さよならキューピッドちゃん

枯尾花

第1話

 終電の窓に、街の灯りが滲む。

 冷たい空気に溶けた光の粒は細やかな輝きとなって、優しく12月の夜を彩っていた。


 駅の改札を抜け、しんと静まり返った商店街を足早に歩く。

 連日の残業で鉛のようになった重い足を引き摺り、ようやく辿り着いたアパートの階段を昇り切った時、ポケットの中のスマートフォンが震えた。

「さくら苑から……」

 画面には母が入居している施設の名前があった。

 風邪気味だと数日前に聞かされてはいたが、何かあったのだろうか。

「もしもし?」

「もしもし、市ノ木しおり様でしょうか?」

「ええ、そうですが」

「裕子さん、いえ、お母さまの症状が急に悪化されまして……病院に搬送してもよろしいでしょうか?」

 耳に響く若い介護職員の声には、少なからず緊張が含まれていた。

 胸の鼓動が、僅かに速くなる。

「お願いします。私もすぐ向かいますので」

 短く返事をするとバックを掴み直し、私はタクシーを求めて駅へと引き返した。


 救急外来で応対した医師はレントゲンフィルムを見せながら、母の病状について事細かに説明してくれた。

 消毒液の匂いと何かの機械音。カーテン越しに聞こえる看護師の慌ただしい声。

 置かれている状況にいまひとつ実感が湧かない私に、医師は静かな声で告げた。

「今日はこのまま入院して頂きますが、先ほども申し上げた通り重度の肺炎です。認知症を患われている事と、ご年齢から考えて何があってもおかしくない状態ですのでご承知おきください」

 唐突に突きつけられたその言葉に一瞬時間が止まり、頭の中が真っ白になる。

 丸い椅子に座ってバックを固く握ったまま、私は頷く事さえ出来ずにいた。


 手続きを済ませ病室の扉を静かに開くと、枕灯の淡い光に照らされた母がベッドに横たわっていた。

 酸素マスクを被せられ、掛布団の上に置かれた手には点滴の管が痛々しく繋がれている。

 いつの間にこんなにも痩せ細ったのだろう。

 まるで枯れ枝の様なその手に触れようとした時、母の瞼がすっと開いた。

 その目は私を捉えると、驚いたように大きく見開いた。

「キューピッドちゃんじゃないの。元気にしていたの?」

 思いのほか声には張りがあったが、そんな予想もしない呼びかけに、私は一瞬言葉を詰まらせた。

 キューピッドちゃん?何のことを言っているのだろう。

 ……きっと、熱か病のせいだ。

 母の脳内で記憶が過去のどこかを漂い、誰かと取り違えているのだろう。

「うん、元気だったよ」

 私は笑ってみせた。

 無理に口角を上げたその表情が、マスクを被った母の目にどう映ったのかは分からない。

「……また会えて良かった」

 母は一言嬉しそうに答えると、目を瞑ってすぐにまた寝息を立てはじめた。

「もう私の名前も忘れちゃったのかな……」

 白い手をそっと握ってみる。

 母が私の事を忘れたとしても、この手の温もりだけは今も確かにここにある。

 最後に名前を呼ばれたのはいつだったろうか。

 私は仄暗い天井を見上げて、ぼんやりとそんな事を考えていた。


「ごめんねお姉ちゃん。いつもお母さんのこと任せっきりにして」

「仕方ないよ、絵美は絵美の家庭があるんだし」

 結局一睡も出来なかった私は仕事を休み、駅前のカフェで妹と待ち合わせた。

 エスプレッソマシンが低く唸る店内には朝の光が差し込み、昨夜の出来事がまだ現実味を帯びない顔を眩しく照らす。

「それで、お母さんどうなの?重症ってことはやっぱりもう……」

「うん。けっこう厳しいこと言われちゃった」

「そっか……」

 その時ふと私は、昨夜の母の言葉を思い出した。

「ねえ恵美、キューピッドちゃんって聞き覚えある?」

「キューピッドちゃん?」

 一瞬怪訝な顔をしてこめかみに指を当てた恵美だったが、すぐに首を横に振った。

「ううん、無い。お昼の番組のマスコットじゃなくてだよね?」

「違う違う。なんか昨日、お母さんが私の顔を見てそう言ったからさ」

「へえ?うわ言みたいな感じ?」

「うーん、その時は割と意識はハッキリしていたんだよね。でもきっと、頭の中で何かと何かがごちゃ混ぜになってたんだと思う。それが熱のせいなのか認知症のせいなのかは分からないけど」

