いに行くことを選ばなかった。それは、そういうことだ。
黙ったままのわたしに、ラディムが息を呑んだのが分かった。
「ミルシェは……俺が好きなんじゃないのか?」
「好きだったわ。ずっとラディムのことが好きだった。あの日、本当はラディムに告白をして……わたし達の関係を前に進めたいと思ってた」
「話をちゃんと聞けなかったのは悪かった。だからって『好きだった』なんて過去形にすることないだろ。そう拗ねるなって」
もうわたしの気持ちがラディムに向けられていないことを、彼も分かっているのだろう。
困ったように笑って、この雰囲気を誤魔化そうとしている。会わなかった時間も何もかも無かったことにして、『ラディムを好きなわたし』を取り戻そうとしているように見えた。
「その恋はもう終わったの。わたしは失恋したのよ」
「失恋だなんて、そんな……」
「あなたはわたしのことを、ただの幼馴染だって言ったわ。わたしが想いを告げようとしても、今更そういわれても無理だって。わたしは妹だって。……その時に、わたしの恋は終わったの」
心が凪いでいる。
あの時のことを思い出しても、心が動くことはなかった。
そんなこともあった、と思い返すだけ。
彼のことが好きだった。彼とずっと一緒に居たいと思っていた。
でもその恋は叶わなかった。だからもう、終わったことなのだ。
「ミルシェ、俺……やっと気付いたんだ。お前が俺の側に来なくなって、すごく寂しかった。俺は自覚していないだけで、ミルシェのことが好きだったんだって」
「そう。あの時に聞いていたら、きっと違う未来になっていたと思うわ」
「今からでも、また始められるだろ? 俺達、ずっと一緒に居たじゃないか」
どうしてラディムがこんなに必死になっているのだろう。
彼の言葉を借りるなら、そう──今更だというのに。
そう思ってしまう自分は、冷たい女なのかもしれない。でも、もう心は動かない。
「わたしね、お付き合いしている人がいるの。婚約も近々調う予定なのよ」
「……それは、バルツァルク侯爵令息だろ。知ってる」
「知っているなら、もうわたし達の間に何かが始まることはないって分かるでしょ」
「……ミルシェは、俺が好きだろ。俺に振られたからって、当てつけみたいに……」
ラディムの言葉に、動かないと思っていた心がすっと冷えていくのが分かった。
ぐっと拳を握りしめ、深呼吸を繰り返す。爆発しそうになる怒りを、落ち着かせるために。
「俺に嫉妬させたかったんだろ? 分かってる。そんなことをさせてしまって悪かったと思ってるよ。でもそのおかげで、俺も自分の気持ちに気付いたっていうか……」
「ふざけた事を言ってくれるなよ、ラディム・マフダル」
その声は、ラディムの後ろから聞こえた。
開いたままの扉に手を掛けて、わたし達を真っ直ぐ見つめているのは──アレクセイ様。
わたしも、振り返ったラディムも驚きに息を呑んだ。
アレクセイ様は足音を響かせながら歩みを進め、ラディムの横を通り過ぎてわたしの隣に立つ。
「嫉妬したのは君の勝手だが、彼女はそんなつもりで僕と付き合っているつもりはないと思うよ」
落ち着いているように見えて、その声には静かな怒りが宿っているのが分かる。
「……でも、俺に好きだと言った直後にバルツァルクさんと付き合うなんて……」
「マフダルくんへの気持ちが残っていても構わないから付き合ってくれと、僕がお願いをしたんだ。彼女はそれに頷いただけで、そこに他意はなかったよ」
ね? とわたしの顔を覗き込むようにして、アレクセイ様が微笑みかけてくる。
それだけで、抱えていたラディムへの苛立ちが引いていくのが分かった。距離が近くて、ドキドキしてしまう。
「始まりはそうでしたけれど、わたし……アレクセイ様をお慕いしています。もうこの手を放せないくらいに」
そう言いながらアレクセイ様の手をぎゅっと握ると、紫の瞳が驚いたように丸くなった。
