祝間

shiso_

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 金曜の夜だった。


 居酒屋の個室は、十二人でちょうど埋まる広さだった。座敷の端に座ると、襖の隙間から廊下の明かりが細く漏れていた。


 乾杯まで、あと数分あった。


 先輩は上座にいた。いつもと同じ姿勢で、少しだけ背中を丸めて、隣の課長の話を聞いていた。


 私はその斜向かいに座っていた。近くはない。遠くもない。話しかけるには遠く、目を合わせるには近い、そういう距離だった。


 誰かがビールを注いでいる音がした。グラスに当たる瓶の、軽い音。まだ何も始まっていないのに、空気がすこしずつ変わっていくのがわかった。


 課長が立ち上がった。


「じゃあ、そろそろ」


 声が響いて、部屋の会話が止まった。


 全員がグラスを持った。私も持った。持ち上げた瞬間、グラスがいつもより重い気がした。気のせいだと思った。

 思ったけれど、その重さは、乾杯が終わるまで消えなかった。


「鈴木さんの、新しい出発を祝して」


 課長がそう言った。先輩の名前が、部屋の空気に落ちた。


「乾杯」


 グラスが鳴った。


 音は思ったより短かった。

 ガラスが触れて、離れて、それで終わり。

 きれいな音だった。

 でも、響かなかった。

 天井にも壁にも当たらず、そのまま真ん中で止まって、消えた。


 私は先輩のほうを見た。先輩は笑っていた。 

 彼のいつもの、少し困ったような笑い方だった。


 乾杯の音が止んだあと、拍手が来た。


 十一人分の拍手は、思ったより厚かった。音の層が重なって、私の胸のあたりを少し押した。拍手は先輩に向かっているはずなのに、私のほうにも当たっていた。


 違う


 これは、先輩を送り出す音じゃない。私たちを、残す音だ。


 拍手が終わっても、手のひらがまだ痺れていた。

 空気が止まって、また動き出すまでの数秒、私は何も考えられなかった。


 宴会が始まると、部屋の空気が緩んだ。


 料理が運ばれてきて、ビールが減って、声が重なり始めた。私は目の前の枝豆を摘みながら、斜向かいの先輩をときどき見た。見ているつもりはなかった。でも、視線が勝手にそっちへ動いた。


 先輩は課長や同期と話していた。笑って、頷いて、グラスを傾けて。いつもの先輩だった。でも、いつもと何かが違う気がした。


 何が違うのか、わからなかった。


 隣の後輩が話しかけてきた。来週のプロジェクトの話。私は相槌を打ちながら、半分だけ聞いていた。後輩の声と、先輩の声が、距離のわりに同じくらいの大きさで聞こえた。


 先輩のほうが遠いのに。


 私は気づかないふりをして、ウーロン茶を飲んだ。氷がグラスの中で動いて、小さな音を立てた。


    ◇


 一時間が過ぎた。


 誰かがスピーチを始めた。営業部の山田さんだった。先輩と同期入社で、一番付き合いが長い人。


「鈴木は、最初から変わらないやつで──」


 山田さんはそう言って、少し笑った。


「何考えてるかわかんないけど、気づいたらそばにいる。そういうやつでした」


 部屋の何人かが頷いた。先輩は黙って聞いていた。


「新しい場所でも、元気で」


 山田さんがグラスを上げた。また拍手が来た。


 さっきより短い拍手だった。でも、さっきより近くで鳴った気がした。

 音が私のすぐ横を通り過ぎて、先輩のところへ届いて、そこで止まった。


 先輩が「ありがとうございます」と言った。


 その声を聞いた瞬間、先輩が遠くなった気がした。


 席は動いていない。距離も変わっていない。なのに、さっきまでより遠い場所にいるように見えた。


 言葉が関係を変えるのだと、そのとき初めて知った。

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