「ふうん、そっか……」

 沈黙が落ちた。

「ねえ、今のうちに生前整理、少しずつでも始めた方がいいかもしれないね……」

 ぽつりとこぼした妹の言葉が、今しがた飲み干したコーヒーとともに、苦い棘となってゆっくりと胸に沈んでいく。

「そうだ、ね……」

 私にはまだ、そんな現実と向き合う準備など全く整っていなかった。

 それなのにいつだって時間は、こっちの都合なんてお構いなしに、前へ前へと進んでいく。

 まるで私の心を置き去りにするかのように、カフェの外に響く貨物列車までもが、ガタン、ガタンと音をたてて遠ざかっていくのが聞こえた。

 

 店を出て妹を見送ると、私は少し考えてからアパートには戻らず、隣町にある実家へと向かって歩き出した。

 実家は隣町といってもここから歩いて15分ほど。

 父が亡くなった後、母が長い間一人で暮らしていた木造二階建ての一軒家は、しばらく寄り付かない間にますます薄汚れて見えた。

 母が施設に入ってからは時折私が掃除しに来ていたのだけれど、ここ最近は忙しさにかまけてそれも等閑になっていたから、荒れ放題になっていた庭から伸びた雑草が玄関口にまで届いている有様だった。

「……ただいま」

 靴を脱ぎながら、玄関で一人声を出してみる。

 応える人がいないのは分かっていても何故だかそうしないと、自分の中で収まりが悪いように思えた。

 廊下に掛けた壁時計の針は止まったまま。

 そのうち直さないといけないと思いつつ足を進め、私は二階にある和室の襖を開いた。

 母の寝室だったこの部屋は、他のどの部屋とも違う柔らかい匂いが残っている。

 褪せたカーテンの隙間からこぼれる陽光が、鏡台に反射して部屋を明るく照らしていた。

 タンスの引き出しを一段開けると、そこにはもう使われることの無い衣類たちが丁寧に畳まれていて、少しだけ胸がきゅっとなる。

 鏡台の上には香水の染み付いた花柄の化粧ポーチ。向日葵を模したブローチ、そして、青いスウェード調の箱に入れられた真珠のネックレス。どれも母の愛用品だった物だ。

 私はその隣にある本棚に並べられた、アルバムに目をやった。

 私たち姉妹が生まれてからのものや、母の青春時代のもの。その中でも少し上等な革の装丁が施された一冊のアルバムを、手に取ってみた。

 こげ茶色の表紙は所々剥がれて、金色の縁はくすんでしまっている。

 開いてみるとそこに、若かりし頃の母が笑っていた。

「うわぁ全然変わってない……」

 ショートカットのくせっ毛で、照れたようにカメラを見つめる母。

 何枚か頁を捲っていくと、そこに大きくなったお腹を嬉しそうに撫でる母がいた。

 そこからしばらくは、どの頁を捲っても、赤ん坊だった頃の私の写真が貼られていた。

 幼いころ、母に聞いた事がある。

 私が産まれる時、母はそれはそれは大変な目に遭ったそうだ。

 具体的に何がどう大変だったのかは、母も父も教えてはくれなかったが、それこそ死に目に遭うほどの思いをしたらしい。

 そんな事があったからなのか、膨大な数の私の写真がそこには収められていた。

「え?」

 私の目はふいに飛び込んできた、私を抱いた母が写った写真の隅に書かれた、小さな文字にくぎ付けになった。

 そこには母の字で、―ありがとう、キューピッドちゃん―とあった。

「キューピッド……ちゃん……」

 私は思わずそう呟いた。

 その瞬間、眩い光がアルバムから放たれ、私は「あっ」と小さく声を上げると、そのまま意識を失った。



 そこは、真っ暗な場所だった。

 自分が息をしているのかどうかさえ分からない。

 それでいて優しくて、温かい。まるで上質な毛皮に包まれているかのような安心感があった。

 やがて目が慣れてくると、そこには暖かな色があって、赤や金が混ざり合いながら、私をそっと、薄い膜のようなものが包み込んでいた。

 トクン、トクン――。