癖のある銀髪から覗く耳が赤く染まっているのが見える。それを見て、なんだか可愛らしいと思ってしまったのだから……もうわたしは完全に堕ちてしまっているらしい。
わたしはアレクセイ様の手を握ったままで、ラディムへと向き直った。
「ラディム、わたし達は幼馴染。これからもそれは変わらないわ。あなたと過ごした日々はとても楽しかった」
「……そう、か」
ラディムは苦い顔をして、小さく頷いた。
それに少しほっとしてしまった。幼馴染で、好きだった人。嫌いになりたいわけじゃなかった。
わたし達が共に歩む未来は訪れなかったけれど、不幸になってほしいわけでもないのだ。
幼馴染としての楽しい思い出を、なかったことにはできないから。
ラディムはそれ以上は何も言わず、踵を返して教室を後にした。
遠ざかっていく足音が聞こえなくなって、わたしは深く息を吐きだした。
一つの区切りがついた気がする。
ラディムが伝えてくれた気持ちが本当なのか、それとも……何か違う意味で口にしただけのものなのか。それを確認する術はないし、もうわたしには必要のないものだ。
「ミルシェ、あの……」
掠れた声を厭うてか、アレクセイ様が空咳を繰り返す。
それから繋いだ手にぎゅっと力を込めたから、応えるようにわたしも手を強く握った。
「アレクセイ様、わたし……あなたのことが好きです」
気持ちを自覚した時よりも、更に気持ちが溢れた。
想いが心を揺さぶって、泣きたいわけじゃないのに目の奥が熱くなってくる。
「わたしを見てくれているとか、優しいとか、大事にしてくれるとか……理由を挙げようとすればたくさんあります。でも、そういう理由も何もかも飛び越えて、ただあなたが好きだとそう思うんです。アレクセイ様の傍にずっといたい。あなたの隣に立つのはわたしだけがいい。あなたが幸せを感じる時に、それを一緒に喜びたい。そう願うくらいに大好きです」
一度溢れた言葉は、留まることを知らなかった。
恥ずかしいという気持ちよりも、今はただ気持ちを伝えたくて仕方なかった。
想いが涙となって零れた瞬間、わたしはアレクセイ様の腕の中にいた。
背中と頭に手が回り、きつく抱きしめられている。
わたしのものではない鼓動が伝わって、力強さと伝わる熱に息が止まりそうだった。
「ミルシェ、愛してる」
抱きしめられたままで囁かれて、その声に潜む熱に眩暈がしそう。
「君の気持ちが、いつか僕に傾いたら……なんて願っていたけれど、それがこんなにも嬉しいものだったなんて。幸せなんて言葉じゃ表せないくらいに……浮かれてる」
わたしもアレクセイ様の背に両腕を回して抱き着くと、アレクセイ様の肩が跳ねた。
もう一度わたしをぎゅっと抱きしめてから、ゆっくりと力を抜いてくれる。それでもわたしはまだ、アレクセイ様の腕の中に囚われたままだ。
「婚約の話、進めていい?」
「はい。わたしの気持ちが落ち着くまで、待って下さってたんですよね」
「恋人の時間も楽しみたかったからね」
アレクセイ様はそう言ってくださるけれど、わたしの気持ちを慮ってくれていたのを知っている。
大事にされていると改めて思ったら、また胸の奥がぎゅっと締め付けられるようだった。
その想いのままに抱き着くと、アレクセイ様もまたしっかりと抱きしめてくれた。
「もう少しこのままでいてもいい? 離れたくないんだ」
「……わたしも、同じ気持ちです」
触れ合う場所から、想いを伝えあっているみたい。
その想いが溶け混ざって、わたし達の幸せを形作っていくのだ。
だからもう少し、このままで。
二人の温度が重なり合うまで。優しい鼓動に耳を澄ませながら、そう願った。
その恋はもう終わったの。 花散ここ @rainless
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