定年オヤジ、剣より会議で世界を救う

塩塚 和人

第1話 「定年式のあと、なぜか地下に落ちました」


久我恒一(くが・こういち)、六十五歳。

本日をもって、四十二年間勤め上げた会社を定年退職した。


退職式は、想像以上にあっさり終わった。

社長の短い挨拶、花束、寄せ書き。

拍手はあったが、長くは続かなかった。


――まあ、こんなものだろう。


恒一は笑顔を作り、深く一礼した。

胸の奥に残ったのは達成感というより、拍子抜けに近い感覚だった。


「久我さん、本当にお疲れさまでした」


若い総務の女性にそう言われ、恒一は思わず背筋を伸ばした。

最後まで“総務部課長”の癖が抜けない。


会社を出ると、空はよく晴れていた。

ネクタイはそのまま。

革靴も磨いたばかりだ。


「さて……帰るか」


そう呟いたとき、声をかけられた。


「すみません、見学されます? 今だけですよ」


振り向くと、再開発工事の関係者らしい若い男がいた。

会社のすぐ裏、地下鉄延伸工事の現場だ。


「危なくはないんですか?」


「今日は安全確認済みです!」


その言葉に、恒一は軽くうなずいた。

長年の会社生活で、“確認済み”という言葉に弱くなっている。


ヘルメットを借り、簡易通路を進む。

コンクリートの匂い、機械音。

地下へ、地下へ。


次の瞬間だった。


 ゴンッ という鈍い音とともに、足元が消えた。


「え?」


思考が追いつく前に、体が落ちる。

視界が回り、ヘルメットが外れた。


――あ、これは危ないやつだ。


そう思ったところで、衝撃。


幸い、痛みはそれほどなかった。

だが、視界は薄暗く、周囲はコンクリートではない。


「……ここは、どこだ?」


立ち上がると、足元は石畳。

壁には、ぼんやり光る不思議な模様が走っている。


「地下鉄工事……ではないな」


そのとき、背後から声がした。


「おい、あんた! 大丈夫か!」


振り向くと、若い男女が三人。

全員、妙に軽装で、剣や杖のようなものを持っている。


――コスプレ?


そう思ったが、空気が違う。

冗談にしては、全員真剣な顔をしていた。


「ええと……こちらはどこでしょうか」


恒一が丁寧に聞くと、三人は顔を見合わせた。


「……新しいNPCか?」


「いや、スーツ着てるぞ?」


「運営、攻めすぎじゃない?」


意味がわからない。


「失礼ですが、私は久我恒一と申します。

 先ほどまで地上に――」


その瞬間、視界の端に半透明の板が浮かび上がった。


――ステータス表示。


【名前:久我 恒一】

【年齢:65】

【職業:元・総務部課長(定年)】


「……なんだ、これは」


三人が吹き出した。


「元・総務部課長って!」

「定年て書いてあるぞ!」

「弱そう!」


恒一は眉をひそめた。


「笑い事ではありません。

 ここがどこか、説明を――」


さらに文字が流れる。


【スキル】

・根回し

・会議進行

・責任回避(中)


三人の笑いが止まった。


「……え?」

「根回し?」

「それ、レアじゃね?」


恒一は深く息を吐いた。


――どうやら、私はとんでもない場所に来てしまったらしい。


遠くから、低いうなり声が響く。

石畳が、かすかに震えた。


「課長……じゃなくて、久我さん」

一人が言った。

「ここ、ダンジョンです」


恒一はネクタイを正し、静かにうなずいた。


「なるほど。

 ではまず、現状確認から始めましょう」


三人は顔を見合わせた。


こうして、

定年初日。

久我恒一の“再就職先”は、地下三階に決まった。


――勇者ではない。

――だが、課長は、ここにいた。


(第1話・完)

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