 鼓動のような音がどこからか響いて、ゆっくりとリズムを刻む。

「……ここ、どこ?」

 問いかけた声が、膜を震わせて泡のように消える。

 すると、どこからかまた優しい声が返ってきた。

「ねえきっと……無事に産まれて来てね」

 声と同時に温もりが伝わる。

 ああ……なんだか懐かしい声。それは、まぎれも無く母の声だった。

 どういう事なのだろう。

 それに、ここは一体……。

 考えようと思っても言葉の輪郭はぼやけ、思考はまるで靄がかかったように曖昧になる。

 それに、なんだか少し息苦しい……。

 もうこのまま眠ってしまおうか?そう思ってしまうほど、気を張っておかないと意識はすぐにでも遠のいてしまいそうになった。

「大丈夫、大丈夫……」

 母の手に触れられている感覚がした。

 幼い頃に、寝かしつけながら髪を撫でられた時のことを思い出す。

「大丈夫、大丈夫よ」

 そう繰り返しながら、何度もお腹をさする優しい手。

 その心地よさに、微睡むように私は再び意識を失った。


 次に気が付いた時、私は四畳半ほどの和室を上から見下ろしていた。

 その部屋に置かれた、和室の半分を占めようかという大きなクイーンサイズのベッド。このベッドには見覚えがある。母が使っていたものだ。

「裕子、起きてるか?体調はどうだ?」

 そこに誰かが入ってきて優しく声を掛ける。

 この人物にももちろん見覚えがあった。若かりし頃の父だ。

 私の知っている父と違って随分と細身でスマートだったけれど、その穏やかな物腰は若いころから何も変わっていなかった。

「裕子、大丈夫か?」

 父はベッドに腰を下すと母の肩に手を置き、もう一度優しく声を掛けた。

 目をこすりながらゆっくりと体を起こした母は、「おはよう」と微笑んだ。

 多少の陰りはあるものの母の顔色は良く、肌の血色も良いように見える。

「もうそんな時間なのね。ごめんなさい、何も出来なくて」

「何を言うんだ。君に負担はかけられないよ。僕のことは気にせず、君は君とお腹の赤ちゃんのことだけを考えてくれていればいいんだよ」

「ありがとう。でもお医者さんにも少しずつ動くようにいわれているし、昨日だって買い物にまで行けたんだから。今日はこの辺りを少し散歩でもしてみようかしら」

「おいおい、あまり無理はしないでくれよ」

「ええ、わかっています。安定期に入ってようやく落ち着いてきたんですもの。この子のためにも絶対に無理はしないわ」

 そう言うと、母はまたお腹をゆっくりと、何度もさすった。

「もう少し、あと少しだ。」

 父はお腹に置かれていた母の手に自分の手を重ねた。

「ええ、そうよ。もうあとひと月、ふた月もすれば、この子が私たちに会いに来てくれるわ」

 父はゆっくりと頷き、「じゃあ、行ってくるよ」そう言って立ち上がった。

「行ってらっしゃい」

 父を見送ってから母は、ゆっくりと起き上がり窓を開けて朝の陽光を浴びた。

 顔を洗ってお茶を沸かして、冷蔵庫の中からジャムを取り出し、一匙すくって舐めた。

 そのひとつひとつの動作の折に、必ず母は愛おしそうにお腹を撫でた。

 それから母は着替えを済ませると、文庫本を一冊お供に、近所の公園へと出かけて行った。

 距離にして200mほどの間を、時間をかけて慎重に歩いていた。

 母はずっと笑顔だった。

 散歩中の大きなコリー犬とすれ違う時も、植込みに咲くツツジの花の香りをかぐ時も、年配の集団に口々に話しかけられた時も、穏やかな笑みを絶やさなかった。

 そしてその度に決まって、ゆっくりと撫でながら、お腹に向かって何事かを話しかけていた。


 しばらくして母は公園のベンチに腰を下した。

 そして持ってきた文庫本をパラパラと捲って栞を抜き出すと、文字の世界へと入っていった。

 やがて穏やかだった風が少しだけ強さを増した頃、ふと母が顔を上げると、いつの間にか空には鈍色の雲が立ち込めていた。

「大変。雨が降る前に帰らないと」

 栞を挟んだ本を片手に、母は自宅へと向かって歩き出した。

 焦る声とは裏腹に、帰り道もゆっくりと慎重に歩を進めることに変わりはなかった。

 途中、公園の出口の辺りで母の横をよたよたと女の子が歩いてきた。

「あら?」

 覚束ない足取りからみて、女の子は2歳ぐらいだろうか。

「待ちなさーい」

 声に振り向くと、遠くから身重の女性が手を振っているのが見えた。

 ああ、この子のお母さんも妊婦なんだ。大変だな。

 母はきっとそう思っただろう。

 そしてゆっくりと向き直ったその時、その子は車道へと足を踏み出していた。

 急ブレーキの金属音、軋むタイヤの悲鳴にも似た叫び。

「危ないっ!」

 おそらく母は、考えるよりも早く身体が動いていたに違いない。

 投げ出した文庫本が宙を舞う間に、女の子の腕を掴んで後ろへ投げ戻す。

 女の子に代わって車道に倒れ込んだ瞬間、母の視界にそれはどう写ったのだろうか。

 猛スピードで突っ込んでくる稲妻のような黒いバイク。

 衝突音が空を裂き、

 誰があげたかもわからない悲鳴が、辺りに響いた。



 苦しい、苦しい、苦しい!

 今まで感じたことがないような激しい痛みが私を襲う。

 気づけば私は、凍てついた海の中に身を投げ出されたかのように、刺すような冷たい水の中を一心不乱にもがいていた。

 苦しい、痛い!

 誰か、誰か助けて!

 このままじゃ、死んじゃう!

 けたたましいサイレンの音。

 ―妊婦……八か月……多量に出血―

 どこからか聞こえてくる喧騒。

 肺の奥が凍りついたように、息を吸うことも吐くことも出来ない。呼吸そのものが拒絶されたかのようだ。

 全身の痛みはやがて麻痺へと変わり、手も足も全てが、自分のものでは無いように感じられた。

 助けて……助けて……。

 もがき続けていた私だったが、だんだんと体に力が入らなくなっていた。

 「助けて……お母……さん」

 このまま私は息絶えてしまうのだろうか。

 イヤだ……絶対にイヤ。

 そう思っても体はますます重みを増し、意識は遠のいていく。

 もう手を伸ばす気力も尽きかけた時、見上げた暗闇の向うに、一筋の光が見えた。

「待って!ダメよ!」

「……?」

 どこからか声が響く。

「お願い!待って!行かないで!」

 声と同時に、闇の中にあった光から、すっと白い手が伸びてきた。

「……お……母……さん?」

「ごめんね、痛かったね、辛かったね。あなたを守らないといけないのに……。でも私はあなたを離したりしない。絶対にあなたを産んでみせる。絶対に離したりなんかしないから!」

「お母……さん」

「あなたはキューピッド。私とあなたを待ってる世界を繋ぐキューピッドよ!さあ、手を伸ばして!諦めないで!みんな待ってる。私も、あなたのお父さんも、そして世界中みんなが、あなたが産まれてくるのを待ってるの!お願い、どうかその手を伸ばして。私のもとに……どうかお願い!私の子供になって私と生きて!」

 叫びと同時に、伸びて来た手が私の手を掴んだ。

 お母さん、生きたい……私もあなたのところに……あなたと一緒に生きたい……。

「さあ!どうかこの手を掴んで!」

 私は最後の力を振り絞った。

 もうどこにも気力なんて残っていない。

 だけど今、この手だけは握り返さないと……。

「……お母さ……ん」

 ぎゅっと母の手を握り返したその瞬間、私の手と母の手が一つになった。

 眩い光。

 目が開けられないほどの光に包まれて、私の前に新しい世界が広がる。

 息が、息が出来る!

 あたたかい、とても眩しい世界。

 私、生きてる。

 いま私、生きてる!

 私は叫んだ。

 力の限り。

 生きてる!生きてる!生きてる!

 産まれたのよ私!

 ありがとうお母さん、私はここに産まれてきたの!

 そう叫び続けた。

「生きてる!生きてるぞ!」

「奇跡!奇跡だ!」

 口々に聞こえる誰かの歓喜の声。

「まあまあ、こんなに元気に泣いて……」

「さあ、抱いてあげてお母さん」

 そっと誰かが母のお腹の上に私を乗せた。

「……ああ、やっと会えた……」

 私を包む優しい手。

「……生まれて来てくれて、ありがとう」

 私の方こそ……ありがとう。

 ありがとうお母さん……。

 母の腕に抱かれながら、私はずっとずっと泣き続けた。



「あれ?」

 気づけば私は、母の部屋で蹲っていた。

 部屋は薄暗く、カーテンの外はもうすっかり日が落ちている。

「……夢?」

 夢にしては長い夢だった。

 昨夜の寝不足がたたったのだろうか?

 ぼんやりとした頭で体を起こし、のっそりと体を起こす。

 その時、カーペットに放り出されたスマートフォンが激しく振動した。

「……もしもし?」

「ああ、やっと繋がった!」

 声の主は妹だった。

「恵美?どうしたの?」

「病院から連絡があって……お母さんが危篤だって!お姉ちゃんに何度も電話したけど繋がらないって言われて、今どこにいるの?」

「お母さんが、危篤?」

「ええ、すぐ来てくれって。私もすぐに向かうけどお姉ちゃん……」

 私は返事もせずに通話を切ると、そのまま病院へと向かって走り出した。



「今しがた意識は取り戻しました。ですが危険な状態であることは変わりありません」

 医師は駆けつけた私に口早にそう言って、すぐに病室へと通してくれた。


「あら?キューピッドちゃん……」

 ベッドに寝かされたままの母は、私を見ると嬉しそうに微笑んだ。

「ねえ、キューピッドちゃん聞いてくれる?」

「あまり喋らない方がいいわ。安静にしておかないと」

「ありがとう。でも大丈夫……ねえ、聞いて。私ね、産めたの。ちゃんと無事に女の子を産めたのよ」

 その言葉に私は、一瞬言葉を失った。

 そして、一呼吸置いてから、

「……おめでとう」

 鼻の奥がツンとなるのを堪えて、そう声を絞り出した。

「……かわいい女の子だった?」

「そりゃあもう……かわいいのなんのって……」

 マスクの下の顔をくしゃくしゃにして、母は笑った。

「大変だったものね……あの時」

「そう、大変だった。あの子を死なせてなるものですかって必死だった……でもね」

「ん?」

「もちろんあの時も大変だったけど……それよりも大変だったのは、実はその後なの」

 母はそう言って茶目っ気たっぷりに笑ってみせた。

「えっ?どういうこと……?」

「ふふふふふ。あの子が私のところに生まれてきてくれてね、毎日が天国だった。そりゃそうよね。天使と一緒に暮らすんだもの。本当に天国にいるような心地で毎日過ごしたわ。あの子の寝顔を見て、お腹をすかせたらおっぱいをあげて、泣きだしたら抱きしめてあやして……。夜中じゅう泣き止まない夜には、一緒に子守唄を歌って朝まで過ごしたこともあった」

「……うん」

「そのうちに寝返りを打つようになって、あっという間にハイハイが出来るようになったと思ったら、いつの間にかつかまり立ちが出来るようになっていたの。そしてあの子がテーブルの脚から手を離して歩いて見せたあの瞬間!あの時の感動は今でもよく覚えてる。そこにお父さんもいて、二人で大はしゃぎしたの。もう一回歩いてごらんって何度も催促したりなんかして……」

「へえ……」

「それからは一緒に公園に出かけて……そこで初めてのお友達も出来た。みんなで遊んでいても、あの子は自然とグループの中心にいるような子だったの。生まれ持っての性格かしらね?もう少し後に妹も出来るんだけど、性格で言えばそうねぇ下の子の方が私と近いかしら。とにかくあの子はリーダー気質だったから、泣いているた子がいたら、ほっとけなくて一緒に遊んであげる。そんな子だったの」

 不思議な事に語り始めた母の顔は、本当に病を患っているのかというほど聡明で、活気に満ち溢れていた。

「それでも初めて幼稚園に通った日は心配したわ。いくらしっかり者だって言っても、あの子はまだ五歳だものね。近所のお母さんたちと帰って来るのを待ってても、最初のうちはお友達とうまくやっていけてるのか気が気じゃ無かったわ。だけど私の心配を余所に、あの子はすくすくと大きくなっていった。小学校でも相変わらず『曲がったことが大嫌い』な性格だったから、男の子とぶつかったりもしたみたい。確か5年生の頃だったかしらね。いじめっ子と大喧嘩して、あの子がバンっと机を叩いた拍子にひっくり返った花びんで窓ガラスが割れて、大騒動になったの。私も学校に呼ばれて一緒に謝ったりして。あの時は本当に驚いたわ」

 ……そう言えばそんなこともあったっけ。私でも忘れていた事を認知症の母が覚えていたなんて……。

「そんな子が中学生になったら吹奏楽部に入ってクラリネットを吹きたいなんて言うんだから、わからないわよねぇ。でもこれで少しはお淑やかになるかしら?なんて思って私、パートで貯めたヘソクリをはたいてクラリネットを買ってあげたのよ。安物じゃないわよ、そこそこのやつ。それなのにあの子ったら、先輩からおさがりを貰うからいらないだなんて言って……今思えば反抗期の始まりだったのね、きっと。それから朝起きても口を聞かない日があったりして。でも、卒業式の日にボソッと、『今までお弁当ありがとう』って言ってくれた時はね、嬉しかった」

「……………………」

「高校生になったらますます私の言う事なんか聞かなくなってね。夏休みにいきなり髪を金色に染めてきた時はさすがに怒ったけど……でも、いつの間にか、本当にあっという間に、大人になっていくあの子が私には眩しかった。受験生になって進路はどうするのって聞いたら、いきなり『私、弁護士になる』って言いだして、それからは毎晩猛勉強。毎日遅くまで頑張るあの子のために私も夜食を作ってあげたりして……その頃には私たちは古い友人のように何でも言い合えるようになってた。そして合格発表の日。嬉し泣きするあの子を見て、私も涙が止まらなかった。大学生活のために一人暮らしを始めたと思ったらあっという間に卒業を迎えて社会人。弁護士事務所に勤めて資格を取って、今も頑張っているあの子のおかげで私も毎日穏やかに過ごせているの。……いつも電話ではそっけないけど、いつだって並々ならぬ努力をしてきた事を、私はちゃんと知ってるのよ」

「……お母さん」

「こうやって振り返ってみて……幸せだった。私の人生……いいえあの子と歩んだ人生、ね。ねえキューピッドちゃん、私は良い母親だったかしら?あの子も私と同じように、ああ幸せだった、そう思ってもらえているかしら……」

「お母さん……」

「もうすぐさようならの時間ね、キューピッドちゃん。こうやって悔いなくこの世から去れるのも、あなたのおかげ。あなたが私のもとに生まれてきてくれたから……本当に……ありがとう……」

 私は思わず立ち上がって叫んだ。

「お母さん、私、幸せだった!あなたの子として生まれて、本当に、本当に幸せだった……だからお願い、さよならなんて言わないで……」

 すがる私を優しく抱き寄せ、母は黙って首を振った。

「お別れはいつかはやってくるの。でも大丈夫。私はずっと、あなたを守る。あなたの傍にいつもきっといるわ。さようならキューピッドちゃん。いいえ、さようなら……しおり」

「……お母さん。いま……名前、呼んでくれた……」

「しおり、元気で……」

 私は母の腕に抱かれながら、泣いた。

 産まれ出たあの日のように、ずっとずっと母のお腹で、泣き続けた。



 四十九日も滞りなく済むと、私はひとり、実家に立ち寄ってみた。

 相変わらず柔らかな香りを残したままの母の部屋。

 そこに残された、あの一冊のアルバム。

 開いてみると不思議な事に、あの日見た―キューピッドちゃん―の文字は、どこにも見当たらなかった。

 私は少し考えてから、鞄の中からサインペンを取り出し、写真に一言添えてみた。


 ―またね、お母さん―


 さようならは言わない。

 だって母はきっと、これからも私とともに歩いていてくれるはず。

 アルバムをぱたんと閉じる。


 私を抱いた写真の中の母が、にっこりと微笑んだ。

 そんな気がした。

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さよならキューピッドちゃん 枯尾花 @atono-maturi